第31話 妻の値段
【条件成立に強く影響する人物:美咲】
「…………」
何度見ても変わらない。
黒瀬でもない。
高城でもない。
教授でもない。
俺でもない。
美咲。
「なんで?」
思わず声に出た。
研究者でもなければ、投資家でもない。
アステラのことだって、俺が話すまで知らなかった。
大学の研究にも関わっていないし、黒瀬が買った土地なんて存在すら知らない。
その美咲が。
【条件:実証地域選定から除外】
この未来を成立させるための重要人物?
「意味分からん……」
俺は椅子にもたれた。
何か見落としている?
美咲が、俺の知らないところで研究に関わっている?
「いや、ないない」
毎日一緒にいるんだぞ。
仕事へ行って。
帰ってきて。
結衣の世話をして。
俺に家のことをしろと言って。
たまに俺の行動を怪しむ。
ついでに、壺を買っていないか確認する。
「最後はいらんな」
少なくとも。
未来都市の研究を裏で動かしているような人間ではない。
だったら。
「これから関わる?」
その可能性ならある。
俺だって数か月前までは、大学の研究なんて何の関係もない、ただの会社員だった。
未来価格が見えるようになって。
高城と知り合い。
黒瀬と出会い。
気づけば市民検討会にまで参加している。
美咲も同じように。
これから何かに関わるのかもしれない。
「…………」
調べるか。
そう思ったところで、頭の奥に昨日の痛みが蘇った。
条件付き未来価格を見たとき。
少し深く潜っただけで頭痛がした。
黒瀬にも言われている。
未来を見すぎるな。
「軽くだけ」
誰に言い訳しているのか分からない。
俺は未来価格ノートを閉じ、寝室へ向かった。
◇
美咲は寝ていた。
「…………」
当たり前だ。
時計を見る。
午前零時十二分。
結衣もとっくに寝ている。
俺だけが夜中に、一億八千四百万円の土地と妻の未来について考えている。
「怪しい夫だな」
寝室のドアを静かに閉めようとして。
「慎吾」
「うわっ」
「何?」
「起きてた?」
「今起きた」
「ごめん」
「何しよるん?」
「いや……」
「…………」
「トイレ」
「そっちじゃないやん」
「…………」
美咲が薄暗い部屋の中から俺を見る。
「何?」
「なんでもない」
「なんでもない人は、寝てる嫁を見にこんやろ」
「生存確認」
「怖いわ」
「おやすみ」
「慎吾」
「はい」
「また頭痛いん?」
「…………」
鋭い。
「今日は大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「なら寝て」
「はい」
ドアを閉める。
調査終了。
「無理だろ……」
本人をじっと見ながら未来を調べようとしたら、普通に不審者だ。
そもそも。
人間そのものを見ても、未来価格は出ない。
結衣にも。
俺にも。
黒瀬にも。
誰にも値札なんてつかなかった。
人間には値段がない。
最初からそうだった。
「じゃあ……美咲に関係する物」
スマホ。
バッグ。
財布。
服。
どれも普通だ。
何か。
美咲本人とのつながりが強い物。
「…………」
一つ思いついた。
左手を見る。
結婚指輪。
「これなら」
俺の指にもある。
美咲と同じ日に買った。
同じ店。
同じシリーズ。
夫婦で持っている物。
俺は自分の指輪を見た。
【現在価格:18,000円】
【10年後の価格:12,000円】
「現実的だな」
夢がない。
買ったときはもっとしたぞ。
「まあ、中古ならそんなもんか」
問題は美咲のほうだ。
でも、さすがに寝ている妻の指輪を外すのは怖い。
「明日にするか」
今日はやめる。
黒瀬にも。
急ぐなと言われた。
十年しかない。
いや。
十年もある。
「…………」
俺はようやく寝室へ戻った。
◇
翌朝。
「パパ!」
「はい」
「ゼロがいない!」
「昨日持って寝てたやろ」
「いない!」
「布団の中じゃない?」
「いない!」
結衣が半泣きで走ってくる。
「はいはい」
一緒に寝室へ戻る。
布団。
枕。
ベッドの下。
「ないね」
「ゼロ……」
「泣くなって」
「ゼロいなくなった……」
「ロボットが家出するか」
布団を全部めくる。
いない。
「どこ持ってった?」
「ねんねした!」
「一緒に?」
「うん」
「朝起きたときは?」
「いた!」
