第60話 待つんじゃない
火曜日の朝。
「…………」
ダイニングテーブル。
コーヒーの横に、ノートを置いていた。
開いているのは、昨夜書いたページ。
ゼロ。
『結衣保持/接触時のみ再現』
【関連対象:結衣】
少し空けて。
観測範囲外。
接触まで、179日。
【関連対象:結衣】
その横。
『意味未確定』
「…………」
昨日、高城さんと決めた。
意味は決めない。
ゼロの【関連対象:結衣】と。
179日の【関連対象:結衣】。
同じ言葉。
同じ名前。
でも。
同じ意味とは限らない。
だから。
二つを線で結ばない。
「…………」
ノートを見る。
179日。
約半年。
長い。
いや。
「短いな」
「何が?」
「うわっ」
顔を上げる。
美咲がいた。
「いつから?」
「今来た」
「よかった」
「何が?」
「独り言全部聞かれてなくて」
「だいたい聞こえたけど」
「来てたんじゃん」
美咲が冷蔵庫を開ける。
「何が短いん?」
「これ」
ノートを指さす。
「179日?」
「うん」
「半年くらい?」
「だいたい」
「長いやん」
「俺も最初そう思った」
「今は?」
「短い」
「何で?」
「…………」
何でだろう。
少し考える。
「何かするには」
「何か?」
「それが分からん」
「…………」
「何その顔」
「朝から面倒くさいこと言いよるなって」
「俺もそう思う」
美咲が牛乳を出す。
「昨日、大学で何話したん?」
「結局、分からんって話」
「それは聞いた」
「詳しく聞く?」
「聞く」
「長くなるよ?」
「短くして」
「難しい注文ですね」
「朝やから」
「はい」
ノートを美咲のほうへ向ける。
「ゼロは、結衣が触ったときだけ【関連対象:結衣】って出る」
「うん」
「179日のほうにも同じ表示がある」
「うん」
「でも、同じ意味とは限らない」
「うん」
「だから、決めつけない」
「終わり?」
「終わり」
「できるやん」
「俺、昨日大学まで行ったんですけど」
「高城さんも大変やね」
「俺じゃなくて?」
「高城さん」
「何で?」
「慎吾にそれ説明するために、何時間かかったん?」
「…………」
否定できない。
「で?」
「はい」
「179日は何?」
「観測範囲外にいる何かとの接触まで」
「結衣が?」
「それは分からん」
「誰が?」
「それも分からん」
「何と?」
「分からん」
「…………」
「美咲」
「何?」
「その顔やめて」
「何も分からんやん」
「そうなんです」
「なのに179日だけ分かるん?」
「そうなんです」
「面倒くさ」
「でしょう?」
「能力に言った」
「俺じゃなかった」
美咲がコップに牛乳を注ぐ。
「じゃあ、179日後に結衣に危ないことがあるって決まったわけでもないんやね」
「それは決まってない」
「危ないって表示も?」
「出てない」
「結衣が接触するとも?」
「そこまでは出てない」
「じゃあ」
美咲が俺を見る。
「今はそれでいいやん」
「…………」
「何?」
「美咲は強いなって」
「普通」
「最近それ便利に使ってない?」
「慎吾が考えすぎなんよ」
「それは高城さんにも言われた」
「ほら」
「二対一やん」
「結衣入れたら三対一」
「結衣まだ何も言ってない」
そのとき。
「パパ!」
「はい」
来た。
結衣がゼロを両手で持っている。
「ゼロ!」
「いますね」
「おきた!」
「ゼロ寝るん?」
「ねる!」
「初耳です」
「モモも!」
「モモは?」
「ねてる!」
「まだ?」
「うん!」
「じゃあ静かにしないと」
「しーっ」
結衣が人差し指を口へ当てる。
「パパもしーっ!」
「パパ今しゃべってたんだけど」
「しーっ!」
「はい」
「慎吾」
「しーっ」
「ご飯」
「はい」
「しゃべった!」
「無理やろ」
◇
午前七時三十八分。
朝食。
「パパ」
「はい」
「きょうおしごと?」
「仕事です」
「ママは?」
「お仕事」
「ゆいは?」
「保育園」
「ゼロは?」
「お留守番かな」
「ゼロもほいくえん!」
「無理です」
「なんで?」
「先生が困ります」
「こまらない!」
「たぶん困る」
「ゼロ、おりこう!」
「それは知ってる」
「じゃあいい!」
「そういう問題じゃないんよ」
結衣がパンを食べる。
足元ではゼロが動いている。
「…………」
一瞬、見ようと思えば見えると思った。
結衣が触れば。
【関連対象:結衣】
でも。
見ない。
昨日決めた。
必要もないのに、何度も確認しない。
「パパ」
「ん?」
「みて!」
「何を?」
「これ!」
結衣がパンを持ち上げる。
端っこだけきれいに食べている。
「どうなってんの、それ」
「まる!」
「四角いやん」
「まる!」
「じゃあ丸です」
「うん!」
「…………」
これでいい。
今は。
◇
午前十時二十六分。
仕事。
「…………」
パソコンの画面を見ながら、頭の片隅にはまだ179日があった。
見ない。
決めつけない。
追いかけすぎない。
でも。
何もしない?
