第2話 百四十八倍のクソ株
眠れなかった。
正確に言えば、二時間くらいは寝たと思う。
でも、寝た気がまったくしない。
朝六時。
目覚ましが鳴るより先に目が覚めた俺は、隣で眠る美咲を起こさないよう、そっと布団を抜け出した。
向かったのは、結衣の部屋だ。
「…………」
いる。
当たり前だけど。
ベッドの上で布団を蹴飛ばして、大の字になって寝ている。
昨日と何も変わらない。
四歳の娘だ。
俺は床に落ちた布団を拾い、結衣にかけ直した。
「んぅ……」
結衣が寝返りを打つ。
それだけで心臓が跳ねた。
「……びっくりさせんなよ」
何にびっくりしてるんだ、俺は。
まだ十年近く先の話だ。
そもそも、あの表示が本当だと決まったわけじゃない。
夢。
幻覚。
脳の病気。
そっちのほうがよっぽど現実的だ。
俺は机を見る。
そこには昨日、結衣が描いた家族三人の絵が置いてある。
見たくない。
でも、見なきゃいけない。
意識を向ける。
【現在価格:0円】
【10年後の価格:300,000,000円】
【価格上昇理由:作者死亡】
【死亡予定日まで:3,651日】
「…………」
一日。
減っていた。
「マジかよ」
昨日は三千六百五十二日。
今日は三千六百五十一日。
当然といえば当然なのかもしれない。
だが、その数字が一つ減っただけで、急に現実味が増した。
カウントダウン。
これはただの未来予測じゃない。
俺にはそう見えた。
「パパ……?」
「うおっ!」
突然、結衣が目を開けた。
「なにしてるの……?」
「いや、別に」
「おしっこ」
「はいはい、トイレ行こうな」
俺は結衣を抱き上げた。
寝ぼけた結衣が首に腕を回してくる。
温かい。
軽い。
こんな小さな子が。
十年後にはいなくなる?
ふざけるな。
絶対に認めない。
「パパ」
「ん?」
「くさい」
「朝一番に父親へ言うことじゃないぞ」
「おくち」
「限定すんな。余計傷つくわ」
とりあえず歯を磨こう。
◇
会社へ向かう途中。
昨日と同じコンビニに寄った。
同じ缶コーヒーを手に取る。
【現在価格:138円】
【10年後の価格:192円】
変わっていない。
別の商品を見る。
【現在価格:178円】
【10年後の価格:236円】
「高っ」
十年後の俺、コンビニで気軽に飲み物買えないんじゃないか。
いや。
そんなことを心配している場合じゃない。
俺は会社の駐車場に車を停めると、始業までの時間を使ってスマホを開いた。
証券アプリ。
昨日見つけた会社。
ネクサリンク・バイオ株式会社。
株価は――。
「百二十六円」
昨日と同じだ。
そして俺に見える数字も。
【現在価格:126円】
【10年後の価格:18,740円】
変わらない。
「百四十八倍……」
改めて見ると、とんでもない。
もし百万円分買えば、単純計算で十年後には一億円を軽く超える。
ただし。
俺には百万円をポンと突っ込めるほどの余裕はない。
家の金は家族の金だ。
住宅ローンもある。
これから結衣にも金がかかる。
何より。
もし、この能力が俺の妄想だったら?
「…………」
その可能性はまだある。
だから実験する。
俺は自分の小遣い用口座を確認した。
残高。
十二万八千四百三十一円。
「リアルだなぁ……」
四十一歳の夢と希望が詰まった数字である。
ここから十万円。
さすがに怖い。
でも一万円では、実験として物足りない。
「……五万?」
いや。
「十万……」
スマホを握る。
十万円。
なくなったら痛い。
めちゃくちゃ痛い。
だが、本当に未来価格が見えているなら。
この力を使いこなさなければならない。
結衣を救うために、何が必要になるか分からない。
治療費かもしれない。
引っ越しが必要になるかもしれない。
事故なら、その原因そのものを潰す必要があるかもしれない。
金があれば全部解決するなんて思っていない。
でも。
金があれば選択肢は増える。
「……よし」
買おう。
十万円分。
ネクサリンク・バイオ。
俺は注文画面を開いた。
指が止まる。
「いや待て待て」
本当に?
この会社だぞ?
もう一度、企業情報を見る。
赤字。
研究開発費増加。
業績悪化。
株価低迷。
良い情報が一個もない。
掲示板を開く。
『まだ持ってる奴いるの?』
『損切りした』
『50円まで行くだろ』
『社長は株主に謝れ』
「…………」
買いたくねぇ。
未来が見えてなかったら、絶対買わない。
むしろ売りたい。
持ってないけど。
だが表示は、
【10年後の価格:18,740円】
「……信じるぞ?」
誰に言っているのか分からない。
俺は購入ボタンを押した。
注文成立。
「買っちゃった……」
十万円。
人生初の個別株。
しかも、よりによって掲示板でボロクソに言われている会社。
「まあでも」
俺は少し笑った。
「十年後、一万八千円だからな」
百四十八倍。
勝った。
これは勝った。
能力が本物なら、俺の勝ちだ。
そう思った。
午前十時十二分。
トイレ休憩で株価を確認した。
百十九円。
「……ん?」
下がっている。
まあ、株だ。
上がったり下がったりする。
気にしない。
十時四十八分。
百十一円。
「…………」
昼休み。
百三円。
「おい」
俺が買ってから、ずっと下がってない?