「じゃあ、そのあとやん」
「…………」
結衣が考える。
「トイレ!」
「持ってった?」
「うん!」
「なんで」
「ゼロもおしっこ!」
「ロボットはしません」
トイレへ行く。
いない。
「そのあと?」
「ママのとこ!」
リビングへ戻る。
「美咲ー」
「何?」
「ゼロ知らん?」
「知らん」
「結衣がなくした」
「なくしてない!」
「じゃあ消えた」
「ゼロとんだ!」
「昨日、宇宙まで飛ぶ設定になってたな」
「うちゅう!」
「行ってません」
美咲が冷蔵庫を開けながら言う。
「洗面所におったよ」
「いるやん」
「ゼロー!」
結衣が走っていく。
数秒後。
「あったー!」
「よかったね」
平和だ。
朝からロボット一台で大騒ぎ。
「慎吾」
「ん?」
「これ開けて」
美咲がジャムの瓶を差し出してきた。
「はい」
受け取る。
「固っ」
「開かんやろ?」
「昨日誰が閉めた?」
「慎吾」
「俺か」
「自分と戦って」
「昨日の俺、強いな」
「はよ」
力を入れる。
「…………っ」
パキッ。
「はい」
「ありがと」
美咲が瓶を受け取る。
そのとき。
左手の指輪が目に入った。
「…………」
「何?」
「いや」
「また変な顔」
「指輪」
「指輪?」
「ちょっと見せて」
「なんで?」
「いいから」
美咲が怪訝そうに左手を出す。
「急に何?」
「傷ついてるなと思って」
「そりゃ十年以上つけてたら傷つくやろ」
「確かに」
「買い直してくれるん?」
「そういう話?」
「いいよ。高いやつで」
「話が変わってきたな」
笑いながら。
指輪を見る。
【現在価格:18,000円】
【10年後の価格:12,000円】
「…………」
同じ。
俺の指輪とほとんど変わらない。
「何?」
「いや」
「ほんとに何なん?」
「懐かしいなと思って」
「朝から?」
「たまには夫婦の思い出を」
「怖っ」
「なんで」
「慎吾が言うと何か隠し事してそう」
「信用なさすぎん?」
美咲が手を引っ込めようとする。
普通の指輪。
未来価格も普通。
妻本人には値段なんてつかない。
もちろん。
そんなことは分かっている。
でも。
昨日見た表示が頭から離れない。
【条件成立に強く影響する人物:美咲】
価格じゃない。
知りたいのは。
この人が未来で何をするのか。
俺はほんの少しだけ意識を変えた。
美咲。
条件成立。
実証地域。
頭の奥が。
わずかに痛む。
「…………」
無理はしない。
ほんの少しだけ。
【関連人物:神崎美咲】
出た。
やっぱり。
さらに。
【関連事象:実証地域選定】
「…………!」
「慎吾?」
「え?」
「大丈夫?」
「ああ」
「今、ぼーっとしたよ」
「ちょっと考え事」
「また頭?」
「違う違う」
俺はすぐに見るのをやめた。
それでも。
十分だった。
間違いじゃない。
美咲は。
あの土地の未来に関わる。
◇
会社。
昼休み。
未来価格ノートを開く。
『神崎美咲』
名前を書く。
その下。
『実証地域選定に関係』
『条件付き未来成立の重要人物』
そして。
『なぜ?』
「…………」
分からない。
美咲が土地を買う?
「ないな」
そんな話をしたら。
まず俺が怒られる。
市役所へ転職する?
それもない。
大学の研究員なんてもっと想像できない。
アステラへ転職する姿も浮かばない。
「じゃあ何だ……」
そこで。
市民検討会が頭に浮かんだ。
俺は。
子育て世帯として参加している。
美咲も同じだ。
「親か」
研究者じゃない。
投資家でもない。
行政でもない。
でも。
四歳の娘を育てている母親ではある。
それなら。
研究へ関わる理由はある。
「…………」
昨日の夕飯を思い出す。
『全部コンピューターが勝手に動くんやろ?』
『便利やけど、間違えたら怖いやん』
『誰が責任取るん?』
俺が検討会で聞いた話を少し説明しただけで。
美咲は、研究者たちが議論していた問題へ普通に辿り着いた。
「まさかね」
でも。
俺だって同じだった。
専門知識なんてない。
ただ。
結衣と暮らしている。
その経験から。
『親に知らせるより先に、危険そのものを止めたほうがよくないですか?』
そう言った。
その一言で。
【未来改変率:0.14% → 0.31%】
未来が動いた。
なら。
美咲の一言でも。
未来は動く?
