第66話 二千円まで
土曜日の朝。
朝食を食べ終えた俺は、テーブルの端に置いていたノートへ手を伸ばした。
「慎吾」
「はい」
「今日は未来の研究は禁止」
手が止まった。
「……まだ何もしてないんですけど」
「今からする顔してた」
「どんな顔?」
「眉間にしわ寄せて、難しいこと考え始める顔」
向かいに座った美咲が、自分の眉間を指で押さえてみせる。
そんな顔してる?
俺は隣を見る。
「結衣、パパそんな顔してた?」
「してた!」
「即答やな」
「こわいかお!」
「そこまで?」
「こう!」
結衣が思いきり眉を寄せた。
四歳児がやると、怖いというより怒ったハムスターみたいだ。
「似てる?」
「似てる」
美咲までうなずいた。
「二対一は卑怯やろ」
「多数決です」
「家庭内民主主義が厳しい」
仕方なくノートから手を離す。
実証地域も、黒瀬さんの土地も気にはなる。
それに、まだ最後まで見えていない表示。
【重大事故発生要因:複数対象――】
もちろん気になる。
でも、あのとき俺が見なかった理由は、今も変わっていない。
土曜の朝になったからって、急に答えが出てくるわけでもない。
「分かりました」
「ほんと?」
「今日は研究しません」
「よし」
「ただし」
美咲が目を細める。
「何?」
「未来の値段を見るのも禁止ってこと?」
「…………」
今度は美咲が止まった。
「それは……」
「未来ですけど」
「そうやね」
「俺の能力の基本ですけど」
「そうやね」
「じゃあ今日、一切使えない?」
美咲は腕を組んだ。
数秒考える。
「研究は禁止」
「はい」
「買い物は別」
「判定が雑!」
「難しい顔は禁止。楽しいやつはいい」
「能力の使用基準が妻の気分になった」
「家族会議の決定です」
「俺、会議に参加した覚えないんやけど」
「パパ!」
結衣が椅子から身を乗り出す。
「おかいもの?」
「みたいです」
「いく!」
「まだ何を買うかも決まってないぞ」
「いくー!」
目的地より先に参加が決まった。
まあ、四歳児なんてそんなもんだ。
美咲がスマホをこちらへ向ける。
「これ」
画面には、週末のフリーマーケットの案内が出ていた。
車でそれほど遠くない広場。
個人出店が中心で、古着や雑貨、玩具、食器なんかが並ぶらしい。
「へえ」
「こういうとこなら、結衣も見るもんあるやろ」
「ある!」
「まだ写真しか見てないやろ」
「ある!」
「自信だけはすごいな」
美咲が立ち上がる。
「で、ルール決めます」
「また?」
「一人、二千円まで」
「一人?」
「うん」
「結衣も?」
「もちろん」
「にせんえん!」
結衣が両手を上げた。
たぶん二千円がいくらか分かっていない。
「使い切らんでいいんよ」
「つかう!」
「そこは理解したん?」
「にせんえん!」
「数字だけ気に入ったな」
俺は笑いながら椅子を引いた。
二千円。
大金じゃない。
失敗しても、家計がどうこうなる金額でもない。
未来の値段を見る能力を使って、ちょっと遊ぶ。
たまには、それくらいでいいのかもしれない。
◇
「パパ! いっぱい!」
「いっぱいやな」
会場に着いた結衣は、入口からすでに忙しかった。
右を見て、左を見て、前を見て。
古着の山。
箱に詰められた食器。
昔のゲーム。
ぬいぐるみ。
工具。
本。
何に使うのかよく分からない置物まである。
「結衣、走らんよ」
「はーい!」
返事だけは百点だった。
返事をしながら小走りになっている。
「走ってますけど」
「結衣」
「あるいてる!」
「その速度で?」
美咲が捕まえた。
俺は周囲を見回す。
こういう場所は、リサイクルショップとは少し違う。
値段の付け方も出品者次第。
品物の状態もバラバラ。
未来価格を見るには面白そうだけど、未来価格だけで買うには怖そうでもある。
「慎吾」
「ん?」
「慎吾は値段見て」
「はい」
「私は状態とか見るから」
「おお」
「結衣は欲しいもん探しな」
「わたし、ほしいの!」
「それが一番大事やな」
美咲が笑う。
「あと、置く場所ないやつは禁止」
「まだ何も見つけてないのに?」
