第一話 まだ何も始まっていない
彼女はこのとき何も知らなかった。
後に彼がどういう存在になるかを。
彼も知らなかった。
彼女がどういう存在になるかを。
夫も知らなかった。
この幸せが―――
破滅の道に向かうことを。
澪「このときは何も知らなかった。
自ら幸せを壊すなんて。
悔いても何も戻ってはこない。
恒一は許してくれた。
だけど心に残っているこの気持ちは死するときまでずっと残り続けるだろう。」
「澪ちゃん、朝だよ、起きて」
恒一の声で私は目覚めた。
いらない月曜日。
週の初めというだけで嫌われる月曜日。
特に何も変わらない朝である。
「恒ちゃんおはよ~、ん、この匂いは! フレンチトースト!」
私の大好物のフレンチトーストをたまに作ってくれる優しい夫。
机にはすでに用意されたお弁当と水筒。
恒一とは結婚して八年が経つ。
一緒にいてくれてうれしい限りだ。
普段はリモートで仕事をしているため朝の支度は全てしてくれる。
そんな私はというと…
男社会であるごみ収集の作業員だ。
ほかの人に負けないパワフルさを取柄に仕事をこなす。
上司には、大型免許を取って運転手にならないかと声がかかっている。
『澪、そろそろ運転手なんてどうだ?』
『運転手か~、今は作業員でいるのが楽しいからパス!』
…と、いつもはぐらかしている。
「ん~! 美味しい! やっぱこのフレンチトーストがなくっちゃね!」
週初めの嫌な気持ちを吹き飛ばすほどの美味しいフレンチトーストを口いっぱいに頬張り、幸せをかみしめた後、私はハッとする。
「やばい!今日早出だったんだ!もう行かなきゃ間に合わない!行ってきます!」
愛車のクロスバイクの鍵を外し全速力で自転車をこぐ。
ギアは最大値。
重たいがそんなこと考えている余裕はなかった。
刻一刻と迫る集合時間。
作業着は着ているものの、髪を縛り忘れ散々である。
「おはようございまああああす!!!」
……
「澪~一分前だぞ~」
「間に合った!」
…少しの間が空き私は気づいてしまった。
髪を縛らなくてはいけない上に、点検を運転手としなければならない。
アウトである。
「澪は早出に弱いな~十五分前に来れれば一番いいんだけどね」
「と、とりあえず髪結ばせて! 話はそれから聞くから!」
っと、週初めの仕事はスタートした。
正しくは準備がスタートした。
私の会社はいろいろな部署の人がいる。
その中でも、外壁や足場、清掃を担当している部署のあいつだけは私は大嫌いだった。
顔を見るだけでイライラする。
理由は知らない。
歳近いんだし話せばいいのに~、とか。
もっと仲良くしなよ~、現場でたまに絡みあるんだから~、と言われるが私は絶対に嫌だった。
そして今日も。
「ちょっと、そこ邪魔なんだけど」
「俺もそこに用があんだよ、邪魔」
周りの目は普通だった。むしろいつもの事だろと「ほれほれ~仲良くな」と言われる始末。
朝からイライラさせやがって。フレンチトーストの魔法が台無しじゃない。
と一人心の中でむしゃくしゃしながらも仕事の準備をする。
七時十五分、トラックに乗り込み現場出発だ。
「ねぇ、今日ってなんで早出なんだっけ。」
「今日は足場班の奴らが八時半までにはゴミ庫の周りに足場組みたいらしくてな」
……足場って…今日あいつが用意してたの足場だよね。
なんとなく場所は覚えている。
仕事のモチベーションが下がる澪。
それは車内に充満させるほどのどす黒いオーラだったようだ。
「澪、落ち着けって、顏合わせるのなんて少しだろうし、まずお互い仕事してんだから顔見る余裕もないって。な?」
それはわかっていても、いるという事実だけで私はうんざりしていた。
なんだか気分がすごく落ちてしまった。
「大丈夫か?澪、顏怖いぞ?」
大丈夫なわけない。
だけど仕事は仕事。
「うん、大丈夫! 今日も安全にやるよ!」
自分に言い聞かせるように音頭を取った。
時間まで現場待機。停まっていたコンビニの灰皿置き場のところでタバコを吸う。
コーヒーと共に。
この現場待機の時間は好きだった。
何も考えなくていい。
趣味は何ですか?と聞かれたら一番に答えるのはタバコを吸うこと。
それくらい喫煙は私の生活の一部になっていた。
八時。早めの現場開始のアラームが鳴った。
早出の時は大抵このアラームで仕事モードに切り替わる。
「フランⅪのゴミ庫の鍵持ってきた?」
「昨日のうちにそこかけてあるよ」
昨日までは覚えていた早出。
なのに忘れていたなぜ早出なのか。
だめだめ、あくまで仕事。
気にしないのよ、澪。
ゴミ庫の鍵を開けゴミをどんどん積み込む。
なんだろう、体がふわふわする。
うわ、このゴミ重たい。
「あっやっば、転ぶっ…」
その時。
足場班の蓮が手を掴んで転びそうな私を支えた。
「ちょっ危ねぇだろ」
えっ、え?
