第30話 買えなかった土地の意味
「あの土地です」
黒瀬の言葉を聞いた瞬間。
手に持っていた資料が、急に重く感じた。
「……本当に?」
「はい」
「俺があの土地を候補に出した未来で、星見事故が三年前倒しになる?」
「私が見た断片では」
「結衣が……十一歳くらいのときに?」
「…………」
黒瀬は答えなかった。
でも。
その沈黙で十分だった。
結衣は今、四歳。
今見えている事故が約十年後。
それが三年前倒しになれば。
七年後。
結衣は十一歳だ。
まだ小学生。
ランドセルを背負って。
友達と遊んで。
俺のことを、まだ普通に「パパ」と呼んでいるかもしれない。
そんな年齢で。
「…………」
俺は手元の資料に目を落とした。
『実証地域候補 意見募集』
候補地を書いて提出する。
たったそれだけの紙だ。
なのに。
俺があの土地を候補に挙げることで。
未来が変わる可能性がある。
しかも。
悪い方向に。
「黒瀬さん」
「はい」
「あの土地を買ったこと」
一度、言葉を切る。
「失敗だったと思ってます?」
黒瀬の表情が。
わずかに変わった。
「……なぜそう思うんです?」
「だって、星見事故につながるんでしょ?」
「つながる可能性があります」
「同じことじゃないですか」
「違います」
「どう違う?」
黒瀬は少し考えてから答えた。
「土地を買ったから、事故が起きるのか」
「…………」
「事故につながる計画があるから、土地の価値が上がるのか」
一拍。
「あるいは」
黒瀬が続ける。
「土地も事故も、別の出来事から生まれた結果なのか」
「…………」
「今の段階では分かりません」
確かにそうだ。
俺に見えているのは。
結果ばかり。
土地の値段。
事故。
未来に関わる人物。
それらがつながっていることは分かっても。
何が原因で。
何が結果なのか。
そこまでは見えない。
「でも、未来価格は一億八千四百万円です」
「あなたには、そう見えている」
「黒瀬さんには?」
「価値が大きく上がる未来は見えました」
「どれくらい?」
「そこまでは分かりません」
「…………」
俺の能力と。
黒瀬の能力。
同じ未来を見ていても。
見え方は違う。
「じゃあ、何で買ったんです?」
「土地を?」
「はい」
「将来、値上がりするからです」
「それだけ?」
「投資ですから」
「……でも」
俺は黒瀬を見る。
「未来を知ってた」
「ある程度は」
「星見事故も?」
黒瀬が黙った。
「土地を買った時点で」
一歩踏み込む。
「事故のことも知ってたんですか?」
「いいえ」
「…………」
即答だった。
「知らなかった?」
「土地を買った時点では」
「じゃあ、いつ?」
「星見という言葉を見たのは、その後です」
「どれくらい後?」
「一年ほど」
「…………」
つまり。
黒瀬は。
星見事故を知ったうえで土地を買ったわけじゃない。
「じゃあ、事故を知ったあと」
「はい」
「土地を売ろうとは思わなかった?」
「思いました」
「なら、なんでまだ持ってるんです?」
黒瀬は。
少しだけ笑った。
「売る未来も見たからです」
「…………」
「どうなった?」
「良くありませんでした」
「何が?」
「言えません」
「また?」
「まだです」
「…………」
思わず。
ため息が出た。
「ほんと、秘密多いですね」
「すみません」
「謝ればいいと思ってません?」
「少し」
「思ってるんだ」
黒瀬が。
わずかに笑う。
「でも、一つだけ言えます」
「何です?」
「私は」
黒瀬の笑みが消える。
「あの土地を持っている未来より――」
一拍。
「手放した未来のほうを恐れました」
「…………」
「事故が?」
「事故だけではありません」
「じゃあ何が」
「慎吾さん」
「はい」
「未来は、一つの出来事だけで良し悪しを決められない」
「…………」
「ある未来では事故が遅くなる」
黒瀬が言う。
「でも、その代わりに別の何かが悪くなるかもしれない」
「…………」
「逆もあります」
分かっている。
頭では。
でも。
「俺には娘がいるんです」
「分かっています」
「世界全体の未来とか……」
言いながら。
自分でも少し嫌になる。
それでも。
本音だった。
「正直、どうでもいい」
黒瀬は。
黙って俺を見る。
「結衣が生きるなら」
俺は言った。
「俺はそっちを選びたい」
しばらく。
沈黙。
そして。
黒瀬は静かに頷いた。
「それでいいと思います」
「え?」
「あなたは父親です」
「…………」
「世界の最適解を選ぶ必要はありません」
「……意外」
「何が?」
「もっと説教されるかと思った」
「私はあなたの先生ではありません」
「先輩面はするけど」
「それはします」
「するんだ」
少しだけ。
笑った。
◇
大学を出て。
駐車場へ向かう。
歩きながら。
俺はもう一度。
『実証地域候補 意見募集』
その紙を見た。
あの八百万円の土地。
俺が。
買えなかった土地。
当時は。
悔しくて仕方がなかった。
十年後には。
一億八千四百万円。
単純に考えれば。
一億円を軽く超える利益が出る。
それを。
俺より先に。
黒瀬が現金で買った。
「…………」
もし。
あのとき。
俺が無理をしてでも買っていたら?