「慎吾が絶対でかいの見つけるから」
「俺への信用が変な方向に高い」
そう言って歩き始めて。
十分もしないうちに。
「美咲」
「いらん」
「まだ何も言ってない」
「でかい」
予言が当たった。
俺の目の前にあったのは、大きな古いスピーカーだった。
高さは俺の膝より上。
片方だけ。
表面には多少傷があるけど、見た感じでは致命的な壊れ方はしていない。
貼られた値札は千五百円。
こういう古い音響機器って、物によっては値段が上がるんだよな。
俺は意識を向けた。
【現在価格:1,300円】
【10年後の価格:62,000円】
「おお」
「その『おお』は嫌な予感しかしない」
「六万二千円」
「いらん」
「早い!」
「どこ置くん?」
「…………」
振り返る。
美咲も振り返る。
結衣は隣の店のぬいぐるみを見ている。
「リビング?」
「いらん」
「俺の部屋?」
「どこにそんな余裕あるん」
「玄関」
「邪魔」
「物置」
「もう入ってます」
「…………」
「はい、次」
「十年後、六万二千円やぞ?」
「今すぐ売るん?」
「いや」
「十年置くん?」
「まあ……」
「十年間?」
「……長いな」
「でしょ」
ぐうの音も出ない。
数字だけなら悪くない。
でも十年間、家のどこかにこのサイズのスピーカーが居座る。
それを想像したら、急に六万二千円が安く見えてきた。
「能力では買いなんやけどなあ」
「家では買いじゃありません」
「はい」
俺はスピーカーに別れを告げた。
未来の六万二千円。
お前とは縁がなかったらしい。
「パパー!」
「はいはい」
「これかわいい!」
呼ばれて行くと、結衣がでかい熊のぬいぐるみを抱えていた。
結衣とほぼ同じ大きさだ。
「それもでかいな」
「かわいい!」
美咲を見る。
「……結衣の二千円なら?」
「置く場所」
「ですよね」
「えー!」
家庭内で、大きさに対する規制が強化されていた。
それから少し歩いたところで、また足が止まった。
透明なケースの中。
古い携帯音楽プレーヤーが置かれている。
値札は千八百円。
小さい。
これは置き場所にも困らない。
さっきの反省を早速生かした俺は、ちょっと得意げに美咲を呼んだ。
「今度は小さい」
「そこ基準になったん?」
「大事らしいので」
意識を向ける。
【現在価格:1,600円】
【10年後の価格:28,000円】
「二万八千円」
「へえ」
「千八百円」
「いいやん」
「やろ?」
やっと美咲の反応がいい。
俺は手を伸ばしかけた。
そのとき、美咲が値札の下を指した。
「これ何?」
「ん?」
小さな紙に手書きで書いてある。
『動作未確認』
「…………」
「動くん?」
「未確認らしい」
「慎吾、直せる?」
「無理」
「修理代は?」
「分からん」
「直らなかったら?」
「…………」
「はい、次」
「待って。十年後、二万八千円やぞ?」
「未来で動いてるか分かる?」
「それは……」
表示されているのは値段だ。
十年後の価格。
それが今の個体の状態をどこまで織り込んでいるのか。
修理した結果なのか。
部品取りなのか。
そもそも何もしなくても動くのか。
そこまでは分からない。
「修理に三万かかったら赤字やろ?」
「ごもっともです」
「慎吾」
「はい」
「値段しか見えてない」
「刺さるなあ」
でも、その通りだった。
俺が見えるのは、未来の値段。
その途中にかかる手間や金まで、全部教えてくれるわけじゃない。
「……美咲」
「何?」
「今日、結構役に立ってない?」
「失礼やね」
「いや、普段が役に立たないって意味じゃなく」
「言い訳が下手」
「すみません」
「パパー!」
助け舟が来た。
結衣が少し先の店で手を振っている。
「これ!」
手に持っていたのは、小さな黄色い動物のマスコットだった。
犬なのか熊なのか。
ちょっと判断に困る顔をしている。
「何それ?」
「わんちゃん!」
犬らしい。
「熊かと思った」
「わんちゃん!」
「犬です」
値札は三百円。
「これかう!」
「早いな」
「かわいい!」
結衣は完全に気に入っている。
その顔を見ながら。
