第132話 名のない帰還
紅葉は、そこに立っていた。
確かに“姿”は紅葉だった。
制服の皺の付き方も、靴の擦れ具合も、記憶の中の彼女と違わない。
けれど──
その目だけが、決定的に違っていた。
春香は、声を出そうとして失敗した。
喉が、ひくりと鳴るだけで、言葉にならない。
「……紅葉……?」
祐真が、慎重に名前を呼ぶ。
だが少女は、わずかに眉を寄せただけだった。
「……さっきも言った……
それ……私の名前じゃない……」
美奈が、一歩近づく。
「……じゃあ……
あなたは……誰……?」
紅葉の姿をした“それ”は、少し考えるように首を傾げた。
「……分からない……
目を開けたら……
ここに……」
春香の胸が、締めつけられる。
「……何も……覚えてないの……?」
「……森の……
暗いところ……
鈴の音……」
その言葉に、美奈がびくりと身を強張らせた。
「……鈴……?」
少女は、こくりと頷く。
「……ずっと……
“名前を呼ばれるのを待ってた”……」
祐真が、低く息を吐いた。
「……やっぱり……
完全には切れてない……」
春香は、ゆっくりと近づいた。
足音を立てないように、獣を警戒するような動きで。
「……ねぇ……
寒くない……?」
少女は、一瞬だけ視線を落とした。
「……寒い……
ずっと……」
その言葉に、春香は耐えきれなくなり、
上着を脱いで差し出した。
少女は戸惑いながらも、それを受け取った。
──その瞬間。
鈴が、鳴った。
地面に落ちていたはずの小さな鈴が、
誰にも触れられていないのに、かすかに震えたのだ。
ちり……。
少女が、びくりと肩を揺らす。
「……あ……」
美奈が、即座に叫ぶ。
「……触らないで!
それ……!」
だが遅かった。
鈴は、少女の足元へと、
転がるように近づいていた。
まるで──
“持ち主のもとへ帰る”かのように。
祐真が、歯を食いしばる。
「……くそ……
まだ……
終わってない……」
春香は、少女の前に立ち塞がった。
「……鈴を……
見ちゃだめ……!」
だが、少女は静かに言った。
「……これ……
私の……?」
鈴が、再び鳴る。
ちりん。
その音と同時に、
森の奥が、わずかに歪んだ。
木々の隙間に、
“影”が、まだ残っている。
いや──
残骸のようなものが、蠢いている。
「……名前……
返って……ない……」
誰のものとも知れない声が、
地を這うように響いた。
少女が、苦しそうに頭を押さえる。
「……呼ばないで……
呼ばれると……
引っ張られる……」
春香は、震える手で、
少女の肩を抱いた。
「……大丈夫……
もう……
誰も……
あなたを呼ばない……」
祐真が、森を睨みつける。
「……なら……
こちらから切るしかない……」
美奈が、祐真を見た。
「……どうやって……?」
祐真は、鈴を見下ろし、静かに言った。
「……“名を繋ぐ器”を……
壊す……」
春香が、はっとする。
「……それって……」
「……そうだ……
完全に切れる代わりに……
戻る名前も……
もう……」
少女が、不安そうに春香を見上げる。
「……私……
どうなる……?」
春香は、答えられなかった。
ただ、強く、抱きしめる。
「……生きる……
それだけで……
いい……」
鈴が、ひときわ強く鳴った。
森が、再び息を潜める。
選択の時が、
迫っていた。




