第26話 二つの未来
午後六時五十二分。
俺は、前に黒瀬と会ったカフェの駐車場にいた。
「…………」
車から降りられない。
約束は午後七時。
あと八分ある。
別に遅刻するわけじゃない。
ただ。
行きたくない。
「いや……行くけどさ」
昨日、黒瀬から電話があった。
『あなたの娘さんが死ぬ未来について話しましょう』
あの言葉が、ずっと頭から離れない。
結衣が死ぬ未来。
それを知っているのは、俺だけのはずだった。
美咲にも言っていない。
高城にも。
教授にも。
誰にも話していない。
なのに。
黒瀬は知っている。
それだけじゃない。
俺の旧車。
【10年後の価格:36,000,000円】
その金額まで、一円違わず言い当てた。
「…………」
偶然。
もう。
そんな言葉では片づけられない。
スマホを見る。
午後六時五十四分。
「行くか」
俺はようやくドアを開けた。
◇
店に入ると、黒瀬はもう来ていた。
前と同じ。
店の奥の席。
テーブルにはコーヒーとスマホ。
そして。
小さな黒いノート。
「こんばんは」
「……どうも」
「早いですね」
「黒瀬さんのほうが早いでしょ」
「私は十分前に来ました」
「俺は六分前です」
「負けましたね」
「何の勝負ですか」
黒瀬が笑う。
相変わらず普通だ。
どこにでもいそうな。
少し仕事のできそうなおっちゃん。
でも。
今日はもう。
そう見えない。
「座ってください」
「はい」
向かいに座り、コーヒーを注文する。
店員が離れる。
沈黙。
「…………」
「…………」
黒瀬は何事もないようにコーヒーを飲んでいる。
「何です?」
「いや」
「聞きたいことがあるんでしょう?」
「山ほどあります」
「でしょうね」
「じゃあ、最初に一個」
「どうぞ」
俺は少しだけ身を乗り出した。
「黒瀬さん」
「はい」
「未来、見えてます?」
黒瀬が黙った。
「…………」
今日は逃がさない。
絶対に聞く。
「見えてます?」
もう一度聞くと。
黒瀬はゆっくりコーヒーカップを置いた。
「はい」
「…………」
「見えます」
あっさり。
本当に。
あっさり認めた。
予想はしていた。
いや。
ほとんど確信していた。
それでも。
本人の口から聞くと。
全然違う。
「本当に……?」
「はい」
「俺みたいに?」
「いいえ」
「…………」
違う?
「何が見えるんです?」
「その前に」
黒瀬が俺を見る。
「慎吾さん」
「はい」
「あなたは何が見えるんです?」
「…………」
「私は答えました」
「まだ『未来が見える』ってだけでしょ」
「では、一つずつ話しましょう」
「…………」
確かに。
俺だけ何も話さないままじゃ。
先には進まない。
「物です」
「物?」
「物を見ると、今の価格と……未来の価格が見えます」
こんなふうに。
自分の能力がどういうものなのかを。
誰かへまともに説明するのは。
初めてだった。
「未来価格」
「はい」
「十年後?」
「…………」
俺は黒瀬を見る。
「やっぱり」
「何が?」
「十年後なんですね」
「黒瀬さんは?」
「あとで話します」
「ずるいな」
「続けてください」
「…………」
仕方なく。
俺は話した。
基本的には十年後。
でも意識すれば。
一年後。
三年後。
五年後。
さらに細かい時期まで見られること。
「価格だけ?」
「最初は」
「今は?」
「価格が変わる理由も見えます」
「他には?」
「関連人物とか、関連事象とか」
黒瀬が静かに聞いている。
「あと、未来影響度」
そこで初めて。
黒瀬がわずかに目を細めた。
「影響度?」
「知らない?」
「それは初めて聞きました」
「…………」
黒瀬にも。
見えないものがある。
「未来改変率っていうのも出ました」
「それも?」
「はい」
黒瀬が少し考える。
そして。
