第49話 百八十六日の使い方
翌朝。
「パパ、これなに?」
「カレンダー」
「しってる!」
「じゃあ何で聞いたん」
「これ!」
結衣が指差しているのは、カレンダーそのものじゃなかった。
昨夜、寝る前に忘れないよう小さく書き込んだ数字。
『186』
「…………」
「ひゃくはちじゅうろく?」
「読めるん?」
「ママにきいた!」
「なるほど」
「なに?」
「んー……」
何と説明するべきか。
百八十六日後。
俺は、今はまだ観測できない何かと接触する。
【観測範囲外対象との接触を予測】
【接触まで:186日】
【関連対象:結衣】
【接触後の未来:未確定】
そこまで四歳児に説明するわけにもいかない。
「パパの予定」
「おしごと?」
「仕事……ではないかな」
「おやすみ?」
「それも分からん」
「おでかけ?」
「分からん」
「…………」
結衣が不思議そうに俺を見る。
「パパ」
「はい」
「なんにもわからんね」
「…………」
四歳児に核心を突かれた。
「そうなんですよ」
「だいじょうぶ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「ほんと」
結衣が少し考えてから、カレンダーをもう一度見る。
「あとなんかいねたら?」
「百八十六回くらい」
「いっぱい!」
「いっぱいやね」
「じゃあ、だいじょうぶ!」
「何で?」
「いっぱいあるから!」
「…………」
何とも四歳児らしい理屈だった。
でも、妙に引っかかった。
いっぱいある。
百八十六日。
約半年。
昨日までは、その数字を「何かが起きるまでの残り時間」として見ていた。
何かが起きるまで、あと百八十六日しかない。
そう思っていた。
でも。
結衣の言う通りなのかもしれない。
俺たちには、まだ百八十六日ある。
その全部を、ただ待って過ごす必要はない。
「結衣」
「なに?」
「パパ、ちょっと賢くなったかもしれん」
「ほんと?」
「たぶん」
「またたぶん!」
「慎重になったと言ってください」
「わからん!」
「ですよね」
リビングの床では、ゼロがいつものように歩いている。
ウィーン。
方向転換。
ウィーン。
そして。
ゴン。
「ゼロー!」
結衣が走っていく。
「だいじょうぶ!?」
倒れたゼロを起こしている。
いつもの朝。
いつもの結衣。
いつものゼロ。
百八十六日後に何があるのかは分からない。
でも、それまでの毎日が消えるわけじゃない。
だったら使えばいい。
未来を見るためだけじゃない。
その未来が来たときに、ちゃんと選べるようにするために。
◇
昼休み。
俺は高城にメッセージを送った。
『今夜、少し話せますか』
数分後。
『何を調べるつもりですか』
「…………」
まだ何も言ってない。
『調べるとは言ってません』
既読。
『では、何を調べたいのですか』
「信用ないな、俺」
思わず声が出た。
でも、昨日までの俺なら確かにそうだった。
百八十六日。
観測範囲外。
関連対象、結衣。
そんなものを見せられたら、接触する対象の正体を知りたくなる。
四人目なのか。
第二の保護対象なのか。
結衣とどう関係するのか。
敵なのか。
味方なのか。
そもそも人なのか。
片っ端から能力に聞こうとしていただろう。
今だって、知りたくないわけじゃない。
めちゃくちゃ知りたい。
でも、昨日黒瀬と話して、少し考えが変わった。
『今日は調べません』
『相談です』
送信。
少しして。
『分かりました』
『21時でどうでしょう』
『大丈夫です』
そこで終わるかと思ったら、もう一通。
『本当に調べませんね?』
「…………」
『信用してください』
返信。
『実績が不足しています』
「この研究者……」
否定できないのが悔しかった。
◇
午後九時。
結衣を寝かせたあと、俺と美咲はリビングにいた。
テーブルの上には俺の未来価格ノート。
スマホはスピーカー。
『聞こえています』
「はい」
「聞こえてます」
『では慎吾さん』
「はい」
『今日は何を観測しますか?』
「しません」
『…………』
「何で黙るんですか」
『いえ』
「絶対疑ってるやん」
美咲が横で笑う。
「信用ないね」
「味方してください」
「今までが今までやけん」
「二対一になった」
『それで、相談とは?』
「百八十六日のことです」
空気が少しだけ変わった。
『接触予測ですね』
「はい」
俺はノートを開く。
昨日書いた新しい目標。
『結衣の15歳の誕生日を、家族で祝う+ゼロ』
そのページを見ながら話す。
「俺、昨日まで百八十六日って、カウントダウンだと思ってたんですよ」
『違うと?』
「違うっていうか」
少し考える。
