4・残響
POV:ノア
ノアの瞳に静かな決意が灯る。
ミュトスは大きく溜息をついた。
「“意図”は関係ない。結果だ」
「私が無意識に傷付けると言う事ですか?」
「⋯⋯まあ、良い。お前だって、何も悪くないしな」
最後の方は、ほとんど囁きだった。
そしてミュトスは離れている天幕を見やる。
「話すにしても、今は駄目だ。⋯⋯場所もお前も、整っていない」
「⋯⋯私が一人であれば良いのですね」
あぁ、とミュトスは短く肯定する。
「いつでもいい。一人でここに来い。森林入口に近付けば気付く」
「畏まりました。⋯⋯では、三日後の正午頃に参ります」
そう返事をすると、ミュトスはフィシスを見る。
「⋯⋯フィー、良いな?」
「⋯⋯わかった」
フィシスが、不安そうに眉を下げてこちらを向く。
その視線にゆっくりと首肯だけで答える。――彼女が少しでも安心出来るように。
今はまだ、何が彼女をそれ程不安にさせるのかわからないが、自分は決して傷付けない。そう強く思った。
「そろそろ帰るぞ」
ミュトスがフィシスの手を優しく取る。
「⋯⋯うん。ノア様、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ、色々とありがとうございました」
礼を取ると同時に、二人の姿が淡い光と共に消える。
――残光が風景に溶けてなお、しばらくその場から目が離せなかった。
まるで別次元に居たような圧倒的な違和感が、まだ皮膚の内側に残っている。
理解できないものに遭遇したとき、人はまず“言葉”を失うのだと、初めて知った。
――遠く、天幕の布が、微かな音を立てる。
周囲の気配が現実へ戻ってくるのを感じながら、ノアはゆっくりと息を吐いた。深く、長く。
動けないまま、思考は絶えず巡っている。
(⋯⋯今考えても仕方の無い事だ)
振り切るように頭を振ると、踵を返し、仲間が待つ天幕へと歩みを進める。
揺らめく明かり。
幾重にも重なる人々の声。
人間が生きる場所――
「ノア筆頭⋯⋯!おかえりなさいませ。お見送りは無事お済みになりましたか?」
自分の姿に気付いた一人が近寄ってくる。
無意識に、王宮筆頭魔術師の顔になる。
「⋯⋯ああ。問題ない」
「それにしても、本当に精霊は居たのですね⋯⋯精霊魔法にも驚きましたが⋯⋯」
「あれは、」
開きかけた口を噤む。
話せば巻き込んでしまうだろう。
「⋯⋯筆頭?」
「いや、すまない。事後処理はどこまで進んでいる?」
「はい、今は――」
身体は思考とは別に、報告や指示、作業をこなす。
気付けば空が白みはじめていた。
登りだした日の光が、そこにある大自然を映し出す。
まるでスタンピードなど無かったかのようだ。
周囲では、感嘆の声が漏れていた。
その眩い黄金の光が。その暖かさが。――近くにあるようで、遠い輝きが。
まるで⋯⋯
太陽に手を伸ばしかけ、止める。
(⋯⋯はやく、帰って休もう。疲れているんだ)
感傷を感じる足は、歩みを止めず。
馬に跨り風を切る。
半日ほど走り王宮につくと、周囲への挨拶もそこそこに魔術棟の執務机へ座る。
いくつかの報告書を睨んでいると、豪快なノックと共に、一人の男が入ってくる。
「ノア。お前顔色が悪すぎる。仕事なんてしてないで、まず寝ろ」
「⋯⋯お前か、セム。急にどうした」
一度手を止め、良く知る赤い瞳を見る。
「あのなぁ。誰もお前に言えないから、同期の俺が親切に言いに来たんだろ?まずは少しでもいいから、寝ろ」
「⋯⋯心配をかけたようだな」
「当たり前だろ。あんだけ大規模なスタンピードだったんだぞ?休憩してから報告書あげても、誰も何も言わねぇよ。周りには俺が説明しとくから。⋯⋯ほら、はやく部屋行け、な」
セムは大股で近付き、手元の報告書を片付けてしまう。
「⋯⋯そんなに顔に出てるか?」
「ああ。心ここに在らずだな」
――確かに。セムの言う通りだ。
思わず苦笑が漏れる。だが同時に、いつも通りのセムに酷く安心する。
「そうか。わかった⋯⋯少し寝てくる」
「ゆっくり休め。何かあったら起こしに行くから安心しろ」
セムが止めなければ仕事を続けていただろう。
感謝を告げて、寮の私室へ向かう。
それ程遠くないのに妙に長く感じる廊下。
空は茜色に染まり方方に明かりが灯り始めていた。
ようやく辿り着いた私室の扉を雑に開け放つ。
やけに大きく響いた音が、耳にうるさい。
そのまま寝台へ身を投げる。
(――疲れた)
静かに瞼を落とす。
浮かぶのは、あの二人の姿と、不自然な胸の騒めき。
思考の沼に、ゆるりゆるりと沈んでいく――
『――ほら、こっち、おいで?』
柔らかい日差し。逆光に目を細める。
自分よりも数段背の高い彼女を見上げる。
言葉は出ない。
小さい手をめいいっぱい広げて、彼女へ飛び付いた。
『あはは、よしよし。いい子だね』
優しく頭を滑る、暖かい手が心地良くて。
いつまでも、そうしていたいと願った。
風が数多の花弁を舞いあげる。
間近にあるのに、彼女の輪郭ははっきりしない。
ただ――とても大切な人。
早く大人になりたい。
彼女の隣に立つために。
小さい身体で、彼女を強く抱き締めた。
――耳元で静かに、だが強く、彼女の声が響いた。
『守るからね――ノア』
目を開けると、そこは見慣れた天井だった。
胸の奥に残った感覚だけが、現実から浮いていた。
夢だ、と理解した時、頬を伝う冷たい感触に気付く。
言葉に出来ない何かが、喉に詰まる。
それは、焦燥と似たような苦さで――
「⋯⋯フィシス⋯⋯」
掠れた声は宙に浮いたまま、行き場なく漂う。
彼女は――フィシスだ、と確信していた。




