第120話 戻れぬ証
森を出たとき、夜の冷気が妙に現実味を帯びて春香の頬を打った。
ついさっきまで、土の匂いと白い骨と、声にならない声に囲まれていたはずなのに、鳥居の外はあまりにも静かで、何もなかったかのように平穏だった。
それが、かえって不気味だった。
祐真は無言で無線を入れ、簡潔に状況を報告した。
すべてを話しているわけではない。――“影”のことも、“声”のことも。
ただ、「不審な埋設物を発見」「人骨と思しきものあり」という、現実の言葉に置き換えただけだった。
春香は、神社の石段に腰を下ろしたまま、動けずにいた。
墓標も名も持たず、森の底に二十年も眠っていた“何か”。
それが美桜かもしれないという事実が、胸の奥で鈍く脈打っている。
「……連れて帰れないの……?」
嗄れた声で、春香が問う。
祐真は少しの沈黙のあと、首を横に振った。
「今は……正式な鑑識が来るまで、手をつけられません」
「じゃあ……あの子は……また……あの森に……」
言葉が、ふっと途切れた。
春香は唇を震わせ、両手で顔を覆った。
美奈はその背中に、そっと手を置いた。
「……春香さん……」
だが、どんな言葉も慰めにならないと分かっていた。
祐真は、森の方を振り返る。
闇の奥は、何事もなかったかのように静まり返っている。
だが、あそこに“何かが残っている”ことだけは、もう疑いようがなかった。
「……二十年前も、こんなふうに……」 祐真がぽつりと呟く。
「声も、証拠も、何も残らなかった。ただ……消えた」
「……美桜ちゃんも、やっぱり……」
美奈の言葉に、祐真は視線を伏せた。
「まだ……鑑定するまでは、決められない」
「でも……骨があった……」
「それが“誰のものか”が分からない限り、断定はできない」
しかしその理屈が、春香の心を守る盾にはならなかった。
しばらくして、遠くからサイレンの音が近づいてきた。
赤色灯が木々の間に滲み、森の輪郭を揺らす。
その光を見つめながら、美奈は、小さく唇を噛みしめた。
「……紅葉……」
あの影が“祭り”と呟いたとき、
鈴の音が聞こえたとき、
胸の奥で、嫌な確信が芽生えていた。
──紅葉は、まだ終わっていない。
そして、この森は、“ひとり返しただけでは満足しない”。
警察車両が到着し、森は一気に現実の場所へと引き戻された。
だが、誰の心にも、さきほどの“異界”の気配は色濃く残っていた。
鑑識を呼ぶ準備を整えながら、祐真は春香に向き直る。
「……これから、もっと辛いことがあるかもしれません」
「……ええ……分かってる……」
春香は、弱々しくも、確かに答えた。
「……でも……逃げない……。もう……どこにも……」
その言葉に、祐真は小さく頷いた。
美奈は胸の奥で、別の不安を押し込める。
──紅葉は、あの森で“何を見た”のか。
──“誰に呼ばれた”のか。
そして──
私に、言い残そうとした“あの言葉”は、何だったのか。
サイレンの音が、夜の森に長く尾を引いた。
それはまるで、
還れなかった者たちへの、遅すぎる呼び声のようでもあった。