「違うよな」
小さく呟く。
昨日、高城さんは言った。
意味を決めない。
それは、何もしないという意味じゃない。
「179日」
約半年。
もし本当に何かがあるとして、そのとき何が必要になる?
研究設備かもしれない。
金かもしれない。
場所や人、時間が必要になるかもしれない。
今は、何一つ分からない。
「じゃあ」
逆に。
今から用意できるものは?
「…………」
ノートを開きそうになって、やめる。
「仕事中です」
自分に言う。
まず働け。
◇
昼休み。
スマホを出す。
高城さんへメッセージ。
『一個いいですか』
既読。
『はい』
『179日まで、何もしないんですか?』
少し間。
『何もしない、とは言っていません』
「ですよね」
『今日、少し電話できます?』
『12時40分なら』
時計を見る。
十二時三十二分。
『お願いします』
◇
十二時四十分。
『もしもし』
「お疲れさまです」
『お疲れさまです』
「八分きっちり」
『何がですか』
「いえ」
休憩室を出て、人の少ない場所へ移動する。
「昨日の話なんですけど」
『はい』
「意味を決めない。それは分かりました」
『はい』
「でも、179日ある」
『あります』
「ただ待つんです?」
少し間。
『慎吾さんは、待ちたいですか』
「嫌です」
『でしょうね』
「即答」
『では、何をします?』
「それを聞こうと思って電話したんですけど」
『私も聞こうと思いました』
「研究者って答え教えてくれないんですか?」
『分からないものの答えは教えられません』
「またそれ」
『ただ』
「はい」
『準備はできます』
「…………」
それ。
「何を?」
『分かりません』
「切っていい?」
『まだです』
「はい」
『何が起きるか分からない以上、特定の事象に対する準備はできません』
「はい」
『でも、選択肢を増やすことはできます』
「選択肢」
『研究を続ける。記録を残す。ゼロの解析を進める。必要な協力者を確保する』
「なるほど」
『そして』
「はい」
『結衣さんの日常を崩さない』
「…………」
「高城さん」
『何ですか』
「それ、美咲にも言われそう」
『正しいんでしょうね』
「最近二人が同じこと言うんですよ」
『良かったですね』
「何が?」
『止める人が二人いて』
「俺、そんな危ない?」
『自覚がないのが一番危ないです』
「ひどいなあ」
でも、分かる。
「観測は?」
『定期的に。変化があった場合は共有します』
「ゼロは?」
『解析を続けます。ただし、179日後のための装置だとは決めません』
「はい」
『結衣さんを使った再現実験も、必要以上には行いません』
「それは絶対で」
『同意します』
「黒瀬さんは?」
『必要があれば、外部観測情報との照合をお願いすることになります』
「今は?」
『無理に未来を見てもらう必要はありません』
「なるほど」
「じゃあ高城さんは、研究とゼロ」
『大まかには』
「黒瀬さんは必要なときに照合」
『はい』
「俺は?」
『慎吾さんにしかできないことをしてください』
「能力を見る?」
『それもですが』
「…………」
何だ。
俺にしかできないこと。
能力を使うことだけじゃない。
今の俺には、もう一つある。
「金?」
『…………』
「何その間」
『慎吾さんらしいな、と』
「大事でしょう」
『否定はしません』
「何が必要になるか分からないなら、必要になったとき買えるようにしとく」
『はい』
「設備かもしれない」
『はい』
「研究費かもしれない」
『はい』
「土地とか建物とか」
『可能性はあります』
「人を雇うことになるかもしれない」
『それも』
「だったら」
昨日までなら、金を増やしたい。
それだけだった。
最初は、一億円あれば家族を守れると思った。
でも。
今は少し違う。
「金で解決できることなら」
『はい』
「金がないせいで諦めたくない」
電話の向こうが静かになる。
「高城さん?」
『聞いています』
「反応してくださいよ」
『いいと思います』
「軽っ」
『では、慎吾さんは資金面の選択肢を増やす』
「はい」
『ただし』
「来た」
『無茶はしない』
「しません」
『家族に黙って大金を動かさない』
「…………」
『慎吾さん?』
「何で知ってるんですか」
『何をです?』
「美咲にも同じこと言われた」
『そうですか』
「高城さん、美咲と連絡取ってないですよね?」
『取っていません』
「ほんと?」
『慎吾さん』
「はい」
『それだけ慎吾さんが分かりやすいんだと思います』
「…………」
最近。
俺の扱い雑じゃない?
