第7話 九万八千円の賭け
販売価格。
九万八千円。
【現在価格:960,000円】
【10年後の価格:2,400,000円】
「…………」
俺は古い大型アンプの前で固まっていた。
見間違いじゃない。何度見ても同じだ。
九万八千円。
現在価値、九十六万円。
差額。
八十六万二千円。
「いやいやいや……」
さすがにおかしい。
腕時計は五百円。
レンズは一万二千円。
そこまではまだ理解できた。
店側が価値を見落としていた。相場を調べきれていなかった。そういうこともあるだろう。
でも、これは差が大きすぎる。
「九十六万……?」
アンプを見る。
巨大。
重そう。
古い。
正直、俺にはただの黒い箱にしか見えない。
前面に銀色のつまみが並んでいる。メーカー名も型番も知らない。オーディオに詳しい人なら見ただけで分かるのかもしれないが、俺にはさっぱりだ。
「お客様?」
店員が近づいてきた。
「はい」
「そちら、気になります?」
「あー……まあ」
「古いモデルなんですが、音はいいですよ」
「へえ」
「かなり重いですけどね」
「どれくらいです?」
「三十キロ近くあります」
「…………」
やっぱり黒い箱じゃないか。
三十キロの。
「ちなみに」
俺は聞いた。
「なんで九万八千円なんですか?」
「え?」
「いや、こういうの詳しくなくて」
「ああ」
店員はアンプを見る。
「入荷してから結構経ってるんですよ。なかなか売れなくて」
「なるほど」
「場所も取りますし、少し値下げしてます」
「元はいくらだったんです?」
「十四万八千円ですね」
「…………」
十四万八千円でも安い。
能力が正しければ。
なぜ誰も買わない?
「人気ないんですか?」
「好きな人には人気ありますよ。ただ、今はもっと小型の機材も多いですからね」
なるほど。
価値があることと、今すぐ売れることは別。
時計のときにも似たようなことを考えた。
そして、これが重要だ。
【現在価格:960,000円】
これは九十六万円で必ず売れる、という意味ではない。
あくまで今の市場価値。
店に売れば、当然そこから利益や整備費を引かれる。買取価格はもっと安くなる。
三十万円。
四十万円。
場合によっては、もっと低いかもしれない。
「…………」
それでも。
九万八千円を大きく下回る可能性は低い。
たぶん。
いや。
その「たぶん」が怖いんだよ。
◇
俺は一度、店を出た。
駐車場。
車の中。
未来価格ノートを開く。
現在の軍資金。
前回の利益。
小遣いの残り。
細かく足す。
「……十一万ちょっと」
九万八千円を払えば、ほぼ全部なくなる。
しかも。
家計には手を出さないルール。
つまり失敗したら、次の資金がない。
「どうする」
俺はアンプの数字を思い出す。
九十六万円。
十年後、二百四十万円。
能力を信じるなら買う。
絶対に買う。
でも。
俺は昨日まで普通の会社員だった。
九万八千円は大金だ。
気軽に賭けられる金じゃない。
しかも、これを買って家に持って帰ったら。
「……美咲にバレるな」
百パーセント。
三十キロのアンプを隠せるわけがない。
腕時計なら引き出し。
レンズならバッグ。
これは存在感が強すぎる。
「どう説明すんだよ……」
九万八千円の巨大な機械を抱えて帰って、
『投資です』
通じるか?
いや。
通じない。
「…………」
俺はスマホを取り出した。
結衣の写真。
先週、公園で撮ったものだ。
笑っている。
「十年か」
時間はあるように見える。
でも、一日ずつ減っている。
もし未来を変えるために一億円必要だったら?
十億円必要だったら?
