第62話 一人なら
木曜日の朝。
「パパ。ゼロ、おきない」
「え?」
味噌汁を飲もうとしていた俺は、箸を置いた。
結衣の前にはゼロがいる。その隣には、昨日と同じようにピンク色の小さな飾り――モモ。
ただしゼロは、ぴくりとも動いていなかった。
「こわれた?」
「朝から怖いこと言わんで」
「モモがやった」
「罪をなすりつけるの早くない?」
俺は椅子を離れてゼロのところへ行った。
側面を確認すると、電源が切れている。
「ああ。切れてるだけだ」
「モモ?」
「モモは何もしてません」
「じゃあゼロ?」
「自分で自分の電源切ったなら、それはそれで怖いな」
スイッチを入れる。
数秒後、ゼロが起動した。
「おきた!」
「よかったね」
「ゼロ、おはよ!」
結衣が手を振ると、ゼロはその場で向きを変えた。
そして。
ごつん。
壁に当たった。
「……起き抜け弱いな、お前」
「ねぼう!」
「寝坊ではない」
美咲が笑いながら、ご飯茶碗を俺の前へ置く。
「慎吾も早く食べないと、本当に遅刻するよ」
「俺はちゃんと起きました」
「起きてからゼロ見て、ノート見て、スマホ見て、結衣に捕まってるけど」
「朝って忙しいな」
「自分で増やしてるの」
ごもっとも。
俺が席へ戻ったところで、テーブルの上のスマホが震えた。
画面を見る。
高城からだった。
『今日、少し時間ありますか』
続けて、もう一件。
『個人警告端末の運用について、研究側で新しい検討が始まりました』
「……新しい検討?」
思わず声に出た。
美咲が俺を見る。
「高城さん?」
「うん。前に話してた、個人へ直接警告を送る仕組み。あれで新しい問題が出てきたみたい」
「問題?」
「まだ分からん。今日話せるかって」
「なら、まずご飯食べてから返したら?」
「はい」
「パパ、ごはん」
「結衣にも怒られた」
「たべないと、おおきくならないよ」
「もう四十一歳だから、縦にはたぶん大きくならんかな」
「よこ?」
「それ以上はいけない」
美咲が吹き出した。
俺はスマホを伏せる。
気にはなる。
かなりなる。
でも、朝から未来を見る理由はない。
まず飯を食う。それから会社へ行く。
高城には通勤中に返せばいい。
「パパ」
「ん?」
「ゼロ、またぶつかった」
「朝弱すぎだろ、あいつ」
◇
昼休み。
会社近くの店で定食を食べながら、高城とメッセージをやり取りした。
今日の夜なら時間を取れるらしい。
『十九時半でどうですか』
『大丈夫です』
送ってから、少し考える。
『今日は話だけです?』
返事はすぐに来た。
『そのつもりです』
「ですよね」
小さくつぶやいて、スマホを置く。
以前の俺だったら、新しい話が出たと聞いた時点で、何か見えるんじゃないかと試していたかもしれない。
けれど、まだ話を聞いてもいない。何が変わったのかも知らない。
そんな状態で見ても、出た表示に後から意味をくっつけるだけだ。
だったら、先に現在側を知る。
見る必要があるなら、そのあとで目的を決めればいい。
「……俺も変わったな」
「何がですか?」
「うわっ」
顔を上げると、向かいに座った同僚が怪訝そうな顔をしていた。
「いや、何でもない」
「今、一人で自分を褒めてました?」
「聞こえてた?」
「かなり」
「忘れて」
「無理ですね」
恥ずかしい。
未来を見る前に、周囲を見る能力を身につけたほうがいいかもしれない。
◇
「ゼロとモモ、おるすばんできたよ!」
帰宅して早々、結衣から報告を受けた。
「おお。今日は何を守ってたん?」
「おうち!」
「大仕事やん」
「モモはねてた」
「また寝てたん?」
「うん!」
「勤務態度が悪いな」
モモはただの飾りなので、永遠に改善しない。
俺は着替えてから夕食の席についた。
今日は少し早めだ。十九時半に大学へ行くことは、美咲にも伝えてある。
「高城さんのところ、長くなりそう?」
「たぶん今日は話だけ。研究のほうで新しい検討が始まったらしい」
「また何か決まったの?」
「いや。そこまではいってないと思う。だから聞いてくる」
「ならいいけど」
美咲はそれ以上、研究の中身には踏み込まなかった。
代わりに、結衣の皿を指差す。
「結衣。ニンジン」
「たべた」
「残ってるよ」
「これはニンジンじゃない」
「何?」
結衣は真剣な顔で考えた。