借金して。
美咲に黙って。
それでも。
手に入れていたら。
今。
どうしていただろう。
星見事故との関係を知っても。
土地を守った?
それとも。
売った?
十年後の。
一億八千四百万円を捨ててでも。
手放せた?
「…………」
分からない。
でも。
少なくとも。
能力を手に入れたばかりの俺なら。
【10年後の価格:184,000,000円】
その数字だけに。
引っ張られていた気がする。
「未来価格が高いから、正解じゃない」
以前。
未来価格ノートへ。
自分で書いた言葉。
あのときは。
分かったつもりでいた。
でも。
今になって。
ようやく。
本当の意味が分かった気がした。
◇
「パパ!」
玄関を開けた瞬間。
結衣が走ってきた。
「おかえり!」
「ただいま」
「みて!」
両手には。
ゼロ。
「また?」
「きょうね!」
「うん」
「おなまえかいた!」
「前も書いてなかった?」
「こんどはうら!」
「裏にも?」
「うん!」
結衣が。
得意げにゼロをひっくり返す。
底面。
ひらがなで。
『ゆい』
「…………」
「これ誰?」
「わたし!」
「分かってます」
「ゼロ、わたしの!」
「はい」
「ずっと!」
「…………」
その言葉に。
一瞬だけ。
胸が詰まった。
でも。
笑う。
「そうだな」
「うん!」
「ずっと持っとけ」
「うん!」
結衣はゼロを抱えて。
リビングへ走っていった。
俺は。
靴を脱ぐのも忘れて。
しばらく。
その小さな背中を見ていた。
◇
「今日どうだった?」
夕飯の途中。
美咲が聞いてきた。
「難しかった」
「検討会?」
「うん」
「何が?」
「未来」
「…………」
美咲が。
箸を止めて俺を見る。
「また?」
「あ、違う。技術」
「紛らわしい」
「すみません」
「で?」
「事故を防ぐ方法とか」
「うん」
「街全体で危険を予測して、車とか信号とかロボットとかを連携させるらしい」
「すごいやん」
「すごいよ」
「でも」
美咲が少し考える。
「怖くない?」
「何が?」
「全部コンピューターが勝手に動くんやろ?」
「そこなんよ」
俺は。
思わず美咲を見る。
今日の検討会でも。
散々出た話。
「便利やけど」
美咲は。
味噌汁を一口飲んでから言った。
「間違えたら怖いやん」
「そう」
「人間が確認するならまだいいけど」
一拍。
「機械が勝手に決めるなら……」
箸が止まる。
「誰が責任取るん?」
「今日、それ言われた」
「ほら」
「研究者向いてる?」
「ならん」
「即答」
「研究する前に、家のことして」
「はい」
結衣が顔を上げた。
「パパ、けんきゅうするの?」
「しません」
「ロボットつくる?」
「作れません」
「ゼロおっきくする?」
「それは高城さんに頼んでください」
「おじちゃん!」
「だから本人の前では言うなよ」
美咲が吹き出す。
俺も笑った。
いつもの夕飯。
くだらない話をして。
結衣が笑って。
美咲が笑って。
俺も笑う。
俺が守りたい未来は。
たぶん。
こういうものだ。
特別じゃなくていい。
金持ちにならなくてもいい。
十年後も。
これが続いていればいい。
◇
その夜。
自分の部屋。
俺はスマホに保存していた。
土地の資料を開いた。
更地。
古いブロック塀。
伸びた草。
何度見ても。
一億円を超える価値が生まれる土地には見えない。
意識を向ける。
【10年後の価格:184,000,000円】
変わらない。
その下。
【価格変動要因:実証地域選定】
そして。
【関連事象:星見事故】
「…………」
初めて。
はっきり出た。
今までは。
土地。
周辺開発。
研究施設。
星見事故。
それぞれが。
別々の情報として見えていた。
でも。
今は。
一本につながっている。
「じゃあ……」
ふと思う。
もし。
この土地が。
一億八千四百万円にならない未来なら?