金じゃなくても、金があることで近づける答えがあるかもしれない。
「……やるか」
俺は車を降りた。
◇
再び店内。
「すみません」
「はい」
「あのアンプ」
「はい」
「買います」
口に出した瞬間、心臓がドクンと鳴った。
「ありがとうございます」
店員は普通に答える。
俺だけが命懸けみたいになっている。
「お持ち帰りですか?」
「…………」
三十キロ。
無理。
「配送できます?」
「できますよ」
「お願いします」
「ご自宅まででよろしいですか?」
「はい」
答えたあとで気づく。
家に届く。
美咲がいる。
「…………」
終わった。
◇
二日後。
仕事中。
スマホが震えた。
美咲からメッセージ。
『でっかい荷物きたんだけど』
「…………」
来た。
続けて。
『何これ?』
写真。
リビングの端に置かれた巨大な段ボール。
「まずいな」
さらに。
『慎吾?』
俺は返信する。
『帰ってから説明します』
既読。
すぐに。
『いくら?』
「…………」
逃げ道がない。
『98000円』
送信。
三秒。
五秒。
十秒。
既読。
返事がない。
「怖っ」
怒ってるときの無言が一番怖い。
その後、仕事が終わるまで返信はなかった。
◇
「ただいま」
玄関を開ける。
静か。
嫌な静けさ。
リビングへ入る。
美咲がテーブルに座っている。
その横には、巨大なアンプ。
「おかえり」
「……ただいま」
「座って」
「はい」
家庭裁判所が開廷した。
結衣はソファでアニメを見ている。
頼む。
今日も助けてくれ。
「これ」
美咲がアンプを指差す。
「はい」
「九万八千円?」
「はい」
「何?」
「アンプ」
「それは見ればなんとなく分かる」
「はい」
「なんで買ったん?」
来た。
「売るためです」
「また?」
「はい」
「カメラのやつみたいに?」
「そう」
美咲はアンプを見る。
「これが?」
「はい」
「いくらで売れるの?」
「…………」
「慎吾」
「たぶん」
「その『たぶん』やめて」
「結構高く」
「いくら」
「…………」
俺は覚悟した。
「九十万くらい」
美咲が止まった。
「は?」
「九十六万くらいの価値があると思う」
「九万八千円で買ったのに?」
「そう」
「九十六万?」
「はい」
「なんで?」
「…………」
一番答えにくい質問が来た。
「相場を……見た」
「どこで?」
「いろいろ」
「いろいろって何?」
「ネットとか」
苦しい。
めちゃくちゃ苦しい。
美咲はしばらく俺を見る。
「慎吾」
「はい」
「なんか隠してない?」
ドキッとした。
「いや」
「最近おかしいよ」
「そう?」
「株始めるし、中古品買うし、急に値段に詳しくなるし」
「…………」
「その時計も」
美咲が俺の腕を見る。
例の五百円時計。
最近、たまに着けている。
「五百円って言ってたやつやろ?」
「うん」
「本当は高いやつなんじゃない?」
「…………」
鋭い。
「六万八千円くらい」
「はぁ!?」
結衣が振り返る。
「ママ、うるさい」
「あ、ごめん」
怒られた。
美咲が声を落とす。
「五百円で買ったんやろ?」
「うん」
「なんでそんなの分かるん?」
「…………」
言うか?
未来価格。
能力。
娘の絵。
死亡予定日。
いや。
無理だ。
全部を話すには、まだ俺自身も何が起きているのか分かっていない。
「……勘がいいんだよ」
「今までそんな勘なかったやん」
「最近覚醒した」
「四十一歳で?」
「遅咲きです」
「怪しすぎる」
美咲はため息をついた。
「まあいい」
「いいの?」
「自分の小遣いの範囲なんやろ?」
「うん」
「家計には?」
「一円も手出してない」
「それなら」
美咲はアンプを見る。
「本当に九十万近くで売れたら、中古品売買のことは信じる」
「お」
「でも、変なことしてないかは別」
「そこは信用してよ」
「結果次第」
「厳しい」
「売れなかったら?」
「…………」
「一生これ言うから」
「それ一番嫌なやつ」
◇
翌日。
俺はオーディオ専門店へ電話した。
型番を伝える。
少し間があった。
『そのモデルですか?』
「はい」
『状態はどうです?』
「結構きれいです」
『もしよろしければ、一度見せていただけますか?』
「持っていくの大変なんですけど」
『出張査定もできますよ』
「お願いします」
その日の夕方。
専門店の人が来た。
五十代くらいの男性。
アンプを見るなり。
「おお」
反応が違う。
「これ、珍しいですね」
「そうなんですか?」
「最近あまり出ませんよ」
俺と美咲は横で見ている。
結衣もなぜか参加している。
「パパ、これ売るの?」
「うん」
「じゃあおうち広くなる?」
「それはそう」
男性が細かく確認する。
電源。
端子。
内部。
つまみ。
傷。
型番。
「状態いいですね」
「はい」
「どこで買われたんです?」
また来た。
「リサイクルショップです」
「おいくらで?」
「……九万八千円」
男性の手が止まる。
「九万八千?」
「はい」