「収束率は?」
「…………」
「何ですか、それ」
今度は。
黒瀬の表情が止まった。
「まだ出ていない?」
「未来改変率なら出ました。でも、収束率なんて知らない」
「…………」
黒瀬が小さく息を吐く。
「思ったより早い」
「何が?」
「未来改変率が表示されるのが」
「収束率って何なんです?」
「あとで説明します」
「また?」
「関連する話があります」
「…………」
腹立つ。
でも。
聞くしかない。
「その前に、大事なことがあります」
「はい」
「慎吾さん。未来を深く見ようとすると、頭が痛くなりませんか?」
「…………」
当たりだ。
「やっぱり」
「黒瀬さんも?」
「なります」
「…………」
同じ。
「どれくらい?」
「今は?」
「え?」
「あなたの頭痛です」
「……理由を見るくらいなら、少し」
「関連事象は?」
「結構きます」
「未来の詳細は?」
「かなり」
黒瀬が頷いた。
「なら、まだ軽い」
「まだ?」
「はい」
「どういう意味です?」
「昨日も言ったでしょう」
黒瀬は自分のこめかみを。
指で軽く叩いた。
「未来は無料じゃない」
「…………」
「見るだけで、代償を払います」
「頭痛?」
「最初は」
その言葉が。
引っかかった。
「その先は?」
「今は知らなくていい」
「いやいや、そこ一番気になるでしょ」
「慎吾さん」
「はい」
「知ることにも代償があります」
「…………」
「だから私は、必要なことしか話しません」
「それ、便利ですね」
「便利?」
「何でも『知らないほうがいい』で逃げられる」
「そうですね」
「否定しないんだ」
「でも」
黒瀬の笑顔が消えた。
「私は一度、知りすぎました」
「…………」
空気が。
変わった。
「その結果を知っているから言っています」
「……何があったんです?」
黒瀬は答えなかった。
聞きたい。
めちゃくちゃ聞きたい。
でも。
今日はそれだけじゃない。
「じゃあ」
俺は話を戻した。
「黒瀬さんには、何が見えるんです?」
「未来です」
「それじゃ分からない」
「そうですね」
黒瀬は少し考えてから。
テーブルの上にある俺のスマホを指さした。
「あなたは、そのスマホを見る」
「はい」
「そして、十年後の価値を見る」
「そうです」
「私は違う」
「どう違う?」
「例えば、あなたが今日、そのスマホを持って帰る」
「普通に持って帰りますけど」
「その未来です」
「…………」
「逆に、ここへ置いて帰る」
「置いて帰りません」
「例です」
「はい」
黒瀬が苦笑する。
「つまり、私は選択した先を見る」
「選択した先……?」
「正確には、可能性です」
「可能性?」
「この選択をしたら、その先で何が起きる可能性が高いのか。別の選択をしたら、何が起きるのか」
「…………」
俺は。
物の未来を見る。
黒瀬は。
選択の未来を見る。
「じゃあ、株が上がるのも?」
「買った先を見ます」
「土地は?」
「同じです」
「アステラも?」
「同じ」
「研究施設も?」
「同じです」
「…………」
何それ。
「黒瀬さん」
「はい」
「俺より便利じゃない?」
黒瀬が笑った。
「そうでもありません」
「いや、絶対そっちのほうがいいでしょ」
「私は価格が見えません」
「でも上がるか下がるか分かる」
「曖昧ですよ」
「時期まで当ててるじゃないですか」
「見えれば、です」
「見えれば?」
「全部の未来が見えるわけではありません」
黒瀬は指を組んだ。
「短い断片です。映像だったり、文字だったり、数字だったり。夢に近いこともあります」
「それであんなに当てる?」
「長くやっていますから」
「どれくらい?」
「…………」
黒瀬が黙る。
「そこは秘密?」
「今は」
「またそれ」
「すみません」
腹立つ。
でも。
一つ分かった。
