第44話 観測範囲外
【保護対象の一部が観測範囲外に存在します】
その表示は、結衣の絵を棚へ戻したあとも消えなかった。
「慎吾?」
「…………」
「まだ見えとる?」
「うん」
美咲が棚を見る。
結衣の絵は、もう他の画用紙の間にしまわれている。
それでも表示は残ったままだ。
【保護対象:2】
【保護対象の一部が観測範囲外に存在します】
「高城さんに電話する?」
「…………」
「慎吾」
「します」
「よろしい」
「何で怒られてるん」
「絶対一人で考え始めるやろ」
「もうちょっと考えてました」
「ほら」
反論できない。
俺はスマホを取り、さっき通話を切ったばかりの高城さんへ電話をかけた。
一回。
二回。
『はい』
「早い」
『何かありました?』
「何で分かるんです?」
『切って三分です。忘れ物の電話ではないでしょう』
「研究者怖いな」
『何が出ました?』
早い。
「保護対象の続きです」
『続き?』
「はい」
今見えている表示を、そのまま読む。
「【保護対象の一部が観測範囲外に存在します】」
『…………』
「高城さん?」
『その表示は今もありますか?』
「あります」
『絵は見ていますか?』
「もう棚に戻しました」
『それでも消えていない?』
「はい」
『頭痛は?』
「ないです」
『吐き気、めまいは?』
「ない」
『分かりました』
「何か分かりました?」
『いいえ』
「ですよね」
『何でちょっと嬉しそうなんです?』
「最近、予想できるようになってきた」
『成長の方向がおかしいです』
横で聞いていた美咲が口を開く。
「高城さん」
『はい』
「観測範囲外って、どういう意味なんですか?」
『現時点では分かりません』
美咲が俺を見る。
「慎吾」
「何?」
「ほんとに言うね」
「言ったやろ」
『ただ、考えられる可能性はいくつかあります』
「お願いします」
『まず単純なのは、慎吾さんの現在の能力では観測できない対象である可能性です』
「それって?」
『たとえば距離』
「遠くにいる?」
『可能性の一つです』
「じゃあ海外とか?」
『慎吾さん』
「はい」
『一個ずつ勝手に具体化しない』
「…………」
「怒られた」
「美咲、楽しんでない?」
「ちょっと」
『他には、対象そのものではなく、その対象に関する情報が不足している可能性もあります』
「未観測要因みたいな?」
『似ていますが、同じとは限りません』
「はい」
『そして』
そこで、高城さんの声が少し止まった。
「何です?」
『これは、かなり仮説寄りです』
「はい」
『観測範囲という言葉が、空間だけを指しているとは限らない』
「…………」
「どういうことですか?」
美咲が聞く。
『時間です』
「時間?」
『慎吾さんの能力は、基本的に十年後の未来価格を観測します。それ以外にも、途中の年数を意識して見られたことがある』
「あります」
『なら、観測範囲という概念に時間が含まれている可能性もあります』
「…………」
嫌な感じがした。
まだ何も言われていないのに。
「高城さん」
『はい』
「つまり?」
『たとえば』
一拍。
『その対象が、現時点ではまだ存在していない場合です』
「…………」
俺も、美咲も何も言えなかった。
「存在……してない?」
『あくまで仮説です』
「でも」
『仮説です』
「二回言った」
『慎吾さんが確定事項みたいに受け取るので』
「まだ何も言ってない」
『顔が見えなくても分かります』
「みんな俺の顔分かるようになってない?」
美咲は笑わなかった。
「高城さん」
『はい』
「まだ存在してないって、どういうことですか?」
『これから存在するものが対象になっている可能性です』
「これから生まれるとか?」
「…………」
今度は俺が美咲を見る。
「美咲」
「何?」
『その可能性も、仮説としては含まれます』
リビングが静かになった。
結衣の部屋の向こうからは、何も聞こえない。
四歳の娘が、たぶん普通に眠っている。
そして、表示は。
【保護対象:2】
「いやいやいや」
「何?」
「違うやろ」
「何が?」
「だって……」
美咲を見る。
「何?」
「いや」
「言って」
「高城さん」
『私に振らないでください』
「逃げた」
『慎吾さんが何を考えたのか知りません』
「絶対分かってるやろ」
『分かりません』
「便利だな!」
美咲が俺を見る。
「何考えたん?」
「いや」
「慎吾」
「…………」
これから存在する。
保護対象は二。
一つが結衣だとしたら。
「まさか」
美咲も気づいた。
