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紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


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第131話 差し出される名

 春香の一歩は、確かだった。


 足元の砂利が、かすかに鳴る。

 それだけの音なのに、森の気配が一斉にざわめいた。


「……春香さん……」


 祐真が、思わず呼びかける。

 だが春香は振り返らなかった。


「……二十年前も……

 私、同じところで……

 立ち止まった……」


 声は静かだった。

 泣いてはいない。

 けれど、長い時間をかけて固めた決意が滲んでいた。


「……あのとき……

 美桜の名前を……

 何度も呼んだ……」


 鳥居の影に立つ人影が、微かに揺れる。


 ──ちりん。


 鈴が鳴る。


「……名前を呼べば……

 戻ってくると……

 信じてた……」


 春香は、胸に手を当てた。


「……でも……

 それは……

 私の、都合だった……」


 美奈が、震える声で言う。


「……春香さん……

 やめて……

 “それ”が……

 何を求めてるか……」


「……分かってる」


 春香は、初めて振り返った。


 その目は、まっすぐだった。


「……“代わり”よね……」


 祐真が、苦しそうに頷く。


「……ああ……

 “名を持つ誰か”を……」


「……だったら……」


 春香は、再び前を向いた。


「……二度も……

 娘を失うなんて……

 耐えられない……」


 その瞬間、

 影が、大きく歪んだ。


 人の形を保てなくなった闇が、

 ざらり、と音を立てて地面に滲む。


「……は……る……か……」


 呼ばれた。


 はっきりと、彼女の名を。


 春香は、目を閉じた。


「……どうぞ……

 私の名前を……」


 ──ちりん。


 鈴が、強く鳴った。


 だが、その直後──

 美奈が、春香の腕を掴んだ。


「……違う!!」


 必死の声だった。


「……それ……

 “母親の名前”なんか……

 欲しがってない……」


 春香が、目を見開く。


「……え……?」


 美奈は、震える手で、鳥居の影を指さした。


「……あれ……

 子どもの形してる……」


 祐真も、はっとする。


「……名前を奪われたのは……

 いつも……

 “呼ばれる側”だ……」


 影が、低く呻いた。


「……名……

 よこせ……」


 だが、その声は、先ほどより弱い。


 美奈は、一歩前に出た。


「……あんたが欲しいのは……

 “奪った名前を呼び返す力”……」


 祐真が、理解したように息を呑む。


「……母親の名前じゃない……

 “呼ばれる子どもの名前”だ……」


 春香の脳裏に、

 紅葉の声が蘇る。


 ──『もし、私がいなくなったら……

 “くれは”って呼ばないで』


 春香は、唇を噛みしめた。


「……紅葉は……

 分かってた……」


 影が、焦れたように身じろぐ。


「……名……

 よこ……」


 春香は、静かに、だがはっきりと言った。


「……呼ばない」


 鈴が、止まる。


「……私は……

 もう……

 娘の名前を……

 “呼ばない”……」


 森が、ざわり、と大きく揺れた。


 影が、苦しそうに歪む。


「……じゃあ……

 返して……」


 その言葉に、

 祐真が一歩踏み出した。


「……返せ。

 “奪ったままの名前”を……」


 沈黙。


 次の瞬間──

 影の胸元から、

 淡い光が零れ落ちた。


 それは、文字の形をしていた。


 崩れかけた文字。


 ──みお。

 ──くれ……。


 完全な形になれず、

 宙で揺れている。


 美奈が、声を震わせる。


「……まだ……

 間に合う……」


 春香は、胸に手を当て、

 涙をこらえながら言った。


「……返して……

 “私の娘たちの名前”を……」


 影が、悲鳴のような音を立て、

 崩れ始めた。


 鈴が、地面に落ちる。


 ──からん。


 その音を最後に、

 森の気配が、すっと引いていった。


 夜風が、戻る。


 虫の声が、遠くで鳴き始める。


 鳥居の前に、

 誰もいなくなっていた。


 残されたのは、

 土の上に転がる、小さな鈴だけ。


 春香は、その場に膝をついた。


「……紅葉……

 帰ってきて……」


 そのとき──

 背後から、足音がした。


 軽い、急ぎ足。


「……お母さん……?」


 その声に、

 春香の心臓が止まりかけた。


 振り向くと──

 月明かりの下に、

 見覚えのある制服姿が立っていた。


 長い髪。

 少し困ったような表情。


 美奈が、叫ぶ。


「……紅葉!!」


 だが──

 紅葉は、首を傾げた。


「……“くれは”……って……

 誰……?」


 春香の喉が、凍りつく。


 祐真が、低く呟いた。


「……名前は……

 戻りきってない……」


 鈴が、月明かりの中で、

 小さく、震えた。


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