第51話 変わった数字
月曜日の朝。
「慎吾」
「はい」
「何しよるん?」
「弁当」
「それは見たら分かる」
出勤前。
俺はダイニングテーブルの上に置かれた弁当箱を眺めていた。
「じゃあ何?」
「何で弁当見ながら笑いよるん?」
「笑ってた?」
「ちょっと」
「…………」
言われて、もう一度弁当を見る。
美咲が作ってくれた、いつもの弁当だ。
昨日は家族三人で動物園へ行った。
象を見て、キリンを見て、千二百円の象カレーを食べて。
疲れた結衣を抱っこして、そのまま家に帰った。
本当に、それだけの一日だった。
未来価格も見ていない。
HOSHIMIについて調べてもいないし、百八十六日後の接触予測だって追いかけなかった。
それなのに、妙に満足している。
「昨日、楽しかったなと思って」
「今?」
「弁当見たら思い出した」
「何で?」
「分からん」
「慎吾」
「はい」
「なんにも分からんね」
「…………」
「それ結衣にも言われた」
「親子やね」
「俺だけ置いていかれてない?」
美咲が笑った。
そのとき。
「パパー!」
結衣が走ってきた。
「はい」
「みて!」
「何?」
差し出されたのはゼロだった。
側面には、昨日動物園で買った小さな象のシールがまだ貼られている。
「ぞうさん!」
「まだ貼ってたんやね」
「ゼロ、ぞうさんになった!」
「なってはいない」
「パオーン!」
「それ結衣やろ」
「ゼロ!」
「はいはい」
結衣がゼロを床へ置く。
象のシールをつけた小型ロボットは、ウィーンと音を立てながら進み始めた。
少し曲がって、そのまま壁へ。
ゴン。
「ゼロー!」
「象になっても性能は変わらんな」
「ぞうさん、ぶつからんよ!」
「じゃあやっぱりゼロです」
「…………」
結衣がゼロを見る。
それから俺を見る。
「パパ」
「何?」
「なおして」
「壊れてないって」
「ぶつかる!」
「それは最初からです」
「なおして!」
「仕様です」
「しよう?」
「そういうものです」
結衣は少し考えてから、なぜか言った。
「おじちゃん!」
「何でそこでおじちゃんが出てくるん?」
「なおしてもらう!」
「おじちゃんを何だと思ってるの?」
「すごいひと!」
「…………否定しにくい」
美咲が横で笑っている。
俺は時計を見た。
「やば。行かんと」
「はい、弁当」
「ありがとう」
「パパ!」
「何?」
「ゼロは?」
「おじちゃんには持っていきません」
「なんで!」
「仕事だからです」
「おしごとでなおして!」
「高城さんの仕事が変わってる」
弁当を受け取って玄関へ向かう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「パパ!」
「はい」
「ぞうさん!」
「パオーン」
「パパじゃない!」
「正解が分からん!」
美咲の笑い声を背中に聞きながら、家を出た。
◇
昼休み。
スマホを見ると、高城からメッセージが入っていた。
『本日、時間を取れますか』
「…………」
珍しい。
最近は、俺から連絡することのほうが多かった。
すぐに返信する。
『大丈夫です』
『何かありました?』
少しして既読がついた。
『HOSHIMIについてです』
『既存データを一度整理したいと思っています』
既存データ。
その言葉を見て、少し安心した。
新しく何かが起きたわけではないらしい。
『分かりました』
『何時ですか?』
『19時30分で』
『了解です』
スマホを置く。
昨日はほとんど考えなかったけど、HOSHIMIの問題がなくなったわけじゃない。
安全性も、重大事故発生率も、星見事故も。
その先には結衣の未来がある。
そして、もう一つ。
【接触予測まで:186日】
数字が頭に浮かぶ。
けれど、それ以上は考えなかった。
必要なときに考えればいい。
今は昼飯だ。
弁当箱を開ける。
「お」
卵焼き。
昨日の朝も、結衣がうまそうに食べていた。
一つ口に入れる。
「うま」
それだけで、昨日の動物園を少し思い出した。
◇
午後七時二十六分。
高城の研究室に着いた。
「こんばんは」
「こんばんは」
高城が時計を見る。
「四分前」
「はい?」
「珍しいですね」
「何が?」
「慎吾さんが約束の時間より前に来るの」
「俺、そんな遅刻してました?」
「遅刻はしていません。いつもぎりぎりなので」
「会社員は忙しいんです」
「今日は?」
「美咲に早く行けと言われました」
「なるほど」
「納得するんだ」
研究室へ入る。
机の上には資料とノートパソコン。
この光景も、ずいぶん見慣れてきた。
「今日は何するんです?」
「言ったでしょう。整理です」
「本当に?」
「何を疑っているんです?」
「高城さん、たまに整理って言いながら実験始めるから」
「慎吾さんに言われたくありません」
「俺は最初から実験したがってます」
「もっと悪いです」
「確かに」
椅子へ座ると、高城も向かいに腰を下ろした。
「まず、HOSHIMIについて現時点で確認できている数字を整理します」
「お願いします」
高城がノートパソコンをこちらへ向ける。
画面には、以前確認した数字が並んでいた。