◇
午後六時十一分。
「ただいま」
「おかえりー!」
「ただいまー」
結衣が走ってくる。
「走らない!」
「はーい!」
止まらない。
「止まってないよ」
「とまった!」
「今?」
「うん!」
「ならよし」
「いいん?」
美咲がリビングから出てくる。
「今日は甘めです」
「何で?」
「考えることが多かったので」
「結衣に関係ないやろ」
「ごもっとも」
「パパ!」
「はい」
「アイス!」
「急やな」
「あした!」
「明日?」
「うん!」
「何で?」
「じゅんび!」
「…………」
美咲を見る。
「教えた?」
「何を?」
「準備」
「知らんよ」
「パパ!」
「はい」
「あしたアイス!」
「何の準備ですか?」
「アイスの!」
「アイス食べるのに準備いる?」
「いる!」
「何が?」
「スプーン!」
「…………」
「正論やん」
美咲が笑う。
「じゃあスプーン準備しとく?」
「うん!」
「アイスは?」
「かう!」
「俺が?」
「うん!」
「それ準備じゃなくて要求です」
「ようきゅう!」
「覚えなくていい」
◇
夕食後。
結衣がモモとゼロで遊んでいる。
俺と美咲はダイニング。
「で?」
「はい」
「今日ずっと何か考えとったやろ」
「分かる?」
「分かる」
「みんな俺の顔で分かるんやな」
「分かりやすいから」
「高城さんにも言われた」
「やっぱり」
「何でちょっと嬉しそうなん」
「別に」
「…………」
コーヒーを一口。
「179日」
「うん」
「待つのやめようと思う」
美咲が俺を見る。
「何するん?」
「分からん」
「…………」
「待って。その顔になるのは分かる」
「だって」
「ちゃんと続きあります」
「どうぞ」
「何が起きるかは分からん」
「うん」
「結衣に関係あるのかも、どういう意味で関係あるのかも分からん」
「うん」
「危険かどうかも分からん」
「うん」
「だから、答えは決めない」
「昨日の話ね」
「そう」
「でも」
ノートを開く。
「分からんから何もしないのも違うと思う」
美咲は何も言わない。
「179日ある」
「うん」
「この間に、高城さんは研究進める」
「うん」
「ゼロも調べる」
「うん」
「必要なら黒瀬さんにも協力してもらう」
「うん」
「俺は金を増やす」
「…………」
「何?」
「急に慎吾っぽくなった」
「高城さんにも同じ反応された」
「だって」
「大事なんです」
「分かるけど」
「何が必要になるか分からんやろ」
「うん」
「研究に金がいるかもしれん。設備が必要になるかもしれん。何か買わないかんかもしれん」
「うん」
「そのとき」
言葉にする。
「金がないから無理です、は嫌なんよ」
「…………」
「金で何とかなることなら、何とかできるようにしときたい」
美咲が少しだけ考える。
「それは分かった」
「よかった」
「でも」
「はい」
「一個足りん」
「何が?」
「普通に暮らす」
「…………」
「準備に入れといて」
「普通に暮らすのを?」
「うん」
「何で?」
「だって」
美咲がリビングを見る。
結衣が床に座っている。
「ゼロ!」
モモを乗せる。
ゴト。
「あー!」
落ちる。
「もういっかい!」
拾う。
また乗せる。
ゼロが動く。
結衣が笑う。
「179日後に何があるか知らんけど」
「うん」
「明日見たら、178日かもしれん」
「うん」
「179日のままかもしれんし、もっと減っとるかもしれん」
「うん」
「それを毎日気にして、ずっと179日後のためだけに暮らすん?」
「…………」
「毎日そればっかり考えとったら」
美咲が俺を見る。
