6・静かな崩れ
POV:ノア
王宮魔術師寮の自室。
椅子に座ったまま、ノアは動けなかった。
夢を皮切りに、過去の記憶が次々と浮かび上がる。
微笑む家族。食卓を囲む声。隣には、いつもフィシスがいた。
次の瞬間――視界は血に染まる。
壊れた屋敷。動かない家族。赤く濡れた自分の小さい手。
最後に見たのは、フィシスの揺れる瞳。
喉の奥がひゅ、と鳴る。
息が胸の途中で引っかかって止まる。
視界が滲み、溢れる熱が、床を濡らしていく。
浅い呼吸が何度も途切れて、そのたびに肩が小さく跳ねる。
椅子から立ち上がろうとして、足が言うことを聞かなかった。膝の力が抜けて、そのまま床に崩れる。
無意識に、指が床を掻く。
どこにも掴まれないまま。何度も、何度も。
それでもなお、周囲に気付かれないように必死に声は抑える。
這うように、僅かな光に縋るように、窓枠に近付く。
月明かりは、音もなくこちらを照らしていた。
静かな空間に、鼓動だけが響く。
痺れた頭の中で思考は繋がらず、ただ沈んでいく。
――どれくらい、そうしていただろう。
ふと、視界の端に、不規則に揺れる青い光がうつる。
ゆらり、ゆらりと舞うそれは、やがて机の上へと降りた。
合わない焦点に、乱暴に目を擦る。
一匹の青い蝶が、静かにこちらを見据えていた。
ゆっくりと翅を広げると、淡く輝きだす。
その魔力の持ち主を頭で探り、はっとする。
同時に、僅かに掠れた低い声が、小さく、だがはっきりと響いた。
『――おい。ノア。聞こえるか』
その声に、一度肩が跳ねる。
喉が震えて、また呼吸が乱れそうになる。
それを必死で抑え、言葉の音を絞り出した。
「⋯⋯ミュ、トス様⋯⋯」
蝶は、ふわりと翅を揺らす。
『お前、思い出したんだろ』
「⋯⋯っ!!」
ミュトスの、鋭い視線が脳裏によぎる。
『緊急事態だ。今すぐ森林の手前まで跳べるか?』
緊急事態。――その言葉に、背筋が伸びる。
「なにか、あったのですか!?」
『フィシスが倒れた』
「は⋯⋯!!?」
空気が凍り付いた。頭を殴られたような衝撃。
音が遠ざかり、視界が狭くなっていく。
『おい!!しっかりしろ!!』
焦りと苛立ちを含む叱責に、我に返る。
「⋯⋯っは、あ、わかりました、すぐに」
『誰にも悟られるなよ。できるな?』
「はい、了解しました」
そう返事をすると、青い蝶はサラサラと夜に溶けて消えた。
よろけながらも立ち上がり、一度大きく深呼吸をする。
ミュトスが自分を呼ぶ理由。わからない。
だが、ただ事ではない。
いつものローブを羽織る。布の重さが、呼吸を押さえ込む。揺れている視界が、無理やり固定されていく。
目を瞑り、内側で暴れかけていた魔力を、血液のように丁寧に循環させていく。僅かな時間で、素早く。
ある程度整った後、部屋に結界を張った。
自分以外、誰も入れない様に。
一度、ぐるりと部屋を見回してから、呪文を唱え、転移魔術を発動させた。
――グラリと身体が反転する感覚。目の前には先日見たままの森林が広がっていた。
葉音が、ざわざわと耳を打つ。
強ばる身体に、夜気が冷たい。
一歩一歩、森林に近付く。
境界に着いた時、森の奥で光が揺れた。
『あなたが、ノア様ですね』
頭の中に響く声。光は揺れながら、狼の形をとった。
――聖獣。
(聖獣も⋯⋯いたのか)
『ミュトス様の使いです。あなたを連れて来るように、と』
浮いているようにも見える足取りで、聖獣は近付いてくる。
『人間だけでは、ここから先、入れませんからね』
目の前に来た聖獣は、身を低くした。
『どうぞ、私に乗ってください』
「――わかった。よろしく頼む」
狼の背に、ヒラリと跨る。
すると、すぐに風圧が重くかかる。
馬の倍は速い。だが、不思議な事に身体はブレない。
流れていく景色の中、小さな光が幾つも揺れていた。
(⋯⋯妖精、だろうか)
そう思っていると、聖獣は察したように言った。
『今日は、妖精達も静かです。フィシス様が伏せってらっしゃいますから』
(フィシス⋯⋯何があったんだ⋯⋯)
『さあ、到着しますよ』
速度が落ちていき、視界がはっきりしてくる。
目に飛び込んだのは、大きな湖。
月明かりに照らされ、深い青を湛えていた。
「これが、アネシス湖⋯⋯」
瘴気の発生源だったとは思えない程の美しさ。
思わずぽつりと言葉が漏れた。
『ノア様、こちらへ』
「っ、あぁ」
アネシス湖の畔から、少し奥に進む。
すると、一軒の屋敷が現れた。
木材で作られた、温かみのある屋敷。
窓から灯りが漏れている。
『どうぞ、お入りください』
「案内助かった。ありがとう」
『いいえ。⋯⋯お二人をお願いします』
聖獣は首を垂れたまま、霧のように夜に溶けていった。
それを見届け、扉の前へ急いだ。
すると、待っていたかのように、ひとりでに扉が開く。
「――来たか、ノア」
その声主は、吹き抜けの上方、二階の手すりからこちらを見下ろしていた。
「ミュトス様⋯⋯?」
思わず目を瞠る。まるで、別人のようにミュトスの圧が無い。
「こっち、来い」
「はい⋯⋯」
正面の階段を登り、ミュトスの元へ行く。
ミュトスは、すぐ傍のドアを開ける。
その部屋は寝室。寝台の上には真っ青な顔色のフィシスが、ただ静かに、そこにいた。
心臓が跳ねる。
思わず傍に駆け寄り、跪く。
衣服には、血の跡が滲んでいる。
僅かに上下する胸元を見て、生を確認していると、ミュトスがゆっくりと近付き、寝台に座った。
「いったい、何があったのですか?」
明らかに憔悴しているミュトスを見る。
視線はフィシスに向けたまま、ミュトスは言った。
「お前が、思い出したから⋯⋯」
すぐには、理解できなかった。
その言葉は、遅れて落ちた。
「ま、待ってください、それで、なぜフィシスが」
ミュトスは、ゆっくりとフィシスの手を取る。
「⋯⋯お前は、ついさっき、魔力暴走を起こした」
鼓動が、徐々に早足になっていく。
「そんな、はずは⋯⋯」
「⋯⋯記憶が戻った時、お前の魔力が揺れた」
「っ」
「お前は気付いてない」
唇が僅かに震えだす。
聞きたくない。それでも、逃げられない。
「⋯⋯お前が、ガキの頃。もう二度と魔力暴走で人を殺さないように――」
ひくりと、呼吸が詰まる。ミュトスの声が、頭に反響する。
「――フィシスに、流れるようになっている」




