7・涙痕
POV:ノア→フィシス
ミュトスの言葉が、真っ白になった頭の中を何度も巡る。
身体中の血液が一気に抜けていくような感覚。
「⋯⋯は⋯⋯?」
ようやく絞り出した声は、ほとんど息だった。
ミュトスと一瞬、視線が合う。
「フィシスが望んだ事だ」
静かに言い切って、その瞳はフィシスに戻される。
「⋯⋯私の、せいで⋯⋯」
また、呼吸が浅くなりだす。
胸元を掴み、爪をたてる。
目眩がして、寝台の縁に額をつける。
頭の中が、手足が、痺れてくる。
ミュトスが何か言っているが、ぼやけて途切れて、わからない。視界が黒に染まる。
今まで何度、苦しめてきたのだろう。
私のせいで、フィシスは。
私のせいで
私のせい――
「――ノア」
暗闇に鈴の音のような声が響く。
一拍おいてから、暖かい手が腕に触れる。
その瞬間、浅かった呼吸が段々とゆっくりになっていく。
身体に体温が戻り、視界が戻ってくる。
「ノア、私は大丈夫だよ。だから落ち着いて、ね」
その声に誘われるように顔を上げる。
声の主は、じっとこちらを見詰めていた。
頬を一筋の涙が伝う。
「⋯⋯フィシス」
声は掠れてしまった。
フィシスは柔らかく微笑んだ。
あの頃と変わらない、優しい笑顔で。
はっと我に返り、立ち上がる。
「フィシス、身体は⋯⋯!?」
フィシスの瞳は弾かれるように見開かれ、やがて困ったように眉尻を下げた。
「もう治ったよ。来てくれてありがとう」
「本当に?絶対か?」
言葉だけでは信じられない。それを慮ったようにフィシスが言った。
「ノア、鑑定してみる?」
「っ、ああ⋯⋯《鑑定》」
手を翳すと魔術陣が浮かび、フィシスの体の状態が頭に浮かぶ。
体力が正常値だと確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
ミュトスを見ると、まだ暗い顔をしていた。
こちらの視線に気付いたのか、彼は顔を背けたまま呟く。
「⋯⋯ノア、一階のリビングで少し待っててくれ。続き話すから。降りて左だ」
「ああ⋯⋯わかった」
ミュトスの様子が気になる――だが、今はフィシスが目を覚ましたのだ。
私は、静かに寝室を出て扉を閉めた。
***
「⋯⋯ミュトス⋯⋯?」
ミュトスは、俯いたまま動かない。
膝立ちで彼に近付き、頬に手を添える。
あまりの冷たさに驚いた。
「ミュトス、冷たすぎるよ」
また一歩近付き、今度は両手で頬を挟む。
まだ、黙ったままだ。
「⋯⋯ミュトス、ありがとう。心配かけてごめんね」
「怖かった」
小さく、消え入りそうな声。
胸が張り裂けそうに苦しくなる。
僅かに震えている肩。硬く握られている手。
堪らない気持ちになり、ミュトスの頭を抱えるように抱き締めた。
「⋯⋯今までの中で、一番ひどかった」
苦しげに、ぽつりぽつりと言葉が落ちる。
「今度こそ死ぬんじゃないかと⋯⋯」
ぎゅう、と抱き締め返される。
「ごめん⋯⋯大丈夫だよ、ちゃんと生きてる」
こんなに弱っているミュトスを見るのは初めてだった。
この世界に来た時は、使命の為に力を使う事は当たり前だったし、その代償を受けても平気だった。
でも――いつからか、怖くなった。
代償を受ける私を見て、その度にミュトスは苦しむ。
それでも背負う使命の為だと、その苦しさを飲み込む。
そんな彼を見て⋯⋯彼を守りたい、これからも一緒に生きていきたいと、そう思うようになって。
怖くなった。
肩に顔を埋めるミュトスの頭を、優しく撫でる。
「⋯⋯脈、動いてる」
「うん、動いてるよ」
「良かった」
「うん、ありがとう。ミュトスのお陰だよ」
彼は小さく首を振る。
「何も、出来なかった」
「そんな事ないよ。回復してくれたよ」
「⋯⋯代償に回復が効かないのはわかってる」
抱き締められている腕に、力がこもる。
「でも何もせずにはいられない。いられるわけがない」
「⋯⋯うん、わかってる。嬉しいよ」
腕の力が弱くなり、ゆっくりと離される。
「着替えないとな」
「うん、血、落とさないとね」
ミュトスは照れるように微笑んだ。
少しは楽になっただろうか。
「先に下行っとく。ゆっくりでいい」
「ありがとう」
ミュトスが扉を閉める。
静かになった寝室に、虫の音が聞こえる。
ゆっくりと寝台からおり着替えようとした時、肩口が僅かに濡れている事に気付いた。
指先で触れる。冷たい。
(⋯⋯ミュトス⋯⋯)
切なくて痛くて、感情がぐしゃぐしゃになる。
駆け足になる鼓動を、深呼吸で抑える。
軽いワンピースに着替えて、化粧台に座り、髪と顔を軽く整える。
準備がおわり1階に降りると、二人はテーブルを挟んでソファに座っていた。
花茶の香りが鼻腔を擽る。
いつものように隣一人分空けて座るミュトスが、私を視線で呼ぶ。それに軽く首肯し、ゆっくりと座った。
「お待たせしました」
ノアと視線を合わせると、どこかぎこちなく微笑んで返してくれた。それから真剣な表情で頭を下げる。
「フィシス、すまなかった」
「違うよノア。ノアが謝る事なんてないんだよ。⋯⋯これは私の使命で、勝手にやった事だから」
ノアはゆっくりと顔を上げる。その紫の瞳には後悔が滲むように揺れていた。
「⋯⋯その、使命とは」
私が答えるより先に、ミュトスの声が静かに響いた。
「これから話す事は他言無用だ。それに時間も時間だ、要点だけ言うぞ」
そうしてミュトスは、こちらを見る。
私は頷き、自らの正体の事と、これから起こる“邪神の復活”について話し出した――。




