第27話 生きている結衣
「生きています」
黒瀬の言葉が、頭から離れなかった。
「…………」
結衣が生きている。
十年後。
事故が起きるはずの日を過ぎても、十四歳になった結衣が生きている。
「本当に?」
「はい」
「絶対?」
「…………」
黒瀬が少しだけ困った顔をした。
「絶対、とは言えません」
「さっき生きてるって言ったじゃないですか」
「私が見た未来では、です」
「…………」
「未来は一つじゃない」
さっき、黒瀬自身が言った言葉だ。
分かっている。
分かっているけど、今の俺に冷静に受け止めろというほうが無理だった。
「じゃあ、どんな結衣だった?」
「どんな?」
「十四歳なんでしょ?」
「ええ」
「元気だった?」
「そういうふうには見えました」
「病気とかは?」
「分かりません」
「怪我は?」
「見た限りでは」
「どこにいた?」
「慎吾さん」
「学校?」
「落ち着いてください」
「家?」
「慎吾さん」
「何してた?」
「一つずつ聞いてください」
「…………」
無理だ。
落ち着けるわけがない。
俺はずっと探していた。
結衣が死なない未来を。
その未来を、目の前の男は見たと言っている。
「……すみません」
「いえ」
黒瀬が冷めかけたコーヒーを一口飲む。
「そうなると思っていました」
「どれくらい見たんです?」
「十秒もありません」
「…………」
短い。
あまりにも短い。
「場所は?」
「駅です」
「駅?」
「おそらく」
「どこの?」
「分かりません」
「看板とかは?」
「見えませんでした」
黒瀬が指先でコーヒーカップを回す。
「私が見る未来は、映像の断片ですから」
「…………」
黒瀬の能力は、俺よりずっと便利だと思っていた。
選択した先の未来が見えるなら、何でも分かるんじゃないかと。
でも違う。
本当に断片しか見えないらしい。
「結衣は?」
「ホームにいました」
「一人?」
黒瀬が記憶を探すように、少し視線を落とした。
「友人らしき女の子と一緒でした」
「友達……」
「はい」
「制服?」
「制服でした」
「…………」
十四歳。
中学生。
制服を着て、友達と駅にいる。
そんな、どこにでもある普通の未来。
「何してた?」
「笑っていました」
「…………」
駄目だ。
目の奥が熱くなる。
「笑ってた?」
「はい」
「結衣が?」
「はい」
「どんなふうに?」
「どんな、と言われても……」
「今みたいに?」
黒瀬が俺を見る。
「今の結衣さんを、私はほとんど知りません」
「あ……」
そうだった。
黒瀬が結衣と会ったのは、ほんの少しだけだ。
「すみません」
「いえ」
黒瀬がわずかに笑った。
「ただ、楽しそうでしたよ」
「…………」
「友達と何か話して、笑っていました。それから二人で電車を待っていた」
それだけ。
本当に、それだけの光景。
なのに俺には十分だった。
十四歳の結衣。
制服。
友達。
駅。
笑っている。
「…………」
見たい。
俺も、その未来を。
◇
「いつです?」
「何が?」
「黒瀬さんが見た、その未来」
「正確な日付は分かりません」
「十年後?」
「あなたが言っている事故よりは後です」
「どれくらい?」
「数か月ほど」
「…………」
事故予定日を越えている。
それだけは間違いない。
「じゃあ、事故は起きなかった?」
「分かりません」
「でも結衣は生きてる」
「はい」
「だったら事故を防いだってことじゃないんですか?」
「事故そのものがなくなったのかもしれない」
黒瀬が答える。
「事故は起きたけれど、結衣さんが助かったのかもしれない。あるいは――」
一拍。
「事故の内容そのものが変わったのかもしれない」
「…………」
「そこは私にも分かりません」
「星見は?」
黒瀬が黙った。
「その未来にも、星見はある?」
「あります」
「…………」
星見は消えていない。
「じゃあ……」
俺は頭の中で考える。
「星見そのものを潰さなくても、結衣は助かる?」
「その可能性はあります」
「…………」
初めてだった。
ほんの少しだけ、進む方向が見えた気がした。
