第144話 名を呼ぶ家
筆先が紙に触れかけた瞬間、春香は手を止めた。
──誰も、消さない。
胸の奥に落ちた言葉が、決意になって響く。
春香は筆を握りしめたまま、紙から手を離す。
「私は……誰の名前も書かない。 この中から誰かが消えるなんて、そんな選び方は絶対しない」
少女は首を小さくかしげる。
理解できない、そんな反応だった。
「でも、きまりだよ。そういうふうに、この場所はできてるの」
春香は息を震わせながら、少女の前に膝を突いた。
「……私が決める。森でも、名前でもなく。
“母親の私が”──何を守るか決める」
その瞬間、扉が激しく揺れた。
ドンッ!ドンッ!
祐真の声が割れるように響く。
「開けろ!春香さん、離れてろ!!」
影が扉の隙間から入り込もうとする。
黒い指先のようなものが伸び、床を這い、部屋に触れようとしている。
美奈は春香の横に立ち、震えながらも背筋を伸ばした。
「書かないなら……違う道を選ばなきゃ。
森の“均衡”を壊す方法を見つけるのよ!」
少女の表情がわずかに揺らぐ。
その目に幼い悲しみが差した気がした。
「こわれたら、かえせないよ。
もどれなくなるよ。
ふたりとも……」
春香は静かに首を振る。
「違う。“差し出すから帰れる”なんて間違ってる。
“取り戻すから帰る”の。
私が迎えに行く。美桜も、紅葉も。
名前じゃなくて、手で。声で。」
少女の黒い瞳に波紋が走った。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
床が脈打つように震え、壁の影がざわつき始めた。
祐真が扉を肩で破り、部屋に飛び込んでくる。
「春香さん!下がれ!」
影が祐真に飛びかかる。
祐真は警棒で影を弾こうとするが、質量がないはずのものが重く腕に絡みつく。
「っ、この……!」
美奈が叫ぶ。
「この部屋!“名前が鍵”になってる!
紙を破れたら、何か変わるかもしれない!」
春香は紙に向かって走り寄る。
だが少女がすっとその前に立つ。
泣き顔にも、笑顔にも見える表情で首を横に振る。
「やぶっちゃだめ。
やぶったら……かわりに“ここ”に残るひとが
でる」
祐真が影を押し返しながら叫ぶ。
「じゃあどうすればいい!? 何をすれば“誰も残らない”で済む!」
少女はゆっくりと答えた。
「……よびなおす。
“森がつけた名前”じゃなくて。
“あなたがつけた名前”で呼びなおすの」
春香は息を飲む。
脳裏に浮かぶ。小さな手、小さな体、泣き声、
笑った顔。
美桜。
紅葉。
生まれた時、初めて抱いた夜に呼んだ名前。
「私が……呼び戻す……?」
少女は小さく頷いた。
「そう。
ここはね、“取り上げられた呼び名の部屋”。
うばわれた名前を、かえすための場所。
だから……呼んで。思い出して。
“ここにいる子”じゃなくて。
“あなたが迎えに行く子”を。」
影が再び迫る。
時間がない。
春香は祐真と美奈の顔を見た。
二人も頷く。
祐真の声が震えていたが、強かった。
「行け。春香さん。名前を……母親の声で取り返してくれ」
春香は目を閉じ、息を吸う。
胸が熱くなる。涙がこぼれそうになる。
そして、呼ぶ。
闇の奥へ。
森の向こうへ。
消えた時間ごとに向けて。
「美桜──!」
部屋の空気が震えた。
影が悲鳴のような音を立てる。
少女が椅子から落ちそうになるほど揺れ、幼い声を漏らした。
「……っ、きこえてる……!
ひびいてる……!」
春香は続けた。
「紅葉──!」
暖かな風が吹いた。
この家には似つかわしくない、春の日のような風。
扉の隙間から、森ではない空の匂いが流れ込む。
影が後ずさる。祐真が影を押し返す。
美奈が泣きながら笑う。
春香は紙に向き合い、決意の声で告げる。
「返しなさい。
森が書いた名前は、ぜんぶ──無効よ。」
紙がふっと白くなる。
墨の文字が霧のように消えていった。




