第137話 床下からの合図
床下を叩くような音は、一度きりでは終わらなかった。
どん……どん……と、規則を持たないリズムで響き、そのたびに床板がわずかに浮き上がる。
「……床の下に、何があるんですか」
祐真が低く問うと、老人は唇を噛んだ。
「開けてはいかん……。
そこには、触れてはならないものがある」
「それじゃ答えになってません。説明してください」
祐真は警察官としての声に変わっていた。
だが老人は、震えた声で振り切るように言う。
「説明したところで……もう遅い。
お前たちは、聞かれてしまった」
春香の背筋が冷たくなる。
「……誰に?」
老人の喉がひくりと動く。
「“森に還れなかった者たち”にだ」
再び、床下から硬い何かが擦れる音がする。
ず、ずり……と、そこに指を這わせるような音。
美奈の顔色が失われた。
「ねぇ……あれ、人の音じゃないよね……?」
「わからない。でも、確かめなきゃいけない」
祐真はそう言うと、机に置かれていた錆びた工具を手に取った。
バールのような形をしているが、用途はよくわからない。
「待ってくれ……開ければ、引きずり込まれるぞ。
ここは、“境界”の上なんだ」
老人の声は確かに警告だった。
だが、春香は後ろへ退かずに前へ一歩出る。
「美桜も……紅葉も……この先に繋がっているなら。
見ないで終われるわけがない」
老人は目を閉じ、痛むような声でつぶやく。
「……母親というのは、どうしてこうも……止められん……」
ミシッ
床板の一枚が、内側から膨れ上がった。
まるで、誰かが下から押しているように。
祐真は息を呑み、バールを差し込む。
「下がってろ」
板がゆっくりと剥がれていく。
古い木が裂ける匂いとともに、暗い穴が姿を現した。
ひんやりとした冷気が吹き上がる。
風を感じるはずのない床下から、まるで森の奥と同じ湿った気配が流れ込んでくる。
「……穴、じゃない……」
美奈が小さくつぶやいた。
そこは“空洞”だった。
人がしゃがめば入れそうな広さの空洞が、建物の下に広がっている。
祐真がランタンを差し入れる。
光が届いた先に──並んでいた。
小さな靴。
古びた子どものものがいくつも。
泥のついたままの長靴や、ちいさな布靴。
その中に、春香は見覚えのあるものを見つけた。
「……これ……美桜の……」
震える指先が、汚れた赤い靴に触れそうになる。
だが触れる前に、老人が怒鳴った。
「触れるなッ!!」
春香がはっと手を止める。
「それを動かせば……道が開く。
“連れていかれる道”が」
美奈が息を詰めた。
「じゃあ……ここの靴はみんな……」
「呼ばれた子どもたちのものだ」
その瞬間──
床下の闇から、小さな指先がひょいと現れた。
白い、泥にまみれた幼い手が、春香の袖をそっと掴む。
春香の心臓が止まりそうになる。
「……み……お……?」
呼びかけると、その手がゆっくり震えた。
返事ではなく、引こうとする動き。
引っ張ろうとしている。
下へ。
祐真が叫ぶ。
「春香さん、離れて!!」
しかし、春香は離せなかった。
その手はあまりにも、小さかった。
あの日、三歳だった美桜の手と同じだった。
老人の声が震える。
「離せ……!
それは“思い出した形”であって……
本物ではない……!
下にいるのは、美桜ではない!!」
春香の目に涙が滲む。
「……でも、呼んでる……!」
「違う!“呼んでいるように見せている”だけだ!!」
春香の腕を掴んだまま、床下の手が不自然に細長く伸びる。
皮膚がきしむような音。
祐真がその手をバールで払い落とす。
パチンッ!
指が音を立てて闇へ戻る。
床下で、子どもの声とも風の声ともつかない声が、ひゅう、と漏れた。
美奈は目を見開いた。
「今の……泣き声……?」
「違う。泣いてる声じゃない。
笑ってる」
祐真の声が震えた。
老人がぽつりと呟いた。
「……森は“代わり”を求めている。
呼ばれた者を返さぬ代わりに。
ここにいる誰かが残らねば、道は閉じん。
そのために、選ばれてしまったのだ」
「誰が……?」
老人は、三人を順に見回し──
春香で視線が止まった。