「アステラは?」
「存在しています」
「十年後も?」
「はい」
「高城さんは?」
「います」
「教授は?」
「います」
「黒瀬さんは?」
「…………」
一瞬、間があった。
「私もいます」
「…………」
星見。
アステラ。
高城。
教授。
黒瀬。
全部、消さなくていい。
全部残っていても、結衣が生きている未来は存在する。
「じゃあ……」
いける。
今の未来を少しずつ変えて、その未来へ辿り着けばいい。
そう思ったところで、一人聞いていないことに気づいた。
「美咲は?」
「奥さん?」
「はい」
「分かりません」
「見えなかった?」
「少なくとも、その場には」
「…………」
まあ、駅だ。
十四歳の娘が友達と出かけている。
母親がいなくても、何もおかしくない。
「そうですよね」
「はい」
「じゃあ……」
言いかけて、止まる。
「どうしました?」
「いや……」
聞く必要なんてない。
十四歳の娘が友達と駅にいる。
そこに父親まで一緒にいるほうがおかしい。
でも。
聞きたい。
「俺は?」
黒瀬が止まった。
「…………」
ほんの一瞬。
でも、俺には分かった。
「俺、その未来にいました?」
「駅にはいません」
「それは分かってます」
「…………」
「俺」
一度、唾を飲む。
「生きてます?」
黒瀬は答えなかった。
「黒瀬さん」
「分かりません」
「…………」
答えは早かった。
でも、さっきまでとは何かが違う。
「本当に?」
「はい」
「俺の未来、見てない?」
「…………」
「見た?」
「慎吾さん」
「見たんですね?」
「落ち着いてください」
「それ言うとき」
俺は黒瀬を見る。
「だいたい何か隠してますよね」
「…………」
黒瀬はコーヒーカップへ手を伸ばしかけ、やめた。
「あなた自身については」
「…………」
「非常に見えにくいんです」
「何で?」
「分かりません」
「また?」
「本当に分からない」
「…………」
そこで思い出した。
【死亡予定日:算出不能】
結衣には出た。
俺には出なかった。
「俺の能力でも」
「はい」
「自分の死亡予定日だけ、出ないんです」
黒瀬の眉がわずかに動く。
「死亡予定日?」
「結衣は出ました。でも俺は――」
一拍。
「算出不能」
「…………」
今度は黒瀬が黙った。
明らかに何かを考えている。
「何です?」
「いえ」
「言ってください」
「まだ仮説です」
「何の?」
黒瀬が少し考える。
「観測者は、自分自身を観測対象にしたときだけ、精度が極端に落ちるのかもしれません」
「黒瀬さんも?」
「私自身の未来は、ほとんど見えません」
「…………」
初めて聞いた。
「何で?」
「自分の選択によって、最も大きく変わるからかもしれない」
「…………」
「あるいは」
「あるいは?」
「観測している本人だから」
「…………」
難しい。
「つまり?」
黒瀬が少しだけ考える。
「鏡だけでは、自分の背中は見えないでしょう?」
「…………」
「そんなものだと思っています」
「分かるような、分からないような」
「私も同じです」
「じゃあ」
俺は聞く。
「十年後に俺が生きてるかどうかは?」
「分かりません」
「…………」
胸の奥がざわつく。
でも今は、俺じゃない。
「結衣は」
「はい」
「生きてる未来がある」
「あります」
「それは間違いない?」
「私が見た限りでは」
「…………」
なら。
今は、それでいい。
◇
「見せてもらえません?」
「何を?」
「その未来」
「…………」
「黒瀬さんが見た映像」
「できません」
「ですよね」
ちょっとだけ期待した。
「ただ」
黒瀬が言う。
「記録はあります」
「記録?」
テーブルの上。
黒いノート。
黒瀬が開く。
「見た未来は、できるだけ書き残しています」
「何で?」
「忘れるからです」
「…………」
ずいぶんさらっと言った。
「忘れる?」
「人間の記憶なんて、曖昧なものでしょう」
「ああ……そういう意味」
「ええ」
「…………」
なぜだろう。
一瞬だけ、それ以外の意味があるように聞こえた。