「……オレンジ」
「分類が雑」
「パパたべて」
「俺に回すな」
「パパ、おおきくなるよ」
「もう横には大きくならんでいいんよ」
美咲が肩を震わせている。
「笑ってないで助けて」
「自分で食べて」
「ほら結衣。パパも自分で食べるって」
「えらい!」
「俺、四歳児と同じ評価基準なん?」
こんな時間が、普通に過ぎていく。
昨日、俺はノートの「資金を増やす」に最初の印をつけた。
でも、あのページに書いたのはそれだけじゃない。
観測を続けること。
ゼロを調べること。
結衣を実験材料にしないこと。
そして、普通に暮らすこと。
未来のために動くことと、今日の夕飯を家族で食べること。
どちらかを捨てる話じゃない。
「パパ、ニンジン」
「だから食わんって」
「ひとつ」
「交渉になった」
「ふたつ?」
「増えたやん」
結局、一個だけ食べた。
俺が。
◇
十九時二十七分。
大学の研究室へ着くと、高城はすでに机の上へ資料を広げていた。
「こんばんは」
「こんばんは。三分前ですね」
「社会人として完璧な時間でしょう」
「以前は十分以上早く来て、廊下をうろうろしてましたよね」
「過去の話です」
「二か月も経ってませんけど」
「人は変わるんですよ」
「何かあったんですか?」
「いろいろあったでしょうが」
高城が笑う。
「座ってください」
「はい」
俺はいつもの椅子へ座り、机の上にある資料へ目を向けた。
「それが例の?」
「ええ。ただ、まだ検討資料です。何かが完成したわけではありません」
「先にそこ言うんですね」
「慎吾さんが勝手に話を進めないように」
「信用がない」
「実績があります」
「反論できない」
高城は一枚目の資料をこちらへ向けた。
個人警告端末。
以前から研究側で検討されていた仕組みだ。
事故などの危険を事前に予測できた場合、その情報を必要な相手へ直接届ける。
今回は、その運用条件について新しく議論が始まったらしい。
「一人に警告を出すだけなら、比較的考えやすいんです」
「一人だけ?」
「はい。たとえば、ある人が危険な場所へ向かおうとしている。そこへ行かないよう警告する。それなら目的を一つに絞れます」
「危ないから行くな、で終わる」
「かなり単純化すればそうです」
「じゃあ何が問題なんです?」
高城が資料を一枚めくった。
「事故に関係する人が、一人とは限らないことです」
「まあ、それはそうですよね」
交通事故ひとつ考えてもそうだ。
運転している人がいる。乗っている人がいる。歩行者がいることもある。
事故が起きれば、そのあと対応する人だっている。
「だったら、関係する人全員に警告を送ればいいんじゃないです?」
俺が言うと、高城は首を横に振った。
「そこが今回出てきた問題です」
「違うんですか?」
「全員に同じ警告を送ればいいとは限りません」
「……ああ」
少しだけ分かった気がした。
「立場が違うから?」
「そうです。事故に遭う可能性がある人と、事故を起こす側になるかもしれない人では、必要な情報が違う可能性があります。子供と大人でも、同じ伝え方で理解できるとは限りません」
「なるほど」
「事故後に対応する人まで含めれば、さらに変わります」
「一人なら、その人が危険を避けることだけ考えればいい」
「少なくとも、目的は絞りやすいです」
「でも何人も関わると、誰に何を伝えるかから考えないといけない」
「そういうことです」
警告なんだから、多ければ多いほど安全になる。
何となく、そんなふうに思っていた。
でも、そう単純でもないらしい。
「全員に全部送ったら?」
「今度は情報が多すぎます」
「……確かに」
「危険が迫っているときに、長い説明を読ませても意味がありません。警告を増やしすぎれば、何を優先するべきか迷う可能性もある」
「助かるための警告で迷ったら意味ないですね」
「ええ。だから研究側では、対象ごとに必要な情報を変える仕組みも検討されています」
「一斉に同じ文章を送るんじゃなくて?」
「複数の対象へ、それぞれ必要な情報を送る。ただし、まだ仮案です」
高城は、そこでいったん言葉を切った。
「技術的に可能かどうかも含めて検討中ですし、運用方法も決まっていません」
「なるほど」
「今話しているのは、あくまで現在の研究上の課題です」
