第142話 鏡の廊下で会う子
鏡の向こう側は、光のない廊下だった。
足を踏み入れた瞬間、背後の鏡が音もなく閉じる。
戻り道が、ふさがれた。
春香は息を整え、辺りを見渡す。
見覚えがあるようで、ない。
家の廊下と似ているのに、壁の色も床の軋みも、どこか“型”のように作られていて、生きた家の気配がしない。
美奈が指で壁を触れ、顔をしかめる。
「……木の匂いがしない。
これ、木材に見えるけど……冷たい。石みたい」
祐真も周囲を警戒するように歩く。
「ここは家を模した“抜け殻”だ。
森が記憶から形を作ったんだろう。
時間を閉じ込めるために」
春香は、前を向いたまま呟いた。
「思い出じゃなくて、罠みたいね……」
そのとき──
廊下の奥から、小さな足音が響いた。
とん……とん……とん……
規則正しいリズム。
走っているのではなく、歩いている足音。
幼い子どもが前を向いて進んでいくような……
そんな軽い音。
春香は目を見開く。
「美桜……?」
呼びかける声が震える。
返事はない。
けれど足音は止まらず、ゆっくり奥へ遠ざかる。
祐真が前に出ようとした時、 別の音が重なった。
ず、り……ず、り……
何かをひきずる音。
何かが追いかけている音。
足音とは違う、重く、不揃いな重心。
美奈が青ざめた。
「……また“あれ”が来る……」
廊下の影が揺れた。
さっき春香たちの家に現れた、あの人影。
右足と左足の重さが違う、不自然な歩幅。
それが徐々に輪郭を持って近づいてくる。
祐真が声を低くして言う。
「二手に分かれるぞ。
俺が影を引きつける。春香さんと美奈さんは先に進んでくれ」
美奈が即座に首を振る。
「無理よ! そんなことしたら祐真くんが──」
「大丈夫だ。俺は警察官だ。守るためにいるんだ」
祐真の目に、怯えも迷いもない。
春香は短く息を吸い、彼を見つめた。
祐真が誰よりも強く恐れているのは、「誰も守れなかった夜」だ。
その記憶が、いまの決意に繋がっている。
春香は、彼の肩にそっと手を置いた。
「無茶はしないで。
誰も犠牲にしないって、あなたが言ったんだから。
……あなたも含めてよ」
わずかに祐真の表情が和らいだ。
「……必ず、追いつく。約束する」
次の瞬間、影が姿をあらわした。
廊下の奥に“人の形をしたもの”が立っていた。
輪郭は歪み、顔は影に溶け、表情はない。
ただ、こちらを向いている。
ず、り……
ず、り……
春香は一歩、前に進む。
「あなたが……美桜と紅葉を連れて行ったの……?」
影は答えない。
けれど動いた。
音もなく、滑るように距離を縮める。
祐真が叫ぶ。
「行け!今だ!」
春香は美奈の手を掴み、足音のする奥へ走り出した。
追うように幼い足音が先へと響く。
とん……とん……とん……
美桜か。
紅葉か。
あるいは、二人ともか。
春香は胸の奥で、ひとつだけ願った。
「もう誰も、置いていかない……
“選ばれた名前”なんて……壊してみせる……!」
廊下の先に、うっすらと扉が見えた。
光が漏れている。
暖かそうで、懐かしくて──でも、危険な呼び声。
美奈が息を呑む。
「あの扉の向こうに……誰かがいる」
春香は頷いた。
美桜かもしれない。
紅葉かもしれない。
別の何かかもしれない。
それでも、進むしかない。
手を伸ばし、扉に触れた。
扉は、音もなく開いた。




