第50話 未来より先に
それから数日後。
日曜日。
「パパ! おきて!」
「…………」
「パパー!」
「起きてます」
「おきてない!」
「心は起きてます」
「からだも!」
「厳しいな……」
布団の上から、結衣が容赦なく俺を揺らしている。
時計を見る。
午前六時四十八分。
「結衣さん」
「はい!」
「動物園は逃げません」
「にげるかもしれん!」
「動物園が?」
「ぞうさん!」
「ああ、そっちね」
確かに象なら動く。
だからといって、六時台に起こされる理由にはならない。
「ママは?」
「おきてる!」
「早いな」
「パパがおそい!」
「まだ七時前ですけど」
「どうぶつえん!」
「分かった分かった」
上半身を起こすと、結衣が満足そうに笑った。
「ゼロもいく!」
「え?」
「ゼロも!」
「動物園に?」
「うん!」
「ゼロは留守番じゃない?」
「なんで!」
「いや、何でと言われましても」
結衣の腕の中には、小型ロボットのゼロ。
昨日の夜も一緒に寝ていたらしい。
「ゼロ、ぞうさんみたいって」
「誰が言ったん?」
「ゆい」
「本人の感想やん」
「いきたいって!」
「ゼロが?」
「うん!」
「いつ言った?」
「いま!」
「結衣が言ったよね?」
「ゼロのきもち!」
「代弁者だった」
そこへ美咲が寝室を覗いた。
「何しよるん?」
「ゼロが動物園に行きたいそうです」
「そうなん?」
「うん!」
結衣が答える。
美咲はゼロを見る。
俺を見る。
もう一度ゼロを見る。
「留守番やね」
「ママー!」
「ほら」
「即決だった」
「持っていってなくしたら大変やろ?」
「なくさん!」
「ほんと?」
「ほんと!」
「前、公園にぬいぐるみ忘れたやん」
「…………」
結衣が黙った。
「覚えとる?」
「しらん」
「都合よく記憶消したね」
「ゼロ、おるすばん!」
「切り替え早っ」
結衣がゼロを床に置く。
「ゼロ、まっててね!」
ウィーン。
ゼロが進む。
「おみやげかってくる!」
ウィーン。
そのまま壁へ。
ゴン。
「…………」
「ゼロ!」
結衣が慌てて駆け寄る。
いつもの朝だ。
いつもの日曜日。
でも今日は少しだけ違う。
動物園へ行く。
ただそれだけの予定が、妙に嬉しかった。
◇
「慎吾」
「はい」
「何しよるん?」
「確認」
「何の?」
「道路」
「…………」
助手席の美咲が俺を見る。
「渋滞は?」
「今のところなし」
「そうじゃなくて」
「事故情報もなし」
「慎吾」
「はい」
「この前、何て言った?」
「安全確認と生活制限は同じじゃない」
「その前」
「今の結衣との生活を変えない」
「そう」
「だから普通に動物園へ向かってます」
「何回ルート見た?」
「…………」
「慎吾」
「三回」
「五回」
「見てたん?」
「横におるからね」
「安全確認です」
「一回でよくない?」
「念のため」
「パパ!」
後部座席から結衣の声。
「はい」
「まだー?」
「まだです」
「あとなんぷん?」
「一時間くらい」
「いちじかん!?」
「そんな絶望する?」
「ながい!」
「まだ出たばっかりやん」
美咲が笑う。
「パパがみちみよるから?」
「違います」
「パパ、まよった?」
「迷ってません」
「ほんと?」
「ナビありますから」
「じゃあみなくていいやん」
「…………」
バックミラー越しに結衣を見る。
「四歳児に正論で殴られた」
「今日は二回目やね」
「最近強くない?」
「慎吾が弱いんやない?」
「ひどい」
スマホを置く。
もうルートは見ない。
事故情報も確認した。
渋滞もない。
それで十分だ。
信号が青になり、車を走らせる。
後ろでは結衣が歌っている。
何の歌かは分からない。たぶん本人も分かっていない。
隣では美咲がスマホで動物園の情報を見ている。
「何見てるん?」
「今日のイベント」
「何かある?」
「動物のご飯タイムとか」
「何時?」
「慎吾」
「何?」
「予定表作らんでいいよ」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「俺の顔、ほんと情報漏洩ひどいな」
美咲が笑った。
俺も笑う。
そして、少しだけ思った。
ほんの数日前の俺なら、百八十六日後のことが頭から離れなかったと思う。
結衣。
接触予測。
観測範囲外。
何が起きるのか。誰なのか。そもそも何なのか。
今日だって、動物園へ向かいながら未来のことばかり考えていたかもしれない。
「パパ!」
「何?」
「みて!」
「ん?」
「トラック!」
「トラックやね」
「おっきい!」
「大きいね」
「パパのくるまより?」
「大きい」
「ママより?」
「何で人と比べた?」
「パパより?」
「俺よりも大きいです」
