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第二話 境界線



今日は恒一の声より先に目が覚めた。

朝四時三十七分。

なんだか頭がぼーっとする。

体もふわふわしているように感じた。


『ふっ、動揺しすぎ、無理すんなよ』


ふと思い出すあいつの言葉。

何気ない一言が刺さっている。

うるさいくらいに脳内再生される言葉たち。

私どうしちゃったんだろう。


「…頓服飲んどこ」


「澪ちゃん朝早いね、おはよう…薬なんか飲んでどうしたの?調子悪い?」

「んー、ちょっとね、薬が合ってないみたいで調子が悪くてさ、頓服飲んだ」


食欲はなかったが、ご飯を少し食べ、乗り気ではない仕事へ向かう。

ここ最近楽しかったあの感情はどこへ…という感じだった。

自転車も重く感じる。

心なしか人の目も気になる。

考えなくていいことまで今日はやけに気になった。

家から職場までは十分ほどなのにその道ですら遠く感じる始末。


「…おはようございます」

「おー、澪今日は早かったな…ってなんか顔色悪いぞ?大丈夫か?」

「うん、大丈夫…今日も頑張ろうね…!」


無理をして明るく振舞う。

絶対後でガタが来る。

そんなのこの私がよく知っている。

でも仕事は仕事。

割り切ってやらなきゃ。


朝の準備。

お決まりのあの場所へ行く。

昨日までは嫌だったが今日はあまり気にならなかった。


「澪さんおはようございます! …?なんか元気なさそうですね?」


後輩の祐樹。

あいつと同じ班の年上だが私によく懐いている。


「ん?なんもないよ! 気にしないで!」


自分を取り繕った。

なんもないなんて嘘。

でも自分でもどうしてこうなっているのかは分からなかった。

朝飲んだ頓服が邪魔して仕事の効率が下がる。

悪循環だ。


「澪―?おーい、出発するぞー」

「あ、うん。ごめんちょっとぼーっとしてた」


体がふわふわして自分が自分じゃないみたいだ。

昨日までの元気はどこに行ったんだろう。

そして、どこかであいつに会えないかな、と考えていた。

そんな時だった。


「無理してる顔してるぞ、祐樹に聞いた。無理すんなよ」


え…?

なにそれ。

あいつ…なんで優しいの?

嫌いなはずなのに考えてしまう。

心がざわっとした。


「…無理なんかしてないし」


そして何もなかったかのように塵芥車に乗り込む。

しかし私のメンタルは限界まで来ていた。

仕事に集中しようと無理に仕事の話をしていた。


「あ、今日ってあの細かいところだったっけ、現場チェンジされたところだよね」

「それがどうかしたか?」

「ん、いや、今日も安全に終わるといいね」


自分から話を振ったがどこか上の空の澪。

病院に早くいきたい。

だが、皆勤賞の私にとって休むのは気が引ける。

それに細かい現場だから早退するわけにはいかない。

でも頓服の効きが強くてふらふらするほどだった。


「ごめん、課長に電話して代わりの人見つけてもいいかな、ちょっとダメみたい」


そうして、現場が始まる前に早退することにした。


「恒ちゃんに電話…あ、今日取引先の人と打ち合わせって言ってたっけ…」


自転車を漕ぐ元気もなく、押して帰ることに。

迷惑かけちゃったな…

そんな時でもあいつ…蓮の事ばかりが頭をめぐっていた。

今はそんな場合じゃない。

病院に電話しなきゃ。


「今日予約してた水城澪ですけど、少し時間を早めてもらってもいいですか」


夕方六時に予約していたのを午前十時に変えてもらい、帰ってすぐに病院に向かった。

道中、昨日からの出来事で頭がキャパオーバーし涙が止まらなくなった。


今までの恒一の優しさ。

蓮の突然の何気ない優しさ。

そして——


恒一への嘘。


何もしてないのに…ただ頭の中から離れないだけなのに…


全てが入り混じって心臓が痛くなった。

呼吸もまともにできなくなり、過呼吸に。

何とかしなくちゃと思う度、その症状たちは酷くなっていった。

病院のすぐそばで私は蹲ってしまった。


午前九時四十五分。

蓮は成瀬メンタルクリニック近くの足場解体を行っていた。

会社からはそこまで遠くなく、作業もいつもよりゆっくりやっていた。


「蓮ー!! 落とすぞー!!」

「はい、いつでも…ちょっと待ってください」

「…?どうした?ってあれ澪じゃないか?って蓮お前…」


蓮は作業の手を止め、蹲っている女性、澪のところに駆け寄った。

なぜかはわからない。

ただ、昨日まで見てきた強気の澪とは違ったから。

そんな彼女のことを見ていたら、体が勝手に動いていた。



だんだん遠くなる周りの音。

うるさくて仕方ない工事の音ですら自分の呼吸でかき消される。

気が付いたら私はその場に倒れていた。

誰かが私に声をかけている気がする。

聞き覚えのある低い声。

恒ちゃんではないか…


「おい! 大丈夫か!」

「蓮! 澪の鞄開けさせてもらえ! それ発作だ!」


誰かということも認識できず言葉に対して頷くか首を振ることしかできなかった。

意識が薄い中、少し安心もしていた。

一人じゃない。

それだけで良かった。

徐々に戻る意識、呼吸。

そして知る現実。


「なんで…」

「少しは楽になったか?鞄、開けさせてもらった。そこの病院だったんだな。病院の中まで着いてってやるからゆっくり立て」


仕事中にもかかわらず歩くのを補助してくれる。

その行為に少し安心感を覚えた。

と共に襲ってくる罪悪感。

どんどん増えていく恒一への隠し事。


「ここでいいから…歩けるし」

「無理すんなって言ってんだろ、良いから、な」


優しさの暴力。

私はまた泣きそうになってしまった。

というか泣いていた。

それを見た蓮。

目を丸くさせ驚いているようだった。

そのあと安心させるかのように少し微笑んだ。


「ちょっと佐々木さんに事情話して俺ついててやる、待ってろ」


何でこんなに優しいの…?

私だよ…?

仲が悪いあの私だよ…?

なのに何で…

なんで笑いかけるの…?

何で一緒にいてくれるの…?

訳わかんない…



現場では大騒ぎになっていた。

あんな澪を皆見たことがなかったからだ。

確かに精神疾患を持っていることはわかっている。

だがそんなになるほどだとは思っていなかった。

足場班の指揮をとっている大輔は会社に連絡したりしていた。


「すみません佐々木さん、あいつの病院終わるまで着いててやってもいいですか、現場ストップしちゃうのは分かってるんですけど」

「おう、着いててやれ、会社にはそのことも伝えておく」


状況がうまく整理できず困惑する澪。

病院の中に入る前にまたぽろぽろ泣いていた。

感じたことのない優しさについていくことができなかった。

その優しさに触れる度心が痛くなる。

恒一を裏切っているのではないかと。


「なんで…なんで私に優しくすんの…ばか…ばか…」

「なんでって…ふっ、俺にもわかんねぇよ」


「だけど放っておけねぇんだよすぐ無理するから」


蓮の胸元を叩きながら澪はその場に崩れ落ちた。

蓮はそんな澪の背中をさすって落ち着かせるようにこう言った。


「今は頼れ」


互いに自分が今どういう心境なのかわからない状態だった。


澪は、なぜ自分がこんなに優しくされるのかわからず。


蓮は、なぜこんなにも澪から目が離せなくなってるのか。


この出来事が後に誰も予想できない関係に繋がる事になるとは知らずに——



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