「…………」
ノートに書く。
『美咲を検討会へ?』
書いたところで。
ペンが止まった。
俺が連れていく。
その選択自体が。
未来を変える。
「怖いな……」
何をしても。
未来につながっているように思えてくる。
美咲を連れていけば。
未来が変わる。
連れていかなくても。
連れていかなかった未来を選ぶことになる。
「結局、選ぶしかないのか」
未来が見えるから。
正解が分かる。
最初は。
そう思っていた。
でも。
今は逆だ。
未来が見えるからこそ。
選ぶのが怖い。
◇
夕方。
高城からメッセージが届いた。
『先日はありがとうございました』
続けて。
『次回の検討会ですが、ご家族の参加も可能になりました』
「…………」
タイミング良すぎない?
『前回、子育て世帯からもっと意見を聞きたいという話になりまして』
その下。
『奥様もご都合が合えばぜひ』
「…………」
俺はスマホを見たまま固まった。
来た。
俺が動く前に。
向こうから。
「美咲……」
条件成立に強く影響する人物。
その美咲が。
次回の検討会へ参加できる。
偶然?
「いや……」
未来を見始めてから。
偶然という言葉を。
簡単には使えなくなった。
返信しようとして。
止まる。
『聞いてみます』
たった六文字。
それだけなのに。
送れない。
もし。
美咲が参加したことで。
良くない未来へ動いたら?
でも。
条件付き未来では。
【星見事故との関連性低下】
そこへ強く影響する人物が。
美咲だ。
「…………」
俺は送信した。
『聞いてみます』
すぐに既読。
『お願いします』
決めるのは。
俺じゃない。
美咲だ。
◇
「嫌」
「早っ」
夕飯のあと。
俺が話を切り出して三秒だった。
「まだ全部説明してないけど」
「大学やろ?」
「はい」
「検討会やろ?」
「はい」
「私も来ませんかって?」
「はい」
「嫌」
「なんで?」
「面倒」
「…………」
強い。
「一回だけでも」
「慎吾が行けばいいやん」
「子育てしてる人の意見が、もっと欲しいらしい」
「慎吾も子育てしてるやろ」
「まあ」
「じゃあいいやん」
「女性の意見も」
「他にもおるやろ」
「います」
「じゃあいいやん」
「…………」
正論しか返ってこない。
「ママー!」
結衣がゼロを持ってくる。
「ゼロこわれた!」
「パパに言って」
「パパなおせん!」
「…………」
「慎吾、戦力外やん」
「電池切れです」
「なおして!」
「はいはい」
電池の蓋を開ける。
単三電池。
「これ交換したら直る」
「パパすごい!」
「評価戻った」
美咲が笑う。
「それで」
「まだ言う?」
「一回だけ」
「なんでそんな来てほしいん?」
「…………」
答えに詰まる。
本当の理由は。
言えない。
未来に関係しているから。
あなたの一言で。
結衣が助かるかもしれないから。
そんなこと。
言えるわけがない。
「この前さ」
「うん」
「美咲、言ったやん」
「何を?」
「全部コンピューターが勝手に動いたら怖いって」
「言ったね」
「誰が責任取るんって」
「うん」
「ああいう意見が欲しいらしい」
「…………」
「研究してる人だけじゃ気づかないことがあるって」
美咲が少し考える。
「私、何も分からんよ?」
「俺も分からん」
「慎吾は何しに行っとるん」
「俺も最近それ思う」
「大丈夫なん、その検討会」
「たぶん」
美咲が笑う。
「でも」
俺は続ける。
「結衣みたいな子供が、事故に遭わんようにする研究だから」
美咲の表情が。
少しだけ変わった。
「それなら」
俺は言う。
「親がどう思うかって、大事なんじゃないかな」
少しの沈黙。
美咲は。
ゼロの電池を交換している俺の手元を見る。
「いつ?」
「来週の土曜」
「土曜?」
「うん」
「何時?」
「午後」
「午前は?」
「空いてる」
「買い物行ける?」
「行けます」
「結衣は?」
「子連れでもいいって」
「…………」
美咲が少し考える。
「一回だけよ」
「え?」
「行ってもいい」
「ほんと?」
「一回だけ」
「ありがとう」
「つまらんかったら次は行かんよ」
「分かった」
「あと」
「何?」
「帰りにご飯」
「はい」
「慎吾のおごり」
「家計同じですけど」
「気持ちの問題」
「分かりました」
「やった!」
なぜか結衣が喜ぶ。