「何かが起きるまで、あと百八十六日しかないって」
『はい』
「だから、早く接触する対象を見つけないとって思ってました」
『相手、ではなく対象です』
「…………」
「細かいな」
『人間とは限りませんから』
「そうでした」
美咲が横から言う。
「また人って決めかけとったやん」
「今のは言葉の綾です」
『実績ですね』
「その言葉禁止にしません?」
『しません』
少し笑う。
でも、すぐに話を戻した。
「昨日までは、接触する対象を探さないとって思ってました」
『今日は違う?』
「今朝、結衣に言われたんですよ」
『何と?』
「いっぱいあるって」
『…………』
「百八十六回寝るって言ったら、いっぱいあるから大丈夫って」
電話の向こうが少し静かになる。
「四歳児の理論ですけどね」
『悪くないと思います』
「でしょ?」
『少なくとも、慎吾さんよりは冷静です』
「そこ要ります?」
美咲が吹き出した。
「結衣のほうが冷静なん?」
「最近、家族内での俺の評価が低すぎる」
『続けてください』
「はい」
一度、ノートへ目を落とす。
「俺たちには、百八十六日あるんですよね」
『そうですね』
「その間に、接触する対象を無理に探すんじゃなくて」
そこで一度言葉を切った。
「接触したときに、ちゃんと選べるようにしておきたい」
『選べるように?』
「はい」
「何を?」
美咲が聞く。
「それを相談したい」
「…………」
「だって俺たち、まだ分かってないことだらけやん」
「うん」
「接触する対象も分からん。四人目も分からん。保護対象も分からん。星見事故で何が起こるのかも分からん」
『はい』
「全部を百八十六日で解明するのは、たぶん無理です」
『珍しく現実的ですね』
「褒めてます?」
『かなり』
「なら受け取っときます」
俺はペンを持った。
「だから、対象を探すことを目標にするんじゃなくて」
ノートの新しいページを開く。
「今、俺たちにできることを増やしておく」
高城はすぐには答えなかった。
代わりに美咲がノートを見る。
「例えば?」
「まずHOSHIMI」
『具体的には?』
「安全性を上げる」
『それは続けています』
「じゃあ、それ」
書く。
『① HOSHIMIの安全性を上げる』
「次」
考える。
「星見事故」
『事故そのものの詳細は、まだ追いすぎないほうがいいと思います』
「ですよね」
『特に未来の事故を直接観測するのは、現時点では勧めません』
「じゃあ」
ペンが止まる。
事故を調べない。
四人目も追わない。
接触する対象も探さない。
それでも、今できることはあるはずだ。
そう考えていると、美咲が言った。
「結衣は?」
「ん?」
「百八十六日後のことばっかりやけど」
美咲が俺を見る。
「それまで結衣は普通に生活するんやろ?」
「そりゃそうやけど」
「保育園行って、遊んで、ご飯食べて、風邪ひくかもしれんし」
「うん」
「どっか行きたいって言うかもしれんし、また変な絵描くかもしれん」
「変な絵は余計じゃない?」
「この前パパの足、八本あったよ」
「俺、何になったん?」
「知らん」
少し笑う。
でも、美咲が言いたいことは分かった。
「未来ばっかり見ない」
「うん」
「今の結衣もちゃんと見る」
「そう」
「…………」
俺はノートへ書いた。
『② 今の結衣との生活を変えない』
書いてから、少しだけ考える。
「変えない、かな」
「何が?」
「生活」
「どういうこと?」
「危ないからって、何でも禁止するようにはしたくない」
黒瀬の話を思い出す。
引っ越し。
生活変更。
学校への対応。
送り迎え。
人間関係への介入。
未来を変えるために、紗奈の生活そのものを変えていった黒瀬。
俺も同じことをする可能性がある。
「結衣を守るために」
ゆっくり言う。
「結衣の今を壊したら、意味ないよな」
美咲が小さく頷いた。
『その項目は重要だと思います』
高城の声が聞こえる。
『安全対策と生活制限は、同じではありません』
「はい」
『危険を減らすことと、可能性を減らすことも違う』
「…………」
「高城さん」
『はい』
「それ、黒瀬さんにも言ってあげたかったですね」
少しの沈黙。
『そうですね』
それ以上、高城は何も言わなかった。
俺も続けなかった。
ノートを見る。
二つ。
あと一つ。
「三つ目」
俺が言う。
「これは決めてます」
『何です?』
「一人で見ない」
美咲が俺を見る。
「何か新しい表示が出ても」
ペンを動かす。
「俺一人で判断しない」
『③ 一人で未来を決めない』
書き終える。
高城。
黒瀬。
美咲。
少し前まで、未来を見るのは俺一人だった。
能力があるのは俺だから。
結衣の父親だから。
