第139話 影の足音
床下から這い上がった“影”は、人の形をしているのに、人ではなかった。
輪郭は揺れ、黒い布のように空気に溶け、けれど歩くたびに足音だけが確かに存在する。
──コツ、…コツ。
右足と左足の重みが違う。
生者の歩き方ではない。
三人は息を呑んで後退した。
祐真がバールを構え、影の前に立つ。
「近づくな……! こっちは三人いる。奪わせない。誰も渡さない!」
影は答えない。
ただ、春香のほうへ顔のようなものを向けた。
その“空洞”から、声が漏れる。
──はるか。かえろう?
幼い声。
それは美桜の声そのものだった。
春香の視界が揺らぎ、呼吸が乱れる。
祐真が声を荒げて叫ぶ。
「惑わされるな! それは“美桜の声”を装ってるだけだ!」
しかし、春香の中では揺れが止まらなかった。
二十年間、夢に見た声。
抱きしめたくても抱けなかった温もり。
「美桜……本当にそこにいるの……?」
影の輪郭が歪み、床下の闇が広がる。
その奥に、小さな影が二つ見えた。
ひとつは幼い少女。
そしてもうひとつは──少女より少し大きい影。
紅葉。
美奈が息を呑む。
「……本当に、ふたり……返すつもりなの……?」
影はゆっくりと頷くように揺れ、囁いた。
──ひとり。だけ。
差し出せば、ふたり返す。
“均衡”は守られる。
祐真は前に出る。
「お前たちが勝手に奪っておいて……均衡なんて言葉で誤魔化すなよ!」
老人が震えた声で叫ぶ。
「抵抗するな! 争えば村が呑まれる! 森は選んだ者を取りに来る……!」
美奈が振り返り、老人に叫ぶ。
「選ぶのは森じゃない! 私たちよ!
誰も犠牲にしないって、私たちが決めなきゃ……!」
影が、もう一歩近づく。
──コツ。
春香は祐真の背中にそっと触れた。
「祐真くん……ひとつだけ、聞かせて」
「……何だ」
「もし私が行くって言ったら、止める?」
祐真は振り返らない。
けれど震えを抑えた低い声で答える。
「当たり前だ。春香さんを失うくらいなら、美桜も紅葉も取り戻す資格は無い。
俺は──“全部助ける道”を探す。
均衡なんて、ぶっ壊してやる」
その言葉に、美奈も続く。
「私も行く。ひとりを差し出すなんて、絶対に認めない……!」
影は理解できないというように揺れ、囁く。
──ならば。来い。
名を呼ばれた者よ。
“境界”の向こうで選べ。
床下の闇が口のように開き、奥へと続く階段が現れた。
木の板ではない。土の匂いがし、森の地下へ
続く道。
春香が一歩近づくと、影は動きを止めた。
まるで彼女の選択を待つように。
春香の胸に、あの日の記憶が蘇る。 泣き声。冷たい布団。伸ばした手。
届かなかった小さな指。
──今度こそ。
涙がひと粒、落ちる。
「行く。
でも私ひとりじゃ行かない。
“奪われるため”じゃなく、“取り戻すため”に行く」
祐真が春香の手を掴む。 美奈が反対の手を取る。
三人は揺れる影を真正面から睨みつけた。
「行こう。終わらせるために」
闇の階段が、三人を待っていた。




