第140話 境界への降下
闇の階段は、足を踏みしめるたびに柔らかく沈み込んだ。
湿った土の感触。落ち葉の匂い。
まるで森の呼吸の中へ、三人がゆっくり飲み込まれていくようだった。
先頭を歩く祐真は、懐中電灯を握る手に力を込める。
光が闇を裂くたび、壁には子どもの手形のような跡が浮かんでは消えた。
「……これ、まさか全部……?」
美奈が震える声で問いかける。
春香はうつむいたまま答えた。
「きっと……ここに来た“子”たちの跡なんだわ……
帰りたくて、助けを呼びたくて……」
そのとき、遠くで風が吹いた。
地下なのに、木々の揺れる音が聞こえる。
──ざわり。ざわり。
壁に刻まれた手形が一斉に揺れ、指先が道の奥を指し示した。
まるで「まだ進め」と命じるように。
祐真は振り返らず、静かに言う。
「この先にいる。……紅葉も、美桜ちゃんも」
階段を降りきった先に、大きな空洞が広がっていた。
その中心に、ぽつりと灯りがある。
蝋燭だった。
一本だけ、古い祠の前に立つように置かれている。
祠には板がかけられ、墨でこう記されていた。
《均衡の回廊》
美奈が眉をひそめる。
「回廊……帰り道って意味じゃないの?」
「違う。」
祐真の声が低く落ちる。
「“選ぶ場所”って意味だ。
誰を返して、誰を残すか……そうやって均衡を作ってきたんだろう」
春香は祠の前に進む。
足元が吸い込まれるように沈み、景色が揺れる。
──次の瞬間。
祠の奥に、一本の廊下が現れた。
左右に扉が並び、それぞれに名前が刻まれてい
る。
ひとつは古びた扉。
《橘 美桜》
もうひとつは比較的新しい扉。
《橘 紅葉》
そして三つ目の扉が、今まさに墨で書かれ終わるところだった。
《橘 春香》
墨が生き物のように蠢き、名前を形作る。
春香の体が震える。
「……私を、ここに閉じ込めるつもりなの……?」
闇の奥から、あの声がした。
──ひとりでいい。
扉を閉じれば、ふたり返す。
扉を開けば、均衡は崩れる。
崩れれば、森は飢える。
祐真は迷いなく春香の肩を掴んだ。
「閉じない。どの扉も、閉じさせない。
森がどう暴れようと、全員で帰る」
「でも……!」
春香の声は掠れていた。
「均衡を壊したら、何が起こるかわからない。
この村ごと……全部飲み込まれるかもしれない……!」
祐真はそれでも、迷いのない目で言った。
「人を差し出して守る村なら、沈んで当然だ。
そんな守り方、守ったうちに入らない」
美奈が前に出る。 「春香さん、選ばなくていい。
犠牲で守る均衡なら、壊していい均衡よ」
その瞬間。
コツ……コツ……
背後から、あの“影の足音”が迫る。
階段の上から、ゆっくりと、ひとつの影が降りてきた。
右足、左足、重さの違う歩み。
あの日、紅葉の部屋で聞いた足音。
そして、二十年前、春香が聞いた足音。
美奈が息を呑む。
「……あれは……」
影が祠の前まで来ると、輪郭が歪み、人の姿に変わっていく。
長い髪。
細い肩。
そして──
春香が、胸に手を当てた。
「……美桜……?」
影は答えない。
ただ、春香の前に立ち、扉へと手を伸ばした。
その指先は、《紅葉》の扉をそっと撫でる。
まるで「先に行け」と告げるように。
祐真が前に出る。
「ふたりとも救う。そのために来たんだ」
祠が、低く唸った。
──均衡を壊すか。
ならば、怒りを喰らえ。
空洞全体が揺れはじめる。
壁がひび割れ、木の根が天井から垂れ下がる。
森の心臓が脈打つように、床が脈動した。
春香は二つの名前の扉に手を置く。
「紅葉、美桜……開けるわ。
今度は、私が迎えに行く」
三人が同時に力を込めたとき──
扉が、音もなく開いた。