「結衣も行くん?」
「いく!」
「何しに?」
「ゼロみせる!」
「研究者に?」
「うん!」
「高城さん喜ぶかもな」
「おじちゃん!」
「本人の前で言うなって」
美咲が笑う。
結衣も笑う。
俺も笑った。
でも。
胸の奥では。
別の何かが動いていた。
美咲が参加する。
たった。
それだけ。
なのに。
未来がまた一つ。
静かに動き始めたような気がした。
◇
その夜。
俺はもう一度。
美咲の結婚指輪を見た。
今度は。
眠っている美咲の手をこっそり見るような真似はしない。
洗面所。
風呂に入る前に外して置いてある。
「ちょっとだけ」
見る。
【現在価格:18,000円】
【10年後の価格:12,000円】
そこは。
変わらない。
妻の値段。
そんなものは。
やっぱりどこにも表示されない。
当たり前だ。
美咲自身に。
値段なんてつけられるわけがない。
でも。
もし。
この人の何気ない一言が。
十年後の未来を変えるのなら。
それには。
一体いくらの価値があるんだろう。
「…………」
俺は少しだけ。
意識する。
美咲。
実証地域。
次回の検討会。
結衣。
頭の奥が。
軽く痛む。
でも。
すぐに文字が浮かんだ。
【関連人物:神崎美咲】
【未来影響度:――】
「…………」
数字が揺れる。
そして。
【未来影響度:91】
「九十一……」
高い。
黒瀬。
九十九。
高城。
九十六。
そして。
美咲。
九十一。
「マジかよ……」
ただの俺の妻。
普通の母親。
その美咲が。
結衣の未来に。
ここまで強く関係している。
さらに。
【関連事象:星見事故】
「…………」
やっぱり。
美咲は。
星見へつながっている。
そして。
もう一つ。
【主要影響要因:――――】
「…………」
見るか。
一瞬。
迷った。
頭痛は。
まだ軽い。
少しだけ意識を深くすれば。
たぶん。
読める。
でも。
黒瀬の言葉が浮かぶ。
『急がないことです』
「…………」
今日は。
ここまで。
俺は指輪から目を離した。
表示が消える。
知らない。
あえて。
知らないままにする。
少しずつ。
俺も。
それを覚え始めていた。
◇
翌朝。
「ねえ、慎吾」
「ん?」
朝飯を食べていると。
美咲がスマホを見ながら言った。
「この前言ってた研究」
「うん」
「子供が危ないって分かったら、親に通知が来るんよね?」
「たぶん」
「それさ」
「何?」
美咲がパンを一口食べる。
「親じゃなくて」
一拍。
「子供に直接教えたら駄目なん?」
「…………」
俺の手が止まった。
「例えば?」
「知らんけど」
美咲は。
本当に何でもないことみたいに言う。
「時計とか持たせて」
「うん」
「危ないときに音鳴らすとか」
「…………」
「小さい子なら」
美咲が結衣を見る。
「声で『止まって』って言うとか」
結衣が顔を上げた。
「とまる!」
「ほら」
美咲が笑う。
「結衣でも分かるやん」
「…………」
「何?」
「いや」
「また変な顔してる」
「それ」
「何?」
「検討会で言ってみたら?」
「えー」
「絶対言って」
「なんでよ」
「いいから」
「慎吾が言えば?」
「美咲が言ったほうがいい」
「何それ」
美咲は呆れた顔でコーヒーを飲む。
その横で。
結衣がゼロを持ち上げた。
「ゼロもいう!」
「何を?」
「とまって!」
「ゼロ、しゃべらんやろ」
「おっきくなったらしゃべる!」
「また性能上がったな」
「とぶし!」
「宇宙にも行くんだったな」
「うん!」
結衣がゼロを抱えて笑う。
美咲も笑っている。
俺も。
笑った。
でも。
頭の中では。
別のことを考えていた。
親に知らせるんじゃない。
子供本人へ知らせる。
危険が起きる前に。
その子が信じられる何かが。
『止まって』
そう伝える。
「…………」
美咲。
もしかすると。
お前が未来でやることは。
技術を作ることでも。
未来を見ることでも。
大金を動かすことでもないのかもしれない。
誰より結衣の近くにいる母親だからこそ分かることを。
未来を作る人間たちへ。
ただ伝える。
それだけなのかもしれない。
「…………」
俺は。
まだ知らない。
美咲が今。
何気なく口にした。
『子供に直接教えたら駄目なん?』
その一言が。
十年後。
結衣の左手へと。
つながっていくことを。