「見せてもらっても?」
黒瀬の手が止まる。
「全部は無理です」
「結衣のところだけ」
「…………」
数秒迷ってから、黒瀬が頷く。
「分かりました」
ノートを俺のほうへ回す。
「…………」
日付。
数字。
会社名。
地名。
矢印。
びっしり。
「何これ……」
「記録です」
「何年分?」
「かなり」
「かなりって」
「ここです」
黒瀬が一つのページを指さした。
俺は見る。
『星見事故後 約四か月』
心臓が跳ねる。
『駅ホーム』
『女子中学生 二名』
『対象:結衣』
『生存確認』
「…………」
生存確認。
その四文字を何度も読む。
『外傷確認できず』
『友人と会話』
『笑っている』
『制服』
そして。
『左手に――』
「…………」
その先だけ、黒く塗り潰されている。
「これ何?」
「…………」
「左手に、何?」
黒瀬がノートを見る。
「そこは、今は知らなくていい」
「いや」
「慎吾さん」
「結衣に関係あるんでしょ?」
「あります」
「じゃあ教えてください」
「まだ駄目です」
「何で?」
黒瀬はノートを閉じた。
「その情報を知れば、あなたの行動が変わるからです」
「当たり前でしょ」
「だからです」
「…………」
「未来を変えるために、情報が必要なこともあります」
「はい」
「でも逆に」
一拍。
「知らないことで辿り着ける未来もある」
「…………」
また、それだ。
「黒瀬さんを信用しろって?」
「しなくていいです」
「…………」
「むしろ」
黒瀬が少し笑う。
「信用しすぎないでください」
「何で?」
「私も間違えるので」
「教授は、一度も予測を外してないって言ってましたよ」
「先生から聞きました?」
「はい」
「あの人は」
黒瀬の笑みが少しだけ消えた。
「私が見せた成功しか知らない」
「…………」
その一言で、意味が変わった。
「失敗もある?」
「あります」
「どんな?」
「…………」
黒瀬は、少し遠くを見るような目をした。
「未来を知って」
「…………」
「変えようとして」
そこで止まる。
「……何?」
「もっと悪くしたこともあります」
「…………」
聞きたい。
何があった?
誰に?
どんな未来を?
でも、今までとは違う黒瀬の表情を見て、すぐには聞けなかった。
「だから」
黒瀬が俺を見る。
「慎吾さん」
「はい」
「一つだけ約束してください」
「何です?」
「今夜、家へ帰っても」
「…………」
「結衣さんの未来を、深く見ないでください」
「…………」
バレてる。
絶対やろうと思っていた。
「何で?」
「生きている未来があると知った今、あなたは今まで以上に知りたくなる」
図星。
「事故の場所」
図星。
「原因」
図星。
「星見」
図星。
「そして」
黒瀬が一拍置く。
「自分が十年後も生きているかどうか」
「…………」
全部。
見ようと思っていた。
「やめてください」
「頭痛があるから?」
「それもあります」
「他には?」
「…………」
「黒瀬さん」
すぐには答えない。
やがて、静かに口を開いた。
「未来は、見れば見るほどこちら側にも影響を与えます」
「こちら側?」
「今です」
「…………」
「未来を観測する」
黒瀬が指を一本立てる。
「その情報を知った現在の人間が行動する」
二本目。
「未来が変わる」
三本目。
「そして」
四本目。
「変わった未来を、また観測する」
「…………」
「それを知って、さらに行動が変わる」
「…………」
「繰り返せば」
黒瀬の声が少し低くなる。
「未来が不安定になります」
「…………」
「それが」
一拍。
「収束と関係していると、私は考えています」
「収束……」
「正体までは分かりません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「急がないことです」
「十年しかない」
「十年もあります」
「…………」
黒瀬が俺を見る。
「慎吾さん」
「はい」
「あなたは今日」
少しだけ笑う。
「十年後に結衣さんが生きている可能性を知った」