美咲が俺を見る。
ほら。
普通はその反応だ。
「それは……かなり安いですね」
男性が笑った。
「相場を知らなかったんですかね」
「たぶん」
俺は答える。
その後も査定が続く。
十分。
二十分。
俺は落ち着かない。
【現在価格:960,000円】
変わらない。
頼む。
せめて五十万円。
いや。
三十万円でも十分だ。
九万八千円より高ければ俺の勝ち。
「お待たせしました」
男性が立ち上がる。
「はい」
「こちらですが」
紙を取り出す。
「当店で買い取るなら――」
俺は息を止める。
「八十八万円でいかがでしょう?」
「…………」
頭の中で数字が止まった。
「え?」
「八十八万円です」
「…………」
美咲を見る。
美咲も固まっている。
「八十八……?」
「はい」
九万八千円。
それが。
八十八万円。
俺が見えている市場価値は九十六万円。
専門店の利益を考えれば、十分すぎる査定額だ。
「売ります」
俺より先に。
美咲が言った。
「え?」
「売るやろ?」
「あ、はい」
「売ります」
なんでお前が仕切ってるんだ。
◇
査定員が帰ったあと。
リビング。
静かだった。
アンプがなくなった場所だけ、不自然に広い。
俺と美咲。
向かい合って座る。
「…………」
「…………」
先に口を開いたのは美咲だった。
「八十八万」
「うん」
「九万八千円が?」
「うん」
「八十八万」
「二回言ったね」
「意味分からん」
「俺もちょっと分からん」
いや。
俺には分かっている。
能力のおかげだ。
「慎吾」
「ん?」
「これ、毎回できるの?」
「毎回は無理」
「そうなん?」
「あんなの滅多にないと思う」
これは本当だ。
「でも」
俺は続ける。
「探せば、またあるかもしれない」
美咲がしばらく俺を見る。
「……やっぱり怪しい」
「まだ言う?」
「中古品売買は信じる」
「お」
「でも、なんで分かるのかは怪しい」
「そこは勘です」
「四十一歳の覚醒?」
「そうです」
「怪しい」
「戻った」
でも。
さっきまでとは少し違う。
疑っている。
それでも。
完全には否定していない。
「まあ」
美咲が言った。
「家のお金に手を出さないなら」
「うん」
「好きにしたら?」
「いいの?」
「ただし」
来た。
「調子に乗らんこと」
「はい」
「八十八万になったからって、次に全部使ったりせんでよ」
「…………」
「今、間があったよね?」
「気のせいです」
「慎吾」
「しません」
危ない。
もう見抜かれている。
◇
夜。
結衣が眠ったあと。
俺は未来価格ノートを開いた。
短期売却実績。
購入。
98,000円。
売却。
880,000円。
利益。
782,000円。
「七十八万二千……」
自分で書いて、改めて震えた。
前回。
二万六千円。
今回。
七十八万二千円。
桁が違う。
俺の軍資金は一気に百万円近くなった。
「…………」
スマホを見る。
口座。
今まで見たことのない残高。
百万円に届くかどうか。
世間的には大金持ちじゃない。
でも、昨日までの俺には明らかに違う景色だった。
俺は結衣の部屋へ行く。
例の絵。
【現在価格:0円】
【10年後の価格:300,000,000円】
【価格上昇理由:作者死亡】
変わらない。
「……まだか」
八十八万円。
何も変わらない。
当然だ。
この程度で運命が変わるなら、苦労はしない。
「じゃあ」
一千万円。
一億円。
十億円。
どこまで必要なんだ?
分からない。
だったら。
「行けるとこまで行くか」
俺はノートへ書いた。
次の目標。
一千万円。
「まずはここ」
百万円。
そこから。
一千万円。
約十倍。
普通なら簡単じゃない。
でも。
俺には未来価格がある。
俺は少し笑った。
◇
そして、その夜。
久しぶりにネクサリンク・バイオを確認した。
「……あ」
株価。
二十九円。
「お前さぁ……」
百二十六円で買った株。
現在。
二十九円。
ほぼ四分の一。
見る。
【現在価格:29円】
【10年後の価格:18,740円】
「まだ一万八千円なの?」
変わらない。
俺はしばらく画面を見る。
二十九円。
今なら十万円で三千株以上買える。
十年後。
もし本当に一万八千七百四十円なら――。
計算する。
「……五千万?」
心臓が跳ねた。
今の俺には、百万円近い軍資金がある。
そのうち。
十万円。
二十万円。
ネクサリンクへ追加することもできる。
「…………」
美咲の言葉。
『調子に乗らんこと』
耳に残る。
「分かってるよ」
俺はスマホを閉じた。
今日は買わない。
まず考える。
能力があっても。
俺自身が馬鹿なら。
全部失う。
そのくらいは、ようやく分かってきた。
そして翌日。
俺は百万円の使い道を考えるため、未来価格ノートを開いた。
そこで初めて。
「金を増やす」だけでは足りないことに気づく。
守る。
増やす。
残す。
未来を見る力を持ったからこそ。
俺には、金の使い方を覚える必要があった。