「すごい!」
こんな会話でいい。
今日は、それでいい。
◇
「ぞうさーん!」
「結衣、走らんよ!」
「はーい!」
返事をした直後に走っている。
「聞いてないやん」
「四歳児の『はーい』を信用したら駄目よ」
「先輩、勉強になります」
「四年一緒におるやろ」
動物園に着いてから、結衣のテンションはずっと高い。
象。
キリン。
サル。
カバ。
見るもの全部に全力だ。
「パパ!」
「はい!」
「きりん!」
「おるね」
「くびながい!」
「知ってた」
「なんで!?」
「有名だから」
「パパみたことある?」
「あるよ」
「いつ?」
「昔」
「ゆいがおるとき?」
「いないとき」
「…………」
結衣が止まった。
「パパ」
「何?」
「ゆいがおらんときあったん?」
「…………」
美咲を見る。
笑いを堪えている。
「ありました」
「なんで?」
「何でと言われましても」
「どこにおった?」
「まだ生まれてなかった」
「…………」
結衣が真剣に考える。
「パパだけ?」
「ママもいました」
「ずるい!」
「何が!?」
「ゆいもいきたかった!」
「無理なんよ」
「なんで!」
「生まれてないから!」
「つれてって!」
「だから無理だって!」
美咲がとうとう吹き出した。
「慎吾、四歳児相手に本気にならんで」
「説明が難しいんよ!」
「パパ!」
「はい」
「つぎはつれてってね!」
「…………」
「分かりました」
「やった!」
納得したらしい。
何に納得したのかは分からない。
結衣はすぐに次の動物へ走っていく。
俺と美咲は、その後ろを歩く。
「慎吾」
「何?」
「楽しそうやね」
「結衣?」
「慎吾」
「俺?」
「うん」
「…………」
そうかもしれない。
何も観測しない。
何も調べない。
未来の数字を追わない。
ただ家族で出かける。
そんな一日が、久しぶりな気がした。
◇
昼。
「パパ、これ!」
「高っ」
「慎吾」
「はい」
「第一声それやめて」
「だって千二百円」
「動物園やけん」
「普通のカレーに見えるけど」
「ぞうさん!」
結衣が指差す。
ご飯が象の形になっている。
「象ですね」
「かわいい!」
「かわいいね」
「これにする!」
「はい」
「慎吾は?」
「俺は普通のカレーで」
「九百円」
「三百円違う」
「まだ言う」
美咲が呆れている。
別に払えないわけじゃない。
むしろ、昔より金はある。
未来価格を使って得た利益もある。
それでも千二百円のカレーを見て「高っ」と思うあたり、俺はまだ普通の会社員なんだと思う。
それでいい。
「パパ!」
「何?」
「ぞうさん、たべていい?」
「そのためのカレーです」
「かわいそう?」
「急に哲学やめて」
「たべる!」
「どうぞ」
スプーンで象の耳が消えた。
「あっ」
「何?」
「耳からいったなと思って」
「パパもたべる?」
「いいの?」
「うん!」
結衣がカレーを一口分すくう。
「はい!」
「ありがとう」
口を開ける。
「あーん」
「…………」
「どう?」
「三百円分うまい」
「慎吾」
「冗談です」
美咲が笑う。
結衣も意味が分からないまま笑う。
俺も笑った。
そのとき、ふと結衣の手元が目に入った。
スプーン。
皿。
コップ。
どれも、意識すれば未来価格を見ることができる物だ。
見ようと思えば見られる。
このスプーンが十年後どうなっているのか。
このコップに何か異常がないか。
結衣と関連する何かが表示されないか。
ほんの少し意識を向ければ、たぶん何かは見える。
「パパ?」
「ん?」
「たべんの?」
スプーンを持ったまま、結衣が待っている。
「あ、ごめん」
「はい!」
差し出されたカレーを食べる。
「おいしい?」
「うまい」
「よかった!」
結衣が笑った。
それで終わりにした。
表示は見なかった。
必要がないから。
この前決めたばかりだ。
未来ばかり見ない。
今の結衣もちゃんと見る。
たぶん、こういうことなんだと思う。
◇
午後。
「パパ」
「はい」
「だっこ」
「来ると思った」
「つかれた」
「さっきまで走ってたやん」
「もうむり」
「はいはい」
結衣を抱き上げる。
「重くなったな」
「おもくない!」
「このやり取り前もしたね」
「ゼロが!」
「今日はゼロいません」
「じゃあパパ!」
「俺が重いの?」
「うん!」
「意味分からん」
美咲が隣で笑っている。
結衣は俺の肩に頭を乗せた。
「ねむい?」
「ねむくない」
「その声は眠いやつ」
「ねむく……ない……」
「はい」
数分後。
寝た。
「早っ」
「朝からはしゃいどったけんね」
美咲が結衣の顔を覗く。
「寝た?」
「完全に」
「車まで持つかな」
「俺が?」
「結衣」
「俺も心配して」
