第119話 還れぬものの足音
影が──春香へ向かって一歩踏み出した瞬間、
祐真は反射的に春香の前へ体を滑り込ませた。
「下がってください!」
乾いた声が森に響く。
銃口は、迷いなく“それ”に向けられていた。
だが、影は止まらない。
人の形をした黒い塊が、ぬめるように地表を進むたび、足元の土が微かに盛り上がった。
まるで──
地中に埋まった“何か”と繋がっているかのように。
春香は、祐真の背越しに、その影を見つめていた。
足が震えて動かない。
だが、目だけは逸らせなかった。
「……美桜……なの……?」
問いかけは、祈りのように掠れていた。
影は答えない。
代わりに、再び“声”が重なり合って森に滲み出す。
──か……え……れ……
──か……え……ら……せ……
子どもの声。
泣いているのか、怒っているのかも分からない、歪んだ声。
美奈は、両耳を塞いだ。
「違う……これ、紅葉じゃない……!」
震える声で、必死に言い切る。
「紅葉は……こんな声、出さない……こんな……苦しそうな声、しない……!」
その言葉に、春香の胸が強く締めつけられた。
──そうだ。
紅葉は、こんな声で呼ぶ子じゃない。
あの子はいつも、少し照れたように、
「お母さん」と呼んだ。
祐真は、影と土の盛り上がりを交互に見ながら、低く息を吐いた。
「……これは、“一体”じゃない」
「え……?」
美奈が祐真を見る。
「地中に残された“複数の何か”が、ひとつの形を作って動いている……。そんな気配だ」
警察官としての理屈では説明できない。
だが、子どもの頃、美桜が消えたあの夜に感じた違和感と、あまりにも似ていた。
そのとき──
春香の足元で、小さく土が崩れた。
ぼろり、と落ちた土の下から、
もうひとつ、白いものが覗いた。
「……っ!」
春香は息を飲み、後ずさる。
それは──
明らかにさきほどのものよりも“細い”。
「……大人じゃない……」
祐真の声が、僅かに震えた。
「子どもだ……」
春香の胸に、冷たい確認が突き刺さる。
──美桜だけじゃない。
この森には、
まだ他にも、“還れなかった子ども”がいる。
影が、突如として“止まった”。
そして──
ゆっくりと、首のないはずの“顔の位置”が、今度は美奈の方を向いた。
ぞくり、と背筋が冷える。
「……美奈……」
春香が、思わず名を呼ぶ。
影の中で、ほんの一瞬──
鈴の音が、微かに鳴った気がした。
美奈の喉が、ひゅっと鳴る。
「……今……鈴……?」
紅葉が、あの日つけていた髪飾り。
歩くたび、ほんの小さく鳴っていた、あの音。
影は、一歩も動かないまま、低く、混じり合った声をこぼした。
──ま……つ……り……
──よ……る……
──ま……だ……つ……づ……い……て……る……
春香の顔から、血の気が引いた。
「……秋……祭り……?」
その瞬間──
影の輪郭が、ふっと揺らいだ。
そして次の瞬間、
何事もなかったかのように、霧に溶けるように消えた。
残されたのは、
崩れた土と、白い骨と、
──異様なほど静まり返った森だけだった。
しばらく、誰も声を出せなかった。
やがて、祐真がゆっくりと銃を下ろす。
「……今は……これ以上は無理だ……」
春香は、唇を噛みしめながら、頷いた。
「……ここに……戻ってくるのね……また……」
それは問いではなく、確信に近かった。
美奈は、震える息を整えながら、ぽつりと呟く。
「……紅葉……まだ……“あの森”に……呼び戻されてる……」
秋祭り。
鈴の音。
地中の白。
すべてが、一本の糸で繋がり始めていた。