【HOSHIMI安全性:68.4%】
【重大事故発生率:10.7%】
「ここは変わってない?」
「今日はまだ観測していません。まず、過去に何が変化したのかを整理してからです」
「はい」
「以前は安全性61.8%」
「重大事故発生率14.2%」
「覚えていますね」
「そこは」
「未来改変率は?」
「…………」
「慎吾さん?」
「四・八九?」
「4.89%です」
「合ってるやん」
「自信を持って答えてください」
「数字増えすぎなんですよ」
「だから整理しています」
「ありがとうございます」
高城が画面を切り替える。
そこには未来改変率や条件成立率、分岐候補数、生存結果を含む分岐、観測協力者、保護対象、観測範囲――これまで俺の能力が見せてきた情報が時系列で並べられていた。
「…………多いですね」
「改めて見ると」
「はい。最初、値段だけだったんですよね」
「そうですね」
「缶コーヒー見て、高くなるなあって」
「そこから始まった」
「それから株見つけて、金持ちになれると思って」
「なりました?」
「まだ普通の会社員です」
「では途中ですね」
「…………」
「何です?」
「最近、その言葉よく出るなと思って」
「途中?」
「はい」
ゼロ円も途中だった。
十五歳の誕生日だって、ゴールじゃない。
だったら、これもきっと同じなんだろう。
「続けましょう」
「はい」
高城が資料を見る。
「観測協力者は2」
「高城さんと黒瀬さんの可能性が高い」
「可能性が高い、です」
「はい」
「保護対象も2」
「一つは結衣の可能性が高い」
「可能性が高い、です」
「今日はちゃんと言ってるでしょ」
「成長しています」
「四十一歳で褒められる内容かな」
「以前よりは」
「前がひどかったみたいに言わないで」
高城は俺の抗議を無視して続ける。
「そして、観測範囲外が1」
「はい」
「その対象と思われる何かとの接触予測が――」
「百八十六日」
「はい」
そこで俺は高城を見る。
「ここは今日は見ないんですよね?」
「そのつもりでしたが、残り時間だけは確認してもいいかもしれません」
「…………」
「何です?」
「俺が言ったら止めるのに」
「目的が違います」
「研究者って便利だな」
「慎吾さん」
「はい」
「私たちは今、既存情報を整理しています。接触対象の正体を調べるわけでも、接触後の未来を見るわけでもありません」
「残り時間だけ?」
「そうです」
百八十六日。
あの数字を見てから数日経っている。
なら今は、百八十何日かになっているはずだ。
「単純に減ってるか確認する?」
「そうです」
「なるほど。それなら」
「ただし」
「深追いしない」
「はい」
「新しい表示が出ても、すぐ意味を決めない」
「頭痛があれば?」
「中止」
「一人で重要な観測を?」
「しない」
「よろしい」
「試験みたいになってる」
「では、お願いします」
「はい」
一度、息を吐く。
机の上には、以前接触予測を確認したときの記録が置かれている。
【接触予測まで:186日】
数日経ったのだから、当然数字は減っているはずだ。
俺は意識を向ける。
接触予測。
残り時間。
今は――。
【接触予測まで:179日】
「…………」
表示された。
「高城さん」
「はい」
「出ました」
「何日です?」
「百七十九」
「179日」
高城が記録する。
俺は少しだけ待ったが、それ以上の表示は出なかった。
「終わりです」
「はい」
すぐに意識を外す。
「普通でしたね」
「そうですね」
「ちゃんと減って――」
そこで、高城の手が止まった。
「…………」
「高城さん?」
返事がない。
高城はパソコンの画面を見ている。
「何?」
「慎吾さん」
「はい」
「最初に186日と表示されたのは、いつです?」
「え?」
「日付です」
「えっと……」
スマホを取り出し、カレンダーと高城とのメッセージを確認する。
「あ。この日です」
画面を見せる。
「間違いありません?」
「はい。その日に186日って出ました」
高城が日付を確認する。
それから今日の日付を見る。
「…………」
「何?」
「慎吾さん。今日まで何日経っています?」
「186日って出た日から?」
「はい」
俺もカレンダーを見る。
指で数える。
「……五日」
「そうです」
「五日ですよね?」
「間違いありません」
「じゃあ……」
頭の中で計算する。
186から5を引けば181。
本来なら。
【接触予測まで:181日】
そう表示されるはずだ。
でも。
さっき俺が見た数字は。
【接触予測まで:179日】
「…………二日」
「はい」
「二日、余計に減ってる?」
「数字だけを見れば、そうなります」
「じゃあ接触が――」
「待ってください」
高城がすぐに止める。
「まだ接触が早まったと決まったわけではありません」
「でも可能性はある?」
「可能性の一つではあります。ただ、それ以外にも考えられます」
「例えば?」
「最初の186日という表示が、どの時点を基準に算出されていたのか。日単位でどう処理されているのか。途中で予測そのものが再計算されたのか」
「…………」