「…………」
「今日は」
黒瀬が言った。
「それだけ持って帰れば十分です」
「…………」
言い返したかった。
でも、言葉が出なかった。
十四歳の結衣。
制服。
友達。
駅。
笑っている。
確かに今日は、それだけで十分すぎる。
◇
午後九時過ぎ。
「ただいま」
「おかえり」
リビングで、美咲が振り返る。
「遅かったね」
「話長くなった」
「壺は?」
「買ってません」
「水は?」
「買ってません」
「土地」
「買ってません」
「合格」
「だから何の審査なん」
美咲が俺の顔をじっと見る。
「何?」
「いや」
「変な顔」
「そう?」
「うん」
「どんな?」
「嬉しそう」
「…………」
分かるのか。
「いい話あった?」
「まあ」
「儲かる?」
「違う」
「じゃあ何?」
「…………」
言えない。
でも。
「十年後」
「また十年後?」
俺はソファを見る。
結衣が眠っている。
「結衣、中学生か」
「そうやね」
「制服着て」
「うん」
「友達と電車とか乗るんかな」
「普通に乗るやろ」
「…………」
美咲が笑う。
「慎吾、泣くんやない?」
「何で」
「初めて一人で電車乗るだけで」
「泣かんよ」
「絶対泣く」
「泣きません」
「保育園の発表会で泣きそうになってたやん」
「なってません」
「なってた」
「…………」
結衣が寝返りを打つ。
「んー……」
腕にはゼロ。
十年後。
十四歳になったこの子が、友達と駅で笑っている未来がある。
「美咲」
「ん?」
「十年後もさ」
「うん」
さっき黒瀬に聞いたことは、今は考えない。
「三人でいような」
美咲が少し不思議そうな顔をした。
「何それ」
「いいから」
「急にどうしたん」
「いいから」
美咲が笑う。
「当たり前やん」
「…………」
当たり前。
その言葉が今日は、たまらなく嬉しかった。
◇
夜。
自分の部屋。
机の上には未来価格ノートと、結衣の絵。
「…………」
黒瀬は言った。
『今夜は深く見ないでください』
見る。
【10年後の価格:293,600,000円】
【未来改変率:0.14%】
変わっていない。
この未来では、結衣は死ぬ。
でも。
別の未来がある。
十四歳。
駅。
友達。
制服。
笑っている。
「…………」
知りたい。
事故の場所。
原因。
星見。
結衣の左手。
そして、俺が十年後に生きているのか。
意識を深く沈めれば、何か見えるかもしれない。
「今日は……」
絵から目を離す。
「やめとくか」
初めてだった。
見られる未来を、自分から見ないと決めた。
黒瀬を信用したわけじゃない。
あの男が何を隠しているのか、まだ分からない。
でも。
生きている結衣。
それだけは信じたい。
「待ってろよ」
十年後。
十四歳の結衣。
「絶対、会いに行くから」
未来価格ノートを閉じようとする。
そのとき。
「…………?」
一瞬。
何かが見えた。
「え?」
手を止める。
もう一度。
結衣の絵。
【10年後の価格:293,600,000円】
【未来改変率:0.14%】
いつもの表示。
「気のせい?」
いや。
文字だった。
ほんの一瞬。
確かに。
【観測抑制――】
「…………」
観測。
抑制?
続きが気になる。
意識を向ければ、たぶん見える。
「…………」
『今夜は深く見ないでください』
黒瀬の言葉。
俺は絵から目を逸らした。
表示が消える。
「今日はいい」
ノートを閉じる。
初めてだった。
能力が何かを見せようとしているのに、俺のほうから見ないと決めたのは。
「…………」
その瞬間。
頭の奥が、ほんの少しズキッと痛んだ。
「痛っ……」
未来を見ることと、未来を変えることは同じじゃない。
そして。
もしかすると。
未来を見ないことも、一つの選択なのかもしれない。
十四歳の結衣。
制服。
友達。
駅。
笑っている。
そこへ辿り着くために。
全部を今、知る必要はない。
「…………」
未来価格ノートを机の引き出しへ入れる。
今日はもう見ない。
それが。
俺が初めて選んだ。
未来を見ないという選択だった。