「…………」
画面を見る。
【10年後の価格:184,000,000円】
変わらない。
「違う」
知りたいのは。
この未来じゃない。
俺が。
あの土地を。
実証地域に選ばせない。
候補から外す。
もし。
そうなったら?
意識を。
もう一段。
深くする。
頭の奥。
ズキッ。
「っ……」
すぐに。
やめようと思った。
でも。
その直前。
数字が揺れた。
【10年後の価格:184,000,000円】
一度。
表示が消える。
「…………」
代わりに。
見たことのない文字が浮かんだ。
【条件付き未来価格:――――】
「条件付き……?」
初めて見る表示。
頭痛が。
少し強くなる。
「見せろ」
文字が。
ゆっくり続く。
【条件:実証地域選定から除外】
「…………」
そして。
【10年後の価格:12,600,000円】
「…………」
思わず。
目を疑った。
「一千二百六十万円……?」
八百万円で買った土地。
十年後。
一千二百六十万円。
多少は上がっている。
でも。
それだけ。
普通の土地。
少なくとも。
一億八千四百万円なんて。
異常な値段にはならない。
二つの数字を。
見比べる。
【10年後の価格:184,000,000円】
【条件付き未来価格:12,600,000円】
差額。
一億七千万円以上。
「すげぇな……」
思わず。
笑いそうになった。
もし。
俺が土地の所有者なら。
何も知らなければ。
絶対に。
一億八千四百万円になる未来を選ぶ。
当たり前だ。
でも。
今の俺にとっては違う。
「関連事象」
深くは潜らない。
ほんの少し。
意識する。
【条件付き未来:星見事故との関連性低下】
「…………」
低下。
消滅ではない。
この土地を。
実証地域から外したからといって。
星見事故そのものが。
なくなるわけじゃない。
それでも。
関係は弱くなる。
「これか……」
黒瀬が言っていた。
未来は一つじゃない。
同じ土地。
同じ現在。
それでも。
選択によって。
十年後は変わる。
そして。
今まで。
俺の能力が見せていたのは。
一つの未来価格だけだった。
でも。
今。
初めて。
別の選択をした先の値段が見えた。
【10年後の価格:184,000,000円】
【条件付き未来価格:12,600,000円】
「…………」
一億七千万円以上の価値が。
消える未来。
以前の俺なら。
絶対に選ばなかった。
でも。
今なら。
「安いな」
声に出して。
自分でも驚いた。
一億七千万円。
消える。
それでも。
結衣が生きる可能性が。
少しでも上がるなら。
「安い」
未来価格ノートを開く。
新しいページ。
二つの数字を書く。
『通常未来 1億8400万円』
『条件付き未来 1260万円』
『条件 実証地域選定から除外』
少し考える。
その下。
大きく書く。
『土地の値段より、結衣』
「…………」
当たり前だ。
そんなの。
比べるまでもない。
でも。
未来価格が見えるようになってから。
俺は。
その当たり前を。
何度も忘れそうになった。
高くなる物を探して。
金を増やして。
未来の価値ばかり見て。
俺が。
本当に欲しかったものまで。
値段で考えそうになっていた。
ペンを置く。
そして。
結衣の絵を見る。
【10年後の価格:293,600,000円】
まだ。
高い。
つまり。
俺が今観測している未来では。
まだ結衣は死ぬ。
でも。
「選べる」
小さく呟いた。
未来は一つじゃない。
そして。
俺の能力も。
少しずつ。
別の未来を見せ始めている。
そのとき。
土地の画面に出ていた表示が。
もう一度。
揺れた。
【条件付き未来価格:12,600,000円】
その下。
新しい文字が浮かぶ。
【条件成立率:18.4%】
「…………」
「成立率?」
十八・四%。
俺が。
実証地域から外したいと思っただけでは。
その未来にはならない。
考えてみれば。
当然だ。
俺一人で。
決められる話じゃない。
市も。
大学も。
企業も。
研究者も。
投資家も。
市民もいる。
いろんな人間の判断が重なって。
初めて。
未来は動く。
「十八・四%か……」
低い。
でも。
ゼロじゃない。
どうすれば。
上げられる?
そう思った。
その瞬間。
【条件成立に強く影響する人物:――――】
「…………」
新しい表示。
誰だ?
黒瀬か。
高城か。
教授か。
それとも。
俺自身?
文字が。
ゆっくり。
形を作る。
【条件成立に強く影響する人物:美咲】
「…………」
思考が。
止まった。
「美咲?」
研究者じゃない。
投資家でもない。
大学にも。
アステラにも。
あの土地にも。
何の関係もない。
俺の妻。
神崎美咲。
その名前が。
初めて。
未来の中心に。
現れた。
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