なんであいつが…
「あっ、ありが…とう」
掴まれた腕が少し熱を帯びていた。
炎症とかではない。
あいつの体温…なのかな。
はっ、仕事に集中しなきゃ。
「澪、大丈夫か?なんか顔、赤いぞ」
気が付けば顔にまでその熱は浸食されていた。
「大丈夫…! ほら、今日暑いじゃん?」
暑くもない曇り空なのに私はそう口走った。
動揺MAX。
次はその動揺でまたよろけ、あいつにぶつかってしまった。
「ふっ、動揺しすぎ、無理すんなよ」
笑った…?何よ、こんなん違うじゃん。
なんか腹立つ。
理由はやっぱりわからない。
でも少しだけあいつの見方が変わった。
悪い奴…ではないのかな。
夕方四時半。
「今日も安全に終わってよかったな…澪?おーい、聞いてるか?」
完全朝のあれが頭から離れなくてぼーっとしている澪。
「うん、そうだね」
あれがなきゃ今日の仕事も百点。
今日一日、あの出来事ばかり考えてしまう。
でも最悪って感じではなかった。
「今日の澪なんかおかしいぞ…どうした?」
「ん、何もないよ、今日もお疲れ様! 明日もよろしくね! んじゃ!」
私は駐輪場に向かい家路につく準備をしていた。
『ちょっ危ねぇだろ』
『ふっ、動揺しすぎ、無理すんなよ』
頭に残り続けるこの二つの言葉。
ぼけーっとしながらの準備だったせいか鍵を落としていたことに気が付かなかったらしい。
「おい、鍵。んじゃ」
「あっ、ちょっと」
「んだよ」
すーっと息を吸い込み言った。
「今日…なんか色々ありがと」
「ん、気にすんな」
いちいち調子狂わせてくる。
でもそれは嫌な感じではなかった。
なぜだか理由はわからない。
毛嫌いしてた相手なのだからそりゃ分かるわけもなかった。
「さて、今日のご飯は何かな~、帰ろっと」
朝よりゆっくり自転車を漕ぐ。
涼しい…いや少し肌寒いがそれも嫌ではなかった。
帰宅して一番初めに気が付いたことがあった。
「ただいま~、おっ今日はカルボナーラですな…?恒一さん」
「澪ちゃんおかえり。さすが、食べ物の匂いには敏感な澪ちゃんだね。手洗って着替えておいで」
幸せな時間が訪れた。
何気ない会話をして、美味しい料理を食べて、互いの仕事の話をして。
だけど今日は私の仕事の話はしなかった。
正確に言えばできなかった。
なんて言い表せばいいかわからなかったから。
「澪ちゃん今日仕事でなんかあった?」
言わない予定だったけど恒一からの問いに答えないわけにはいかないと私はこう言った。
「今日ゴミが重くてさ~、よろけちゃったんだ!笑 持ち前のバランス力で立て直したけどね!」
恒一に言った嘘。
自分で立て直してなんかない。
だけど言っちゃいけない気がした。
噓をついた意味は分からない。
その時、あいつに掴まれた腕、当たった体、交わした言葉、その全てを思い出した。
鼓動が早くなる心臓。
「澪ちゃん体調悪い?顔色が悪いよ」
「ちょっと今日頑張りすぎたみたい…早めに休むね」
何でこうなるのか訳が分からず私は自室へ向かった。
耐え切れずタバコに手をかける。
それでも落ち着かない。
頭の中で再生される今日の出来事。
「なんで…なんでいきなり…」
考えているうちに涙が出てきていた。
悲しいわけでも、すこぶる嫌ってわけでもない。
処理が追い付いていないのだろう。
精神が安定していない状態でも携帯は空気を読まない。
【五月十七日 夕方六時 心療内科受診】
その通知とともに服薬アラーム鳴る。
「今日は頓服も一緒に飲もう…」
薬を飲み終え私はベッドに倒れこんだ。
何も考えなくていいはずのこの時間。
今日はそうもいかないようだ。
自分の家なのに落ち着かない。
嘘をついたから?
あの出来事を考えちゃうから?
いつも以上にそわそわが止まらない。
早く薬が効いてくれれば良いんだけど…
大嫌いだったあいつのことで頭がいっぱいになるなんて。
「あー! もう寝る!」
そう宣言した後目を瞑って夜明けを待つ。
しかし、今日に限って眠剤も、頓服も効かない。
きっと効くのは朝頃になるだろう。
仕事は明日もハードだ。
そんな時に薬が残っていたら戦力にすらならない。
すぐ効くようにホットミルクや温かいお茶を試すも跳ね除けてくる。
自分の部屋のせいか余計考え事をしてしまっていた。
「澪ちゃん?まだ起きてるかな、プリン買ってきたんだけど食べるかい?」
元気のない私を慰めるように恒一はそう提案してきた。
元気な振りしなきゃ。
でもどこかで嘘をついたのが引っかかる。
「恒ちゃんありがと。今行くから待っててね」
隠しきれない罪悪感が声色として出ている気がした。
いつもの澪じゃない。
それはきっと一番恒一が分かっている。
悟られないように私はいつもの澪を演じる。
「これ、わざわざ見つけてきてくれたの?とろけるプリンじゃん!」
「澪ちゃん好きでしょ?久しぶりに見つけたから買ってきたんだ、これ食べて元気出して」
恒一の優しさが身に染みる。
それと同時に深い深い罪悪感が心を支配していた。
『夫婦なんだから隠し事はなしだよ』
そう言ったのは私なのに…