黒瀬と俺は似ている。
同じ未来を覗いている。
ただし。
見え方が違う。
◇
「じゃあ、俺の車」
「旧車?」
「三千六百万円」
「はい」
「なんでピッタリ分かった?」
黒瀬が少し笑った。
「あれは、あなたを見たからです」
「俺?」
「正確には、あなたの選択です」
「…………」
「あなたはあの車を買った。そして、十年間保有するつもりだった」
「それで?」
「その先を見ました」
「何が見えた?」
「売却です」
黒瀬はあっさり言った。
「三千六百万円」
「…………」
「偶然じゃないんですか?」
「何が?」
「俺が見てる未来価格と、一円も違わなかった」
「でしょうね」
「でしょうね?」
黒瀬が俺を見る。
「同じ未来を見たんですから」
「…………」
同じ未来。
その言葉が。
妙に引っかかった。
「じゃあ」
俺は気づく。
「俺と黒瀬さんが同じ未来を見れば」
「結果は一致します」
「違う未来を見たら?」
黒瀬が黙った。
「…………」
これ。
大事なところだ。
「どうなるんです?」
「それが、観測者同士が接触する危険です」
「…………」
観測者。
やっぱり。
黒瀬も。
その言葉を使う。
「昨日、俺の能力に出ました」
「何と?」
「他の観測者との接触を検知」
黒瀬は一度目を閉じた。
「やはり」
「知ってた?」
「似た表示を見たことがあります」
「他にもいるんですか?」
「…………」
「黒瀬さん以外の観測者」
「今は――」
「それは答えてください」
思わず強い声が出た。
「俺と黒瀬さんだけ?」
黒瀬は少し考えたあと。
ゆっくり答えた。
「私が直接会った観測者は、あなたが初めてです」
「…………」
「他に存在するかどうかは分かりません」
「じゃあ、少なくとも二人」
「そうですね」
俺と黒瀬。
未来を見る人間が。
この世界に二人いる。
◇
コーヒーは。
すっかり冷めていた。
一口飲む。
味なんて。
ほとんど分からない。
「星見」
その言葉を出した瞬間。
黒瀬の表情が変わった。
「…………」
「知ってますよね」
「はい」
「何です?」
「今は言えません」
「またそれ?」
「慎吾さん」
「俺の娘に関係あるんでしょ?」
「…………」
「メールで言いましたよね。『特に娘さんの前では追わないほうがいい』って」
「はい」
「なんで?」
黒瀬は答えない。
「結衣が死ぬ未来」
初めて。
他人の前で。
その言葉を口にした。
喉の奥が。
痛くなる。
「知ってるんでしょ?」
「知っています」
「なんで?」
「見たからです」
「どんな事故?」
「…………」
「いつ?」
「…………」
「どこで?」
「…………」
「教えてください」
「できません」
「何で!」
思わず。
声が大きくなった。
近くの客が。
こちらを見る。
「…………」
俺は一度息を吐き。
声を落とした。
「娘なんです」
「分かっています」
「なら教えてください」
「だからです」
「…………」
黒瀬は。
まっすぐ俺を見る。
「慎吾さん。あなたは今、娘さんが十年後に死ぬと知っている」
「…………」
「だから行動している」
「そうです」
「では、事故が起きる正確な日時を知ったら?」
「防ぎます」
「場所を知ったら?」
「行かせない」
「原因を知ったら?」
「潰す」
「関係者を知ったら?」
「…………」
「どうします?」
「必要なら……近づけない」
「でしょうね」
「何が悪い?」
「それで別の事故が起きたら?」
「…………」
言葉が止まった。
「何?」
「未来は一つじゃありません」
「…………」
「一つの事故を防げば、その先の選択や人の動きが変わる。そこで別の可能性が強くなることがある」
「別の事故が起きるってこと?」
「起きるかもしれない」
「じゃあ、それも防ぐ」
「そうすれば、また未来が変わります」
