第138話 選ばれた名
老人の視線が、春香で止まった。
その瞬間、祐真が一歩前に出て遮る。
「理由を聞かせろ。
なぜ春香さんなんだ。根拠もなく“選ばれた”なんて言わせない」
老人は強く首を振る。
「根拠はある……。
森が名を呼んだからだ」
「名……?」
美奈がつぶやいた瞬間、床下から弱々しい声が漏れた。
──……はる……か……
春香の名だった。
確かにそう呼んだ。耳の奥に直接触れるような冷たい声で。
「聞こえた……? 今、呼ばれたわよね……?」
春香の肩が震える。
呼ばれた喜びではなく、恐怖で。
子を求める母としての本能が揺らぐような感覚が、胸を締めつける。
老人が震える手で壁の古い棚を探り、紙束を取り出した。
黄ばんだ半紙には墨で何かが記されている。
「この村では、森に名を呼ばれた者は“境界の候補”になる。
誰かが連れ去られる時、次に行く者として印が付くんだ……」
祐真が紙を奪い取るようにして目を通した。
そこには名前が並んでいた。
失踪した子どもたち。
二十年前の美桜。
そして──
橘 紅葉
さらに、その下に新しい墨で書かれた名前。
橘 春香
春香が息を呑む。
「……これ、いつ書かれたの……?」
「昨夜だ。あの森が、また“腹を空かせた”夜だ」
老人は震える声で続ける。
「名前が書かれた者は、森の前に“差し出される”運命になる。
そうせねば、失われた者は帰らない。
森は均衡を求める。奪ったら返す。返す代わりに奪う。」
「そんなもの……従えるわけないだろう!」
祐真が怒鳴る。
だが老人は静かに、諦めきった声で言う。
「従わねば、森は取りに来る。
家でも、道でも、夜でも……場所を選ばず。
呼び声に応じない者を、足跡のない形で連れていく……」
その言葉を遮るように、
床下からぎし……ぎし……と木が軋む音がした。
祐真はバールを構え、春香の前に立つ。
「来るなら来い。連れていかせたりしない」
だが、美奈は気付いてしまっていた。
森が“選んだ”理由を。
春香は、二度求めた。
美桜を取り戻すことを。
紅葉を見つけ出すことを。
彼女の願いだけが強すぎた。
森はそれを“応えねばならぬ声”として聞いたのかもしれない。
「春香さん……」
美奈の声は震えていた。
「森は……誰かが“迎えに来る”のを待ってる。
帰れなくなった子がいるから……
その手を掴む者を、待ってる……」
春香の目に涙が溜まる。
「……じゃあ、行かなきゃいけないの……?
このまま、呼ばれ続けながら……待ってろって言うの……?」
床下──
闇の向こうから、再び声がした。
──……はるか……かえってきて……
それは幼い声だった。
幼い、三歳の少女の声。
「美桜……?」
春香が近づきかけた時、祐真が腕を掴む。
「行かせるわけないだろ。
春香さんが犠牲になるくらいなら、俺が──」
「ダメ。祐真くん、あなたは残って。
誰かが止めなきゃ、この村はずっと……」
美奈が叫ぶ。
「違う! 代わりなんて、出しちゃいけない!
誰も行かせちゃいけない!」
その直後──
床下の暗闇がぶわりと膨らみ、空気が逆流した。
まるで外側に広がっていた森が、家の中に侵入してくるように。
土の匂い。湿った落ち葉の気配。枝が壁を叩くような音。
闇が囁く。
──……ひとりだけでいい……
──……ひとりよこせば……
──……ふたり、かえす……
三人とも硬直した。
「ふたり……?」
美奈の唇が震える。
「美桜と……紅葉……」
春香の喉から、言葉にならない息が漏れた。
老人は顔を覆い、嗚咽するように呟いた。
「そうやって、何十年も……村は持ちこたえてきた……
望まない均衡で、命を繋いできたんだ……」
祐真は歯を食いしばる。
「もう終わりにする。
この仕組みも、森の均衡も。
春香さんを選ばせたりしない……!」
だが、森は聞き分けない。
床下の闇が、ゆっくりと“形”を取って上がってくる。
人の形を模した、影。
右足と左足の重さが違う、あの歩き方で。
──ゆっ……くり……ゆっくりと。




