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紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


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135/154

第134話 名前を持たない朝

 夜が明けきらないうちに、森は静けさを取り戻していた。

 あれほど濃密だった気配は嘘のように消え、鳥の声だけが、ぎこちなく朝を告げている。

 だが、その静けさは「終わり」を意味してはいなかった。

 春香は、抱きしめていた腕をゆっくりと緩めた。

 少女──紅葉だった“存在”は、もう震えてはいない。

 だが、その瞳には、どこか焦点の合わない空白が残っていた。

「……寒くない?」

 春香が問いかけると、少女は少し考えるように間を置いてから、首を横に振った。

「……わからない」

 その答えに、胸が締めつけられる。

 名前だけではない。

 感覚の一部が、森に置き去りにされたままだ。



 美奈は一歩下がった場所で、少女を見つめていた。

 ──紅葉。

 親友だったはずの存在。

 けれど今、目の前にいるのは「紅葉を知っている何か」でしかない。

「……ねえ」

 美奈は、恐る恐る声をかけた。

「私……わかる?」

 少女は、美奈の顔を見た。

 じっと、じっと、観察するように。

「……知ってる……気がする……」

 それは、肯定とも否定とも取れない言葉だった。

 美奈は、思わず視線を伏せる。

 ──それでいい。

 思い出せなくていい。

 無理に、戻らなくていい。

 けれど、胸の奥に残る痛みは、どうしても誤魔化せなかった。

 一方、祐真は森の奥を見つめたまま、動かなかった。

 鈴は壊れた。

 札も役目を終えた。

 それでも──

「……終わってないな」

 低く呟く。

 春香が顔を上げる。

「……どういう意味?」

 祐真は、地面に残った“掘り返された跡”を指した。

「……あれは……

 “呼ぶ器”の一つに過ぎない……」

 美奈が息を呑む。

「……一つ……?」

「……村の中に……

 まだ、ある……」

 その言葉に、春香の顔色が変わった。

「……じゃあ……

 紅葉が消えたのは……

 偶然じゃない……?」

 祐真は、はっきりと頷いた。

「……20年前も……

 同じだ……」

 春香は、唇を噛みしめた。

 美桜。

 そして紅葉。

 選ばれたのではない。

 “置かれた”のだ。

 村の中に、誰かが。

 あるいは、村そのものが。



 少女が、不意に口を開いた。

「……ここ……

 帰れない……?」

 その声は、かすれていた。

 春香は、即座に首を振る。

「……帰れる……

 大丈夫……」

 祐真が続ける。

「……森には……

 もう、戻さない……」

 その言葉には、警察官としてではなく、

 かつて“呼ばれかけた子ども”だった男の決意が滲んでいた。



 朝日が、木々の隙間から差し込む。

 その光は、森を照らしているはずなのに──

 地面の奥に沈んだ影までは、決して届かない。

 春香は、少女の手を握った。

 確かに、温かい。

 それでも、背後で何かが静かに息を潜めている気がしてならなかった。

 森は沈黙したまま、

 まだ、何も語っていない。


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