「…………」
「さっき言った収束率」
「…………」
黒瀬が続ける。
「未来を大きく変えたとき、別々だった可能性が似た結果へ近づいていくことがあります」
「それが……収束?」
「そうです」
「何を基準にした数字なんです?」
「正確には、私にも分かりません」
「…………」
「ただ私は、何度か見ています」
「何を?」
「違う選択をしたはずなのに」
一拍。
「似た結果へ戻っていく未来を」
「…………」
背中が冷える。
「じゃあ」
俺は手を握った。
「何しても結衣は死ぬってこと?」
「違います」
即答だった。
「…………」
「それは違う」
「じゃあ何?」
黒瀬は。
しばらく黙っていた。
そして。
「慎吾さん」
「はい」
「あなたが今見ている未来では、娘さんは死にます」
「…………」
知ってる。
分かってる。
ずっと。
その未来を消すために。
動いてきた。
それでも。
他人の口から言われると。
胸の奥を。
直接えぐられる。
「約十年後。星見に関係する事故で、娘さんは亡くなる」
「……やめてください」
「ですが」
黒瀬は続けた。
「それは、あなたが見ている未来です」
「…………」
「どういう意味?」
黒瀬が俺を見る。
「私が見た未来は」
そこで。
言葉を止めた。
「…………」
「何?」
「違います」
「何が?」
「結衣さんです」
心臓が跳ねた。
「…………」
「結衣が……何?」
黒瀬は。
ゆっくり言った。
「生きています」
「…………」
音が。
消えた。
「え?」
「十年後」
「…………」
「事故の予定日を過ぎたあとも」
「待って」
思わず立ち上がりそうになった。
「待ってください」
「はい」
「今……何て言った?」
「結衣さんは」
黒瀬が。
もう一度言う。
「生きています」
「…………」
「私は、あなたの娘さんが生きている未来を見ています」
「…………」
そんな未来が。
ある?
俺の能力では。
ずっと。
【10年後の価格:293,600,000円】
結衣の死を示す未来は。
まだ消えていない。
研究へ金を出して。
未来改変率が0.14%になって。
ほんの少しだけ。
未来は動いた。
それでも。
俺が見ている未来では。
結衣は死ぬ。
「本当に……?」
「はい」
「結衣が?」
「はい」
「生きてる?」
「生きています」
「…………」
目の奥が。
熱くなった。
やばい。
泣く。
こんなところで。
でも。
そんなこと。
どうでもいい。
「どうやったら……」
声が震える。
「どうやったら、その未来になる?」
黒瀬は答えない。
「教えてください」
「…………」
「何をすればいい?」
「分かりません」
「…………」
今度は。
別の意味で。
頭が真っ白になった。
「は?」
「私にも分からないんです」
「見たんでしょ?」
「結果だけです」
「なら、その前を見れば」
「見えません」
「何で?」
黒瀬は。
テーブルの黒いノートに手を置いた。
「そこだけ、未来が途切れている」
「…………」
「事故の前後が?」
「はい」
「何度見ても?」
「何度見ても」
黒瀬の顔から。
完全に笑みが消えた。
「見えない」
「…………」
初めてだった。
黒瀬が未来について話しながら。
怖そうな顔をしたのは。
「ただ」
「何?」
「その先に」
黒瀬が言う。
「成長した結衣さんがいる」
「…………」
俺は。
何も言えなかった。
十年後。
十四歳になった結衣。
生きている。
俺が。
ずっと欲しかった未来。
それが。
ちゃんと存在する。
「慎吾さん」
「……はい」
「だから、あなたが見ている未来だけを正解だと思わないでください」
「…………」
「未来は」
黒瀬は。
まっすぐ俺を見た。
「一つじゃない」
その言葉を。
俺は初めて。
信じたいと思った。