「二人目?」
「…………」
「いや、まだ分からんよ」
「それ俺が言おうとした」
「慎吾が言うと信用できん」
「何で」
『お二人とも、一度止めましょう』
高城さんが割って入る。
『今の時点では、保護対象が人間かどうかすら分かっていません』
「…………」
そうだった。
『まして、一つが結衣ちゃんだということも確定していない』
「でも」
『慎吾さん』
「はい」
『可能性が高いことと、確定していることは違います』
「はい」
『さらに、観測範囲外が時間的な意味なのかも分かっていません』
「はい」
『なので』
「子供がもう一人生まれるとか」
『考えない』
「まだ最後まで言ってない」
『考えない』
「はい」
美咲が小さく笑う。
「ほんと保護者やね」
『美咲さんも止めてください』
「分かりました」
「俺の味方いないん?」
『いますよ』
「誰?」
『今、二人で慎吾さんを止めています』
「それ敵じゃない?」
「味方やろ」
「…………」
反論できない。
『今日はもう能力を使わないでください』
「使いません」
『表示が消えたら、その時間だけ記録してください』
「分かりました」
『もし新しい表示が出ても、追わない』
「はい」
『明日、整理しましょう』
「大学?」
『いいえ。電話で十分です』
「珍しい」
『毎回大学に来られても困ります』
「美咲」
「何?」
「俺、邪魔だったらしい」
「仕事しよるんやから当たり前やろ」
『では、休んでください』
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
通話が切れた。
リビングが急に静かになる。
「慎吾」
「何?」
「ほんとに考えんでよ」
「何を?」
「二人目」
「考えてない」
「嘘」
「ちょっとだけ」
「ほら」
「でも、もしそうだったら?」
「慎吾」
「はい」
「今はやめよう」
「…………」
「高城さんの言う通り。何も分からんのに、名前まで考え始めそうやもん」
「さすがにそこまでは」
「男の子なら、とか」
「…………」
「考えた?」
「一瞬」
「早いって」
「すみません」
美咲が笑う。
俺も少し笑った。
でも、表示はまだ消えない。
【保護対象の一部が観測範囲外に存在します】
まだ存在していない。
高城さんの言葉が頭に残る。
違う。
仮説だ。
まだ、ただの仮説。
「慎吾」
「ん?」
「寝るよ」
「うん」
スマホを見る。
二十二時四十七分。
「これ、消えるまで起きてたほうがいいかな」
「スマホ置いとけば?」
「表示はスマホに出てるんじゃないです」
「めんどくさい能力やね」
「本人が一番そう思ってます」
「でも寝る」
「記録が」
「寝る」
「高城さんも時間を」
「寝る」
「はい」
立ち上がった。
その瞬間。
「…………」
「何?」
「消えた」
「ほんと?」
「うん」
時計を見る。
二十二時四十八分。
スマホのメモを開く。
『22:48 表示消失』
入力。
「よし」
「寝る?」
「寝ます」
「よろしい」
「美咲まで高城さんみたいになってきたな」
「誰のせい?」
「俺?」
「慎吾」
「はい」
リビングの電気を消した。
◇
翌日の昼休み。
会社の駐車場で弁当を食べていると、スマホが震えた。
高城さん。
『昨日の表示について、黒瀬さんにも共有していいですか』
「…………」
黒瀬さん。
『もちろん』
送信。
数分後。
『黒瀬さんから連絡があると思います』
「直接?」
『そのほうが早いので』
「…………」
弁当はまだ半分残っている。
一口食べる。
スマホが震えた。
「早いって」
黒瀬さん。
「もしもし」
『慎吾さん』
「はい」
『高城さんから聞きました』
「保護対象?」
『ええ』
「二」
『はい』
「観測範囲外も?」
『聞きました』
「何か分かります?」
『分かりません』
「黒瀬さんまで」
『何です?』
「いや。高城さんの影響かなって」
『ただ、少し気になることがあります』
「何?」
箸が止まる。
『先日、USBを見たときのことです』
「…………」
研究室。
夜の道路。
雨。
警報。
『足りない』
そして、顔の見えなかった四人目。
「四人目?」
『ええ』
「…………」
『あのあと、私も何度か思い返していました』
「未来を見直した?」
『いいえ』
「良かった」
『高城さんに止められましたから』
「黒瀬さんまで管理されてる」
『慎吾さんほどではありません』
「どういう意味?」
『そのままです』
「…………」
この人たち。
最近ちょっと仲良くない?