俺は、つい見てしまった。
【現在価格:300円】
【10年後の価格:40円】
「…………」
下がるんかい。
しかも結構下がる。
「パパ?」
「あー……結衣」
「なに?」
「こっちにも、かわいいのあるぞ」
隣には、小さな車のおもちゃがある。
俺がそっちへ誘導しようとした瞬間。
「慎吾」
「はい」
「結衣のは投資やない」
「…………」
美咲の一言で止まった。
結衣を見る。
黄色い犬らしい何かを、両手で大事そうに持っている。
「これがいい!」
十年後、四十円。
だから何だ。
俺は頭をかいた。
「……そうやな」
「うん」
「結衣」
「なに?」
「それ欲しい?」
「ほしい!」
「じゃあ買おう」
「やったー!」
結衣が跳ねた。
三百円。
十年後には四十円。
でも今、結衣は三百円以上に嬉しそうだ。
「パパ、これなまえつける!」
「もう?」
「うん!」
「犬なんやろ?」
「わんちゃん!」
「名前がわんちゃん?」
「ちがう!」
「難しいな」
結衣はマスコットを抱えて考え始めた。
美咲が俺を見て、少し笑っていた。
「何?」
「別に」
「今、絶対なんか思ったやろ」
「成長したなあって」
「誰目線?」
「妻目線」
「上からやな」
そんなことを言いながら、また歩く。
今度は美咲が止まった。
「慎吾」
「ん?」
「これどうなん?」
珍しい。
美咲の方から呼ばれた。
覗き込む。
棚の上に置かれていたのは、小さな箱だった。
少し色あせている。
中には古いミニカー。
箱付き。
車そのものは綺麗だ。
「ミニカー?」
「うん」
「美咲、欲しいん?」
「私は別に」
「じゃあ何で?」
「小さい」
「そこ?」
「箱ある」
「うん」
「壊れてなさそう」
「たしかに」
「持って帰れる」
「余裕で」
「家に置ける」
「置ける」
「売るときも送れるやろ」
「…………」
俺は美咲を見る。
「何?」
「めちゃくちゃ現実的やな」
「普通やろ」
普通。
たしかに普通なんだろう。
でも、未来価格ばかり見ていた俺には、その普通が抜けることがある。
値札を見る。
千八百円。
「二千円以内やね」
「見る?」
「見てみる」
俺はミニカーへ意識を向けた。
【現在価格:1,700円】
【10年後の価格:31,000円】
「お」
「どう?」
「今の相場は千七百円」
「値札より百円安いやん」
「まあ、今だけならちょっと損」
「十年後は?」
「三万一千円」
「…………」
美咲が箱を見る。
もう一度ミニカーを見る。
「三万?」
「三万一千」
「細かい」
「大事やろ」
「百円損してるけど?」
「そこも細かい」
「大事やろ?」
「返された」
美咲は店の人に声をかけ、箱を見せてもらった。
俺は横で待つ。
「箱、ちょっと角つぶれてるね」
「うん」
「車は?」
「見た感じ傷は少なそう」
「部品とかあるん?」
「最初から何が付いてたか分からんな」
「じゃあ聞いてみる?」
店の人に確認すると、本人が昔買った物ではなく、家の整理で出てきた物らしい。
詳しいことまでは分からない。
箱の中に入っている物は、これだけ。
無理に価値の理由まで追う必要はない。
未来価格は見えている。
買うかどうか判断するなら、あとは目の前の物を見ればいい。
「どうする?」
俺が聞いた。
美咲はもう一度、箱を持った。
「軽い」
「軽いな」
「小さい」
「さっきからそこ大事やね」
「大事です」
「はい」
数秒考えて。
美咲が言った。
「じゃあ、これ私の二千円から買う」
「え?」
「何?」
「美咲が?」
「うん」
「投資?」
「そんな大げさなもんじゃない」
「でも十年後」
「三万円なんやろ?」
「今見えてる未来ではね」
「なら」
美咲は値札を見る。
「二千円までなら、やってみてもいいかなって」
「…………」
「何その顔」
「いや」
なんか。
ちょっと嬉しかった。
未来の値段が見えることも。
それを使って何かを買うことも。
今はもう、俺一人で決めるものじゃない。
美咲が相談相手になって。
今日は自分で一つ選んだ。
「じゃあ買おう」
「私のお金からね」
