第141話 森に喰われた記憶
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
暖かくも冷たくもない、どこにも属さない温度。
まるで「時そのもの」が息を潜めているような
空気が、三人の頬を撫でていく。
春香が最初に足を踏み入れた。
そこは“部屋”だった。
──けれど、現実のものではない。
木造の壁、見覚えのある家具、机の上に置かれたスクールバッグ。
すべてが 紅葉が失踪した日の部屋 と同じだった。
時計の針は17時26分で止まっている。
夏の終わりの日差しだけが、ゆっくりと差し込んだまま凍っていた。
美奈が囁く。
「ここ……あの日のまま……時間が進んでない?」
「いや……進めないんだ」
祐真が低く答える。
「“進んだら困る誰か”がいる。
だから閉じたんだ。森が──いや、この場所を作った何かが」
春香はベッドへ歩み寄る。
シーツのくぼみ。握りしめられた髪留め。
紅葉が、ついさっきまで座っていたような温度すら残っていた。
「……ここで、消えたのね」
声が震える。
涙がこぼれそうになっても、まだ落ちない。
そのとき。
机の上の鏡が、光を弾いた。
視線を向けると、鏡には姿が映っていない。
春香も、祐真も、美奈も。
けれど鏡の向こうには、紅葉だけが立っていた。
制服姿のまま。
表情は見えない。
ただ、こちらに手を伸ばしていた。
「紅葉……!」
春香が駆け寄ろうとした瞬間、祐真が腕を掴む。
「待って。まだ確かめないと」
鏡の向こうの紅葉は唇を動かした。
声はない。けれど、読めた。
──「ここにいる」
春香の手が震える。
次の瞬間、鏡の奥が波打った。
紅葉の姿が掻き消え、暗闇が広がる。
入れ替わるように、別の空間が映り込んだ。
そこは廊下だった。
見覚えがあった。
20年前の、春香の家。
小さなスリッパ。
壁に貼られた幼稚園の絵。
角に置かれたぬいぐるみ。
そして、鏡の奥を小さな影が横切った。
三歳の幼い子──美桜。
その背中を、黒い腕のような影が掴もうと迫っている。
美奈が息を呑む。
「……美桜ちゃんの“消えた瞬間”が……まだ捕まってる……?」
祐真が鏡の縁を掴む。
「つまり、二つの時間が閉じ込められてるってことだ。
紅葉の時間と、美桜ちゃんの時間。
戻れなかった“瞬間”ごと囚われてる」
春香は鏡にそっと触れた。 指先が冷たい水面に触れるように沈む。
「……迎えに行くわ。どちらも。
どっちかなんて、選べない。
犠牲で均衡を取るなら、均衡ごと壊す」
鏡が音もなく揺れる。
春香の足が一歩、鏡の中へ沈む。
祐真が続く。
「俺も行く。危険なら止める。敵なら倒す。
失うくらいなら、森ごと相手にする」
美奈も決意を宿した目で頷く。
「春香さんをまた一人で背負わせない。
“選ばれた名前”なんて言葉、私たちで終わらせる」
三人が鏡の向こう側へ踏み込んだ瞬間、部屋が
軋んだ。
廊下がゆっくりと閉じていく。
時計の針が動きを取り戻し、秒針が──
カチ、カチ、カチ……
時が再び動き始める。
その音に溶けるように、どこかで声がした。
──……まってる……
はやくきて……
おかあさん……
それは、紅葉の声でも、美桜の声でもあった。
どちらも、迎えに来てほしい子どもの声だった。