「で、四人目が何です?」
『あのとき私は、顔が見えなかったと言いました』
「言いました」
『性別も』
「分からない」
『年齢も』
「分からない」
『そうです』
「じゃあ何が?」
少し間が空く。
『位置です』
「位置?」
『未来の研究室で、その人物が立っていた位置』
「どこ?」
『慎吾さんの近くです』
「…………」
「俺の?」
『はい』
「どのくらい?」
『すぐ近くです』
「高城さんより?」
『近かったと思います』
「黒瀬さんより?」
『近いです』
「…………」
何だ、それ。
「俺と話してた?」
『分かりません』
「俺がその人を見てた?」
『それも分かりません』
「じゃあ」
『慎吾さん』
「はい」
『もう一つあります』
「…………」
「何?」
『私が最初に未来を見たとき、その人物に見られたと話しましたよね』
「言ってました」
未来の外側。
本来なら、誰にも認識されない黒瀬さん。
その黒瀬さんを、四人目だけが見た。
『あれについて、少し訂正したいです』
「訂正?」
『はい』
「何を?」
『あのとき私は、四人目が未来の外側にいる私を認識したと思いました』
「はい」
『でも、今思い返すと少し違う気がします』
「何が?」
『あの人物の視線は、私のところで止まっていなかった』
「…………」
背中が少し冷たくなる。
「どういう意味?」
『私は未来の外側にいます。本来なら、未来の中の人間が私を見ること自体がおかしい』
「うん」
『だから私は、見られたと思った』
「でも違った?」
『ええ』
「じゃあ?」
『私のいる方向を見ていた』
「同じじゃ?」
『違います』
「何が?」
『視線が、私のところで止まっていない』
「…………」
『私を通り越して、その先を見ていた』
「…………」
車の中に、エアコンの音だけが聞こえる。
「その先って?」
『分かりません』
「人?」
『分かりません』
「物?」
『それも』
「じゃあ何で分かるん?」
『視線です』
「…………」
『私を見る視線ではなかった。私の向こう側に何かがあるように感じた』
頭に浮かぶ。
【保護対象:2】
そして。
【保護対象の一部が観測範囲外に存在します】
「黒瀬さん」
『はい』
「それ、関係あると思います?」
『分かりません』
「ですよね」
『ただ、四人目についてもう一つ気になることがあります』
「まだあるん?」
『ええ』
「何?」
『その人物が、慎吾さんの近くにいたことです』
「それは聞きました」
『ただ、近すぎるんです』
「近すぎる?」
『ええ』
「どのくらい?」
『説明が難しいですが、同じ研究室に偶然立っているという距離ではありませんでした』
「…………」
「じゃあ何?」
『慎吾さんと、その人物が最初から一緒にいるように見えた』
「…………」
箸を持ったまま動けなくなる。
「一緒に?」
『ええ』
「知り合い?」
『分かりません』
「家族?」
『分かりません』
「高城さんみたいに仕事仲間?」
『それも分かりません』
「何も分からんやん」
『そうですね』
「じゃあ、何なら分かる?」
『…………』
黒瀬さんが黙る。
少し長い。
「黒瀬さん?」
『一つだけ』
「何?」
『未来の慎吾さんと、その人物の距離だけが、他の誰とも違って見えました』
「…………」
「どういう意味?」
『高城さんとも、私とも違う』
「はい」
『その人物だけが、慎吾さんのすぐそばにいた』
「…………」
また、頭の中に表示が浮かぶ。
【保護対象:2】
一つは結衣なのかもしれない。
でも、それすらまだ確定じゃない。
そして仮にそうだとしても、もう一つの保護対象が黒瀬さんの見た四人目だという証拠は、どこにもない。
それでも。
嫌でも意識してしまう。
未来の俺のすぐそばには、まだ顔すら見えない何者かがいた。
『慎吾さん』
「はい」
『考えすぎないでください』
「黒瀬さんまで?」
『高城さんに言われました』
「何を?」
『慎吾さんはすぐ答えを作るから止めてくれ、と』
「…………」
『その通りですね』
「俺の扱いひどくない?」
『妥当だと思います』
「味方がいない」
『いますよ』
「誰?」
少し間があって。
『少なくとも、未来の慎吾さんのそばには誰かがいる』
「…………」
『それは今まで分からなかったことです』
「…………」
「そうですね」
通話を切る。
車の中。
一人。
フロントガラスの向こうには、いつもの会社の駐車場。
いつもの昼休み。
何も変わっていない。
なのに。
俺の知らない未来には、今の俺がまだ知らない何者かがいる。
【保護対象:2】
黒瀬さんが見た、未来の俺のすぐそばにいる四人目。
そして、俺の能力が示した二つの保護対象。
この二つが同じものを指しているのかは、まだ分からない。
そもそも、保護対象が人間なのかどうかさえ分かっていない。
ただ。
俺たちがまだ知らない何かが、未来の俺のすぐそばにある。
その可能性だけは。
もう、無視できなくなっていた。