いやいや。
十年後だ。
俺が見えているのは十年後。
今日の値動きじゃない。
こんなの誤差。
昼飯を食べながら、もう一度見る。
九十八円。
「百円割ったんだけど」
「何が?」
向かいに座っていた同僚が聞いてくる。
「いや、何でもない」
「株?」
「……まあ」
「株やってんの?」
「今日から」
「一番危ないやつじゃん」
「俺もそんな気がしてきた」
同僚が笑う。
俺は笑えない。
十万円が、目の前でどんどん減っている。
そして午後。
事件が起きた。
ネクサリンク・バイオ。
業績予想の下方修正。
「…………は?」
ニュースを開く。
難しいことが色々書いてある。
俺に分かったのは一つ。
会社の状況が、思っていたより悪い。
株価。
九十一円。
八十八円。
八十二円。
「おいおいおいおい」
仕事どころじゃない。
いや、仕事しろ。
でも気になる。
十五時。
終値。
七十三円。
「…………」
俺はスマホを見つめた。
百二十六円で買った株が。
七十三円。
たった一日で。
「四割くらい消えてない?」
正確な計算をする気にもならない。
俺の十万円。
まだ一日目だぞ。
せめて三日くらい夢を見させてくれよ。
掲示板を開く。
『逃げろ』
『明日もストップ安じゃね?』
『終わった』
『こんなの買った奴いる?』
「ここにいるよ!」
危うく会社で声を出すところだった。
スマホを伏せる。
深呼吸。
落ち着け。
俺には未来が見える。
もう一度、ネクサリンク・バイオを見る。
【現在価格:73円】
そこは変わっている。
そして。
【10年後の価格:18,740円】
「…………」
変わっていない。
一万八千七百四十円。
昨日から一円も変わっていない。
「どういうことだ?」
ここでようやく、俺は気づいた。
この能力。
十年後の値段は分かる。
でも。
そこへたどり着くまでの道筋は、何も教えてくれない。
明日五十円になるかもしれない。
一年後に十円になるかもしれない。
倒産寸前まで追い込まれて、そこから奇跡の復活をするのかもしれない。
あるいは。
十年間ずっと低迷して、最後の一年だけ爆発的に上がるのかもしれない。
「……それ、めちゃくちゃ怖い能力じゃん」
未来が見える。
だから安心。
そんな単純な話ではなかった。
十年間。
途中で何が起きても、持ち続けられるのか?
百万円入れて九割減っても?
家族に反対されても?
会社が倒産寸前になっても?
俺は十年後の数字だけを信じられるのか?
「無理かも……」
初日から心が折れかけている。
◇
帰宅すると、結衣が走ってきた。
「パパー!」
「ただいまー」
「きょうね!」
「うん」
「ブロッコリーたべた!」
「おお、偉いやん」
「いっこ!」
「少なっ」
結衣を抱き上げる。
今日だけで四万円以上吹き飛んだことなんて、どうでもよくなった。
いや。
どうでもよくはない。
四万円は痛い。
かなり痛い。
でも。
俺が金を増やしたい理由は、この子だ。
「パパ?」
「ん?」
「ぎゅーしすぎ」
「あ、ごめん」
「くるしい」
「すみません」
結衣を下ろす。
リビングでは美咲が夕飯の準備をしていた。
「今日なんかあった?」
「なんで?」
「顔死んでるよ」
「……四万円くらい死んだ」
「は?」
「何でもないです」
まだ言えない。
というか、言ったら怒られる。
夕飯。
風呂。
今日も絵本三冊。
結衣が眠ったあと。
俺は昨日の絵を見る。
【現在価格:0円】
【10年後の価格:300,000,000円】
【価格上昇理由:作者死亡】
【死亡予定日まで:3,651日】
変化なし。
「…………」
株で四万円以上失った。
でも。
こっちは三億円のまま。
俺はしばらく絵を見つめた。
「分かったよ」
この能力について。
俺は何も知らない。
未来価格が見える。
分かっているのは、それだけだ。
だったら。
「調べるしかないな」
何が見えるのか。
何が見えないのか。
どんな条件で数字が変わるのか。
そして――。
未来そのものを変えることはできるのか。
俺はノートを一冊取り出した。
一ページ目。
大きく書く。
『未来価格ノート』
その下。
ネクサリンク・バイオ。
購入価格――126円。
現在価格――73円。
10年後――18,740円。
そして備考欄。
少し考えてから書いた。
『買った初日に暴落。クソ株。』
「……よし」
まずは実験だ。
株だけじゃない。
時計。
車。
土地。
家電。
骨董品。
この世には、値段がついている物が山ほどある。
その全部の十年後が見えるのなら。
どこかに必ずあるはずだ。
十年待たなくても使える。
この能力の、本当の使い道が。
俺はノートを閉じた。
そして翌日。
その答えは――。
たった八百円で売られていた。