「そこ大事ですね」
「かなり」
俺も頷いた。
そのとき。
頭の中に、見覚えのある文字が浮かんだ。
【重大事故発生要因:複数対象――】
「……」
複数。
対象。
今、高城が話している内容と同じ言葉がある。
胸の奥がざわつく。
でも。
いや、待て。
「慎吾さん?」
「……ちょっと思い出しました」
「何をです?」
「あの表示です」
俺が答えると、高城の表情が少し変わった。
「重大事故発生要因?」
「はい」
俺はノートを開き、記録していた表示を見せた。
【重大事故発生要因:複数対象――】
文字は変わらない。
続きも分からない。
「今の話と、似てますよね」
「似ています」
「でも……これが今の研究の話だって決めるのは早いですよね」
高城がわずかに笑った。
「僕が言う前に止まりましたね」
「俺だって学習しますよ」
「それなら安心しました」
「そこまで信用なかったんです?」
「実績がありますから」
「それ今日二回目ですよ」
少しだけ空気が緩む。
高城は表示を書いたページへ視線を落とした。
「そもそも、この『複数対象』が複数の人間を意味しているとは限りません」
「人じゃない可能性もある」
「対象という言葉だけでは分かりません。人なのか、それ以外なのか。能力が何を対象と呼んでいるのか、それ自体が未確定です」
「そうですよね」
「それに、現在の研究課題と未来の表示が同じ意味とも限らない」
「言葉が似てるだけかもしれない」
「はい」
俺はノートの文字を見た。
以前だったら、ここから先へ行きたくなったかもしれない。
複数対象とは何なのか。
その続きには何があるのか。
今の研究と関係しているのか。
見れば何か分かるんじゃないか。
でも、まだ現在側で起きたことは「検討が始まった」だけだ。
何かが実装されたわけでもないし、未来に影響する選択が行われたと確認できたわけでもない。
「能力の表示に、今の研究を合わせて考えるのも違いますよね」
「ええ。表示に研究のほうを合わせ始めたら、順番が逆になります」
「答えを見ながら問題を作るみたいな?」
「少し違いますが、だいたいそんな感じです」
「だいたいなんだ」
「慎吾さん向けにかなり簡略化しました」
「優しさを感じない」
「十分優しいですよ」
俺は苦笑しながら、もう一度資料へ目を戻した。
大事なのは、未来の表示へ現在を無理に寄せることじゃない。
現在で本当に何が起きているのかを記録する。
そのうえで、未来側に変化が出たかを見る。
「じゃあ次に観測するとしたら」
「月曜日にしましょう」
「月曜?」
「少なくとも、今日この話を聞いた直後に見る必要はありません」
「ですね」
俺は普通に答えた。
高城が一瞬だけこちらを見る。
「何です?」
「いえ。ずいぶん素直だなと」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
「俺だって毎回見たがるわけじゃないですよ」
「最近は、ですね」
「昔の俺を引っ張りすぎじゃない?」
高城が笑った。
「月曜日に見るとして、目的は?」
俺が尋ねると、高城はすぐには答えず、少し考えた。
「研究側で新しい検討が始まったことで、未来側に変化が出たかどうか。それだけでいいと思います」
「表示の続きを見ようとしない」
「はい」
「重大事故発生要因が何なのかも追わない」
「追いません」
「数字が変わってなくても?」
「追加では見ない」
俺は頷いた。
「了解です」
それなら目的は一つだ。
現在側に小さな変化があった。
その結果、未来側も動いたのか。
確認するのは、それだけ。
「じゃあ記録しておきます」
俺はノートへ日付を書いた。
木曜日。
個人警告端末。
一人へ送る警告なら、目的を絞りやすい。
複数の対象が関係する場合、同じ警告でよいとは限らない。
対象ごとに必要な情報を変える案は、まだ検討段階。
そして、その下へ少し間を空けて書く。
【重大事故発生要因:複数対象――】
関係は未確定。
そう付け足した。
「それでいいと思います」
高城が言う。
「月曜ですね」
「ええ」
ノートを閉じた。
続きを見るんじゃない。
今はまだ、そこへ手を伸ばさない。
月曜日に確かめるのは一つだけだ。
研究側が動いたことで。
未来も、動いたのか。
それだけだ。




