第143話 鏡の廊下で会う子(二)
扉の向こうは、ふつうの部屋だった。
──いや、“ふつうに見える”部屋だった。
古い木製の机、壁にかけられた時計、揺れるレースのカーテン。
けれど空気には湿り気がなく、家具の影には温度がない。
「誰かが生活していた痕跡」だけが、貼りつけたように残されている。
春香と美奈が踏み込むと、扉が背後で閉じた。
鍵の降りる気配はないのに、開かない。
閉じ込められた。
「……音、止んだ?」
美奈が囁く。耳を澄ませる。廊下から聞こえていた“幼い足音”も“ひきずる音”も、消えていた。
静寂──その奥で、時計の針だけが動いている。
カチ、カチ、カチ……
だが時計は、止まっていた。
針は動いているのに、時刻は変わらない。
「おかしい……」
春香は部屋を見回す。
机の上には、一枚の写真立てが置かれていた。
写真には三人の子どもが写っている。紅葉と美桜、そして──
「……春香?」
美奈が目を凝らし、震える声で呼んだ。
写真の中の三人目は、幼い春香にしか見えない。
だが春香は記憶にない。
こんな写真、知らない。
「これ……どういう、こと……?」
喉がひりつく。背中が冷える。
写真の中の“幼い春香”だけが、こちらを見て微笑んでいる。
他の二人は前を向いているのに、その子だけが、確かに春香を見ている。
──カチリ。
写真立てのガラスがひとりでにひび割れた。
ひびが広がり、幼い春香の笑顔だけを中心に歪めていく。
その瞬間。
「ねぇ、はるか」
声がした。
部屋の隅、カーテンの影から、誰かが顔を覗かせていた。
少女だった。
肩までの黒い髪、白いワンピース。紅葉にも美桜にも似ているのに、どちらでもない。
春香と同じ歳に見えるのに、目だけが冷たい。深い井戸みたいに。
「やっと来てくれた。ずっと待ってたのに」
少女は笑うでも泣くでもなく、ただ表情を貼りつけたまま、首だけを傾けた。
「はるかは忘れたの?
わたしたち、三人で遊んでたよ。
ちゃんと“選ばれた”三人で」
春香の心臓が跳ねる。
「……私、あなたを知らない」
「知ってるよ。ねぇ、だって──」
少女の影が床に落ちる。
影が、二つに増えた。
少女の後ろに、もう一つ、歪な形が立ち上がる。
あの廊下で見た“影”。足を引きずる何か。
「名前を、貰ったでしょ?」
少女が囁く。
「春香って名前はね、“わたしの代わり”に与えられた名前なんだよ」
影が近づく。美奈が後ずさる。
「来ないで……!」
美奈が叫ぶが、影は止まらない。
少女は一歩踏み出し、春香の目の前に立った。
距離は触れられるほど近いのに、空気が触れない。温度がない。
「返して」
少女が囁く。
「“はるか”って名前、返して。
本当は、それ……わたしのものだから」
その瞬間、扉が叩き破られた。
「春香さん!!」
祐真の声。
振り返った春香の肩越し、一瞬だけ見えた。
手に警棒を構え、駆け込んでくる祐真の姿。
だが少女は微笑んだ。初めて、感情を宿して。
「間に合うといいね。
だってこの家は、記憶を食べるから」
影が一斉に動いた。