俺が何とかしなきゃいけないと思っていた。
でも、それを実際にやった人がいる。
黒瀬だ。
そして黒瀬自身が、その間違いを俺に教えてくれた。
「これでどうです?」
『悪くないと思います』
「高城さんに褒められた」
『ただし』
「来ると思った」
『一つ目は曖昧です』
「HOSHIMI?」
『安全性を上げる、では目標として測れません』
「研究者め」
『聞こえています』
「じゃあどうするんです?」
『そこは私が考えます』
「え?」
『HOSHIMIは私の仕事です』
「…………」
『慎吾さんが全部背負う必要はありません』
その言葉に、少しだけ驚いた。
「高城さん」
『何です?』
「何か今日、優しくない?」
『切りますよ』
「すみません」
美咲が笑う。
俺も笑った。
でも、たぶんこれでいい。
百八十六日後に接触する対象が何なのか、今は分からない。
分からないなら、無理に未来から答えを引っ張り出す必要はない。
高城はHOSHIMIを進める。
黒瀬は未来を見る。
美咲は結衣と俺を見てくれる。
そして俺は、俺に見えるものを見る。
一人じゃなく。
みんなで。
◇
電話を切ったあと。
俺はノートを見ていた。
『186日までにやること』
『① HOSHIMIの安全性を上げる』
『② 今の結衣との生活を変えない』
『③ 一人で未来を決めない』
「二番」
隣にいた美咲が言う。
「何?」
「早速守れる?」
「どういう意味?」
「今度の日曜」
「うん」
「結衣、動物園行きたいって」
「…………」
「動物園?」
「うん」
「どこの?」
「まだ決めてない」
「天気は?」
「知らん」
「車で?」
「たぶん」
「高速使う?」
「慎吾」
「はい」
「もう始まっとるよ」
「…………」
言われて気づいた。
「いや、でも安全確認は」
「するのはいいよ」
「ですよね」
「ただ」
美咲が笑う。
「普通に動物園行くだけやけん」
「…………」
「そうでした」
危ない。
事故。
未来。
そんなことばかり考えていたら、どこにも行けなくなる。
「行こうか」
「うん」
「結衣、喜ぶかな」
「朝からずっと言いよる」
「俺には?」
「言ったらパパが天気とか道とか調べ始めるから、ママから言ってって」
「四歳児に扱いを理解されてる……」
「成長したね」
「俺じゃなくて結衣がね」
美咲が笑った。
そのとき、廊下から小さな音がした。
ゴン。
「…………」
「ゼロ?」
「たぶん」
二人で結衣の部屋へ行く。
ドアを少し開ける。
薄暗い部屋の中で、結衣は布団にくるまって眠っていた。
その横では、床にゼロが倒れている。
「何で動いとるん?」
俺が小声で聞く。
「結衣がスイッチ入れたまま寝たんやない?」
「ありそう」
ゼロを拾う。
電源を切ろうとして、底面が見えた。
『ゆい』
結衣が書いた文字。
「…………」
「慎吾?」
「何でもない」
ゼロの電源を切って、結衣の枕元へ置く。
布団から出ていた小さな手を中へ戻した。
「おやすみ」
返事はない。
当たり前だ。
ぐっすり寝ている。
部屋を出て、静かにドアを閉める。
リビングへ戻る途中、カレンダーが目に入った。
『186』
朝、結衣に聞かれた数字。
俺は消しゴムを取った。
「何するん?」
美咲が聞く。
「これ」
百八十六という数字を消す。
「消すん?」
「うん」
「忘れん?」
「忘れんよ」
忘れるわけがない。
でも、毎朝それを見て、百八十五日、百八十四日と減っていく数字を数え続けるのは違う気がした。
百八十六日後に何かが起きる。
それは覚えておく。
必要な準備もする。
でも、それだけを見て暮らさない。
「結衣が言ったやろ」
「何て?」
「いっぱいあるって」
「うん」
消しゴムを置く。
カレンダーには、元から書いてあった予定だけが残った。
ゴミの日。
美咲の予定。
俺の予定。
そして日曜日には、美咲がさっき書き足したらしい文字。
『動物園』
「…………」
こっちのほうがいい。
百八十六日後の未来も大事だ。
でも、今度の日曜日だって同じくらいちゃんと未来だ。
俺が守りたいのは、十一年後の結衣だけじゃない。
百八十六日後の結衣だけでもない。
明日の結衣も。
今度の日曜日に動物園ではしゃぐ結衣も。
十五歳になって俺を鬱陶しがる結衣も。
その全部だ。
だったら、未来を変えるために今を捨てるのはやめよう。
百八十六日を、ただの待ち時間にはしない。
その間にできることをして、笑える日はちゃんと笑って、家族で出かけられる日はちゃんと出かける。
そして、その日が来たとき、何が待っていたとしても一人で答えを決めない。
俺たちで考えて、俺たちで選ぶ。
それが、俺たちの百八十六日の使い方だ。