「結衣を守るために、結衣との今を捨てることになるやろ」
「…………」
何も言えなかった。
「仕事行く」
「うん」
「ご飯食べる」
「うん」
「休みの日に遊びに行く」
「うん」
「結衣と遊ぶ」
「うん」
「慎吾は変な物買ってくる」
「待って」
「何?」
「最後いらんやろ」
「いる」
「何の準備?」
「慎吾が慎吾でいるため」
「…………」
「何?」
「ちょっといいこと言われたと思ったら、微妙に褒められてない」
「褒めてないよ」
「やっぱり」
でも。
「普通に暮らす、か」
「うん」
「それも準備?」
「私はそう思う」
「…………」
ノートを見る。
研究。
記録。
ゼロ。
資金。
そこへ、ペンで一つ書き足す。
『普通に暮らす』
「これでいい?」
「いいんじゃない?」
「何か一個だけ簡単すぎん?」
「一番難しいかもよ」
「…………」
そうかもしれない。
◇
「パパ!」
「はい」
「きて!」
「何?」
「ゼロ!」
「はいはい」
リビングへ行く。
結衣がゼロを指さす。
その上。
モモ。
「のった!」
「おお」
「みて!」
「見てます」
「いくよ!」
「どうぞ」
ゼロが動く。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。
「お」
六秒。
「すごい」
七秒。
ゴト。
「あー!」
「新記録じゃない?」
「しんきろく!」
「意味分かってる?」
「わからん!」
「でしょうね」
「もういっかい!」
「はい」
結衣がモモを拾い、ゼロへ乗せる。
「…………」
見ようと思えば、見える。
ゼロの表示。
関連対象。
結衣。
でも。
今は。
「パパ!」
「はい」
「ちゃんとみて!」
「見てるよ」
能力じゃなく。
結衣を見る。
「いくよ!」
「はい」
ゼロが動く。
結衣が笑う。
モモが揺れる。
「がんばれー!」
「モモが?」
「ゼロ!」
「そっちか」
ゴト。
「あー!」
「惜しかったね」
「もういっかい!」
「何回するん?」
「いっぱい!」
「出た」
後ろで美咲が笑った。
◇
夜。
結衣が寝たあと。
ノートを開く。
昨夜のページ。
ゼロ。
【関連対象:結衣】
観測範囲外。
接触まで、179日。
【関連対象:結衣】
その横。
『意味未確定』
「…………」
今日は能力を使っていない。
179日も見ていない。
だから、今も179日なのか。
178日なのか。
それとも、また別の数字になっているのか。
分からない。
「…………」
それでいい。
今は。
新しいページを開き、ペンを持つ。
『この179日でできること』
一。
『観測記録を続ける』
二。
『ゼロの解析を進める』
三。
『資金を増やす』
四。
『結衣を実験材料にしない』
そして。
五。
『普通に暮らす』
「…………」
最後だけ、少し変な感じがする。
でも。
一番大事なのかもしれない。
その下。
少し空ける。
『待つ期限じゃない』
書く。
『備える時間』
「…………」
何が来るのか、まだ分からない。
結衣に何が関係しているのかも。
ゼロが何なのかも。
観測範囲外に何があるのかも。
答えは、まだない。
だから。
勝手に答えを決めるのはやめた。
でも。
何もしないとは、誰も言っていない。
研究する。
金を増やす。
記録する。
家族と過ごす。
できることを、一つずつ。
「…………」
179日。
それは、何かが起きるまでのただのカウントダウンじゃない。
俺たちが準備できる時間だ。
だから。
俺たちは。
待たない。
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