「家計から一緒やけど」
「気分の問題」
「分かりました」
「パパー!」
結衣が黄色い犬を掲げる。
「なまえきまった!」
「お、何?」
「きいろ!」
「そのまま!」
「きいろちゃん!」
「一文字増えた」
「かわいいやろ」
美咲が言う。
「まあ、本人がいいなら」
「きいろちゃん!」
本人は満足そうだ。
三百円。
十年後四十円。
名前、きいろちゃん。
将来価値が上がる要素が一つも見当たらない。
でも。
今日買った物の中で、一番喜ばれているのは間違いなかった。
◇
家に帰ると、俺はリビングのテーブルにノートを広げた。
「研究は禁止って言ったよね?」
美咲の声が飛んでくる。
「これは研究じゃありません」
「またノート開いてるけど」
「資産ノートです」
「何が違うん」
「名前」
「ほぼ一緒やん」
とはいえ、今日の買い物は残しておきたい。
俺は書く。
『箱付きミニカー』
『購入価格:1,800円』
『現在価格:1,700円』
『10年後:31,000円』
そこで少し考える。
その下に追加した。
『状態:良』
『保管:問題なし』
『売却:小型/発送しやすい』
「何それ」
「今日から増えました」
美咲が覗き込む。
「状態?」
「うん」
「保管?」
「うん」
「発送しやすい?」
「うん」
「研究ノートみたいにせんでよ」
「だから資産ノートです」
「絶対そのうち項目増えるやん」
「必要なら」
「ほら」
美咲が呆れた。
俺は書いた三つの項目を見直す。
未来の値段だけなら、今日一番高かったのはスピーカーだ。
でも。
買ったのはミニカーだった。
「……なるほどな」
「何が?」
「いや。美咲がおってよかったなって」
「急に何?」
「スピーカー買わずに済んだ」
「そこ?」
「一人だったら、ちょっと危なかった」
「ちょっと?」
「……かなり」
「自覚あるやん」
リビングの床では、結衣がゼロを走らせていた。
その横にはモモ。
そして今日増えた、きいろちゃん。
「ゼロ、のせて!」
結衣がきいろちゃんをゼロの背中へ乗せる。
「おでかけ!」
ゼロが動く。
一歩。
二歩。
ゴト。
「あー!」
「ほら落ちた」
「ゼロ!」
「ゼロ悪くないやろ」
「ゆっくりして!」
「たぶん無理」
俺は笑って、床に落ちたきいろちゃんを拾った。
「はい」
「ありがと!」
結衣は受け取ると、またゼロの背中へ乗せる。
懲りない。
まあ。
楽しそうだからいいか。
「慎吾」
「ん?」
「それ、書かんでいいん?」
美咲がきいろちゃんを指した。
「何を?」
「三百円」
「あれは資産じゃないやろ」
「お」
「何?」
「ちゃんと分かってるやん」
「成長したので」
「今日だけで?」
「四十一歳は成長が早いんです」
「遅いんよ」
厳しい。
でも。
悪くない土曜日だった。
◇
夜。
結衣を寝かせたあと、スマホが震えた。
画面を見る。
高城さんからだった。
『慎吾さん、少しいいですか』
『はい』
返すと、すぐに続きが来る。
『先日話した実証に向けた条件整理ですが、追加がありました』
俺はソファへ座り直した。
『地域側の条件とは別に、運用・検証側で整理しておく項目が増えています』
そのあと。
三つの文章が送られてきた。
『同一事象で複数の対象を扱う』
『対象ごとに異なる情報を出す』
『同じ時刻に処理する』
「…………」
一つずつ読み直す。
同一事象。
複数の対象。
異なる情報。
同じ時刻。
頭に浮かんだのは。
あの表示だった。
【重大事故発生要因:複数対象――】
似ている。
でも、まだそれだけだ。
今、高城さんから送られてきたのは、研究側で整理されている条件。
俺が見たのは、未来の重大事故発生要因。
同じ「複数対象」という言葉が入っている。
それだけで、同じものだとは決められない。
俺はスマホへ打ち込む。
『月曜日、詳しく聞かせてください』
少しして。
『分かりました』
短い返事が来た。
俺はスマホをテーブルへ置いた。
今日は、ここまで。
そう決めたはずだった。
『同じ時刻に処理する』
三つの文章のうち、これだけが妙に頭に残った。




