第136話 差し出された代償
老人は名を名乗らなかった。
名乗る必要がない、とでも言うように、彼は
集会所の中央に立ち、ゆっくりと三人を見回した。
「……もう、隠す意味もないか」
祐真は無意識に、春香と美奈の前に立った。
「あなたは……何を知っている」
老人は乾いた笑いを漏らす。
「“知っている”んじゃない。
“関わってきた”だけだ」
老人は古い長机に手をつき、遠くを見るような目をした。
「この村はな……
昔から、森に守られてきた」
美奈が息を呑む。
「……守られて……?」
「作物は枯れず、疫病も広がらず、
大きな災いは、外を通り過ぎていった」
老人の声は淡々としていた。
「その代わりに……
“時々”、森が求めるものがあった」
春香の指が、強く握り締められる。
「……子ども……?」
老人は、はっきりとうなずいた。
「“呼ばれる”子が出る。
理由は分からん。
だが……決まって、秋祭りの夜だった」
祐真の喉が鳴る。
「……拒めば、どうなる」
老人は、視線を祐真に向けた。
「……拒んだ年が、一度だけあった」
空気が、重く沈む。
「村の外から来た若い夫婦がいてな……
子どもが呼ばれた」
老人は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……父親が、森に入った。
夜が明けても、戻らなかった」
美奈の肩が、びくりと跳ねる。
「……母親は?」
「……その年の冬、村を出た。
その後は……誰も知らん」
春香の胸に、怒りが込み上げる。
「……そんな……
それを……
“仕方ない”で済ませてきたの……?」
老人は、目を伏せた。
「……“済ませた”わけじゃない……
“黙る”しかなかった……」
祐真は、はっきりと問う。
「……美桜は……
20年前の……
橘美桜は……
“差し出された”んですか」
老人の沈黙が、答えだった。
春香の視界が暗転する。
「……違う……
あの子は……
迷子になっただけ……
私が……
目を離しただけ……!」
老人は、かすかに首を振った。
「……違わん……
“呼ばれた”んだ……」
春香の喉から、嗚咽が漏れる。
そのとき、美奈が震える声で言った。
「……じゃあ……
紅葉も……?」
老人は、ゆっくりと目を上げた。
「……あの子は……
“境目”に立っていた」
「……境目?」
「……連れていく側か……
留まる側か……」
祐真が鋭く問う。
「……どういう意味だ」
老人は、初めて苦しそうな顔をした。
「……あの子は……
“見えていた”……」
集会所の空気が、ひやりと冷える。
「……森の奥の……
“戻れなかった者たち”が……」
美奈の脳裏に、紅葉の最後の言葉がよみがえる。
──「ねえ……森の中、誰かいるよ」
あれは、幻覚ではなかった。
春香は、震える声で言った。
「……じゃあ……
紅葉は……
助けを……
求めていた……?」
老人は、重くうなずいた。
「……だからこそ……
“連れていかれた”……」
その瞬間──
どん……
集会所の床下から、鈍い音が響いた。
三人は凍りつく。
どん……どん……
まるで、下から叩いているような音。
老人の顔色が変わった。
「……来る……
“気づかれた”……」
祐真が叫ぶ。
「何がだ!」
老人は、絞り出すように言った。
「……“代償を、取り戻しに”……」
床板が、きしりと鳴った。
森は、まだ終わっていなかった。