「そもそも『接触予測まで』という数字が、単純な残り日数を意味しているのか。それすら、まだ分かっていません」
「そうか……」
数字が合わない。
今確定しているのは、それだけだ。
「じゃあ、もう一回見ます?」
「見ません」
「即答」
「今日の目的は確認です」
「でも」
「慎吾さん」
「はい」
「179日は逃げません」
「…………」
どこかで聞いた言い方だった。
「動物園?」
「何です?」
「いや、何でもないです」
高城が首を傾げる。
俺は椅子の背にもたれた。
百八十六日。
あの数字を初めて見たとき、俺は当然カウントダウンだと思った。
一日経てば、一日減る。
それだけの数字だと。
でも、違うのかもしれない。
「高城さん」
「はい」
「これ、毎日一日ずつ減る数字じゃない可能性がある?」
「あります」
「じゃあ――」
「まだです」
「まだ何も言ってない」
「次に何を言うか分かります」
「未来見えてません?」
「実績です」
「またそれ」
高城が少しだけ笑った。
けれど、すぐに画面へ視線を戻す。
「しばらく記録しましょう」
「毎日?」
「いいえ」
「何で?」
「毎日見れば、あなたは数字に引っ張られる」
「…………」
「三日後。もう一度だけ確認しましょう」
「分かりました」
「それまでは見ない」
「はい」
「一人でも見ない」
「分かってます」
「本当に?」
「実績?」
「不足しています」
「そこまでセットなんですね」
高城が記録欄へ書き込む。
『接触予測:179日』
『経過日数との不一致あり』
たった二日のズレだ。
誤差かもしれない。
表示の仕様かもしれない。
俺たちが知らない計算方法があるだけかもしれない。
だから、まだ何も決められない。
それでも。
最初に見た百八十六という数字が、ただのカウントダウンではないかもしれない。
その可能性だけが残った。
◇
家に帰ったのは、午後九時過ぎだった。
「ただいま」
「おかえり」
美咲がリビングから顔を出す。
「結衣は?」
「まだ起きとる」
「珍しい」
「パパ待つって」
「え?」
その瞬間。
「パパ!」
奥から結衣が走ってきた。
「おお」
「おかえり!」
「ただいま」
「おそい!」
「ごめんなさい」
「ゼロまってた!」
「結衣じゃなくて?」
「ゆいも!」
「ついでみたいに言わないで」
結衣の後ろから、象のシールを貼ったゼロがウィーンと進んでくる。
「ゼロもおかえりって!」
「言ってないけどね」
「いった!」
「そうですか」
そのまま進んで。
ゴン。
「…………」
「ゼロー!」
「そこまでセットなん?」
結衣が倒れたゼロを起こしていると、美咲が俺を見る。
「どうやった?」
「何が?」
「高城さん」
「ああ」
「何かあった?」
「…………」
少し迷った。
でも、隠す理由はない。
「接触予測、今日確認した」
「見たん?」
「高城さんと一緒に」
「ならいいけど」
「百七十九日だった」
「…………」
美咲の表情が少し変わった。
「最初、百八十六やったよね」
「うん」
「何日前?」
「五日前」
「…………」
少し考えて、美咲も気づく。
「合わんね」
「うん。本当なら百八十一日のはずなんだけど、二日余計に減ってる」
「何で?」
「分からん。高城さんも、まだ判断できないって」
「そっか」
美咲はそれ以上聞かなかった。
代わりに、結衣のほうを見る。
「じゃあ、今日は終わり」
「え?」
「結衣、待っとったんやけん」
「…………」
「パパ!」
「はい」
「あそぼ!」
「今から?」
「うん!」
「もう九時です」
「ちょっと!」
「ちょっとだけ?」
「いっぱい!」
「寝てください」
「ちょっと!」
「じゃあ、ちょっと」
「やった!」
結衣が俺の手を引っ張る。
その先には、象のシールを貼ったゼロ。
頭の中に、もう一度数字が浮かびかけた。
【接触予測まで:179日】
でも。
今はいい。
三日後。
高城と一緒に、もう一度確認する。
そのとき、一日ずつ減っているのか。
またズレるのか。
それとも、まったく違う動きをするのか。
今はまだ分からない。
「パパ!」
「はいはい」
「ゼロ!」
「何するん?」
「ぞうさん!」
「また?」
「パオーン!」
「それ結衣やろ」
「パパも!」
「俺も?」
「パオーン!」
「…………パオーン」
「ちがう!」
「何が!?」
美咲が笑った。
結衣も笑っている。
ゼロは何も知らずに進んでいく。
ウィーン。
そして。
ゴン。
「ゼロー!」
「結局ぶつかるんかい」
結衣と一緒に、倒れたゼロを起こす。
百七十九日。
数字は確かに変わった。
予定より二日多く。
その意味は、まだ分からない。
誤差なのか。
再計算なのか。
それとも本当に、接触する未来そのものが近づいたのか。
答えを出すには早すぎる。
だから、三日待つ。
今度は、焦って答えを決めない。
ただ一つだけ。
今日確認できたことがある。
百八十六日は。
俺が思っていたほど単純な数字じゃない。
そして、もし。
あの数字が未来の変化に合わせて動くものだとしたら。
百七十九日という数字も。
きっと。
まだ途中だ。