「頑張って」
「軽いな」
腕の中には結衣。
隣には美咲。
周りからは子供の声と、動物の鳴き声が聞こえてくる。
何でもない休日だった。
そのとき、黒瀬の言葉を思い出す。
『一日でも、一か月でも、一年でも、未来を動かせたなら、その時間には意味があります』
昨日までは、その言葉を結衣が生きられる時間の話だと思っていた。
もちろん、それもある。
でも、それだけじゃないのかもしれない。
時間が増えるということは、こういう日が増えるということだ。
動物園へ行く日。カレーを食べる日。抱っこしたまま寝られて、腕が痛くなる日。しょうもないことで笑う日。
未来を一年延ばすということは、三百六十五日という数字を増やすだけじゃない。
その中にある一日一日を、増やすことなんだ。
「慎吾」
「ん?」
「また考えよる?」
「ちょっと」
「未来?」
「いや」
腕の中の結衣を見る。
「今日のこと」
美咲が少し笑った。
「ならいいんじゃない」
「うん」
今日は、それでいい。
◇
帰りの車。
結衣は後部座席で爆睡していた。
「静かやね」
「行きと別人」
「電池切れ」
「ゼロと一緒やん」
「結衣に言ったら怒られるよ」
「内緒にしてください」
夕方の道を走る。
朝ほど何度もナビを見ることはなかった。
案内に従って、普通に運転する。
「楽しかった?」
美咲が聞く。
「うん」
「よかった」
「美咲は?」
「楽しかったよ」
「結衣も?」
「見たら分かるやろ」
バックミラーを見る。
口を少し開けて寝ている。
「楽しそうですね」
「寝顔で分かるん?」
「たぶん」
「またたぶん」
「慎重なんです」
美咲が笑った。
俺も笑う。
赤信号で車を止め、何気なく外を見る。
交差点。
信号。
車。
歩道。
「…………」
一瞬だけ、未来で黒瀬が見た景色が頭をよぎった。
夜。
雨。
道路。
信号。
警報音。
『足りない』
「慎吾?」
「ん?」
「どうした?」
「いや」
信号が青になる。
「何でもない」
アクセルを踏む。
今見えたのは未来じゃない。
ただ、俺が思い出しただけだ。
それを勝手に意味のあるものにしない。
今日は追わない。
今は家に帰る。
それだけでいい。
◇
「ゼロー!」
家に着くなり、結衣がゼロのところへ走っていった。
車の中ではあれだけ寝ていたのに、家に着いた瞬間に復活した。
「ただいま!」
ウィーン。
「ぞうさんおったよ!」
ウィーン。
「きりんも!」
ウィーン。
「おさるさんも!」
ゴン。
「ゼロー!」
「話聞いて倒れたみたいになってる」
俺が言うと、美咲が笑った。
「おみやげ!」
結衣が小さな袋を持ってくる。
「ゼロにも買ったん?」
「うん!」
「何?」
「これ!」
袋から出てきたのは、小さな象のシール。
「どこに貼るん?」
「ゼロ!」
「貼るの?」
「うん!」
「剥がれなくなっても知らんよ?」
「いい!」
「じゃあどうぞ」
結衣がしゃがみ込み、ゼロの側面にシールを貼る。
ぺた。
「できた!」
小型ロボットの横に、小さな象。
「…………」
「どう?」
「似合ってます」
「ゼロ、ぞうさん!」
「別の生き物になった」
「かわいいやろ?」
「かわいい」
結衣が満足そうに笑う。
その横で、ゼロが動き出した。
ウィーン。
象のシールを貼ったまま進む。
「ゼロ!」
結衣が後ろをついていく。
ウィーン。
ゴン。
「あっ」
「ゼロー!」
今日も変わらない。
たぶん明日も――そう思いかけて、やめた。
明日が今日と同じだなんて保証はない。
俺は、それを誰より知っている。
未来は良くも悪くも変わる。
だからこそ、今日が普通だったことをちゃんと覚えておきたい。
百八十六日後、俺たちは何かと接触する。
それが何なのかは分からないし、その先の未来も未確定だ。
結衣の死亡予定日も、まだ変動している。
問題は何一つ終わっていない。
「パパ!」
「何?」
「ゼロ、またぶつかった!」
「知ってます」
「なおして!」
「壊れてないやろ?」
「パパ!」
「はいはい」
結衣のところへ行き、床に倒れたゼロを拾う。
「ほら」
「ありがと!」
「どういたしまして」
結衣が笑う。
美咲もいる。
ゼロもいる。
俺もいる。
これは未来じゃない。
今、ここにある時間だ。
だったら、まずは今日という一日を大事にすればいい。
百八十六日後のためだけじゃない。
十五歳の誕生日のためだけでもない。
今日みたいな日を、明日も、その次も、一つずつ積み重ねていく。
きっと俺が守りたかった未来は、ずっと先にある何かじゃない。
こういう一日の続きなんだ。
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