第1話 十年後、三億円
それが見えるようになったのは、四十一歳の誕生日だった。
朝七時十二分。
俺――神崎慎吾は、いつものコンビニで百三十八円の缶コーヒーを手に取った。
その瞬間だった。
「……ん?」
缶の上に、半透明の文字が浮かんでいた。
【現在価格:138円】
【10年後の価格:192円】
「…………」
目をこする。
もう一度見る。
【現在価格:138円】
【10年後の価格:192円】
「値上がりしすぎだろ」
最初に出た感想がそれだった。
もっと驚けよ、俺。
空中に文字が浮かんでるんだぞ。
だが四十一歳にもなると、不思議現象より十年後に缶コーヒーが二百円近くすることのほうが怖かった。
「お客様?」
「あ、すみません」
レジ前で缶を凝視していたせいで、店員から怪訝な顔をされる。
俺は缶コーヒーをレジに置いた。
「百三十八円です」
「……ですよね」
「はい?」
「いや、何でもないです」
当たり前だ。
十年後の値段で請求されたら困る。
俺はコーヒーを持って会社へ向かった。
この時点ではまだ、寝不足か何かだと思っていた。
昨日は娘がなかなか寝なかった。
四歳の結衣は最近、寝る前に絵本を三冊読むという謎ルールを作っている。
一冊で終わろうとすると、
『まだ二個あるよ?』
と真顔で言ってくる。
誰が決めたんだ、その契約。
しかも最後の一冊を読み終わっても、
『もう一回』
とか言い出す。
実質、無限契約である。
だから疲れている。
空中に値段が見えるくらい、まあある。
……いや、ないな。
そんなことを考えながら、会社の駐車場に車を停めた。
隣には後輩のミニバン。
何気なく見る。
【現在価格:1,850,000円】
【10年後の価格:320,000円】
「……マジか」
今度は車に出た。
視線を移す。
会社の自動販売機。
【現在価格:1,200,000円】
【10年後の価格:180,000円】
古びたフォークリフト。
【現在価格:430,000円】
【10年後の価格:110,000円】
駐車場の端に置かれたパレット。
【現在価格:2,800円】
【10年後の価格:0円】
「全部見えるじゃん……」
どうやら缶コーヒー限定の能力ではないらしい。
いや、缶コーヒー限定能力だったら何に使うんだって話だが。
俺は恐る恐る自分のスマホを見る。
【現在価格:96,000円】
【10年後の価格:0円】
「俺のスマホ死ぬんか」
まあ十年後なら当然か。
少しだけ安心した。
午前中。
仕事をしながら、俺はずっと能力のことを考えていた。
パソコン。
机。
工具。
コピー機。
会社中の物に値段が見える。
面白くなってきた俺は、昼休みになると駐車場へ逃げるように向かった。
車の中。
スマホを取り出す。
「……これ、株でも見えるんかな」
証券アプリを開いた。
普段、株なんてほとんど触らない。
積立投資の記事を読むくらいで、個別株なんて怖くて買ったこともない。
適当に有名企業を表示する。
株価、四千八百二十円。
そこへ意識を向ける。
【現在価格:4,820円】
【10年後の価格:6,110円】
「出た」
心臓が跳ねた。
次。
【現在価格:2,140円】
【10年後の価格:1,870円】
「下がるんかい」
次。
【現在価格:780円】
【10年後の価格:3,920円】
「……五倍?」
俺は姿勢を正した。
ちょっと待て。
これ、ヤバくないか?
物の未来価格が分かるだけでも十分おかしい。
だが株の未来価格が分かるとなると、話が変わってくる。
十年後に上がる会社だけ買えばいい。
いや。
上がるなんてもんじゃない。
十倍、百倍になる会社を見つけられたら――。
「…………」
俺は検索条件を変えた。
時価総額の小さい会社。
上場したばかりの会社。
名前も聞いたことがない企業。
一社。
二社。
三社。
十社。
二十社。
ほとんどは二倍にもならない。
むしろ下がる企業も多い。
「そんな簡単じゃないか」
少し冷静になる。
そして四十七社目。
指が止まった。
「……は?」
画面に表示されている企業名。
ネクサリンク・バイオ株式会社。
現在株価、百二十六円。
聞いたこともない会社だった。
企業情報を開く。
赤字。
業績悪化。
将来性不透明。
ニュースもほとんどない。
掲示板を見る。
『もう終わりだろ』
『上場廃止あるぞ』
『社長仕事しろ』
『損切りしました』
散々だった。
だが。
俺に見えている数字は違った。
【現在価格:126円】
【10年後の価格:18,740円】
「…………」
俺は計算機を開いた。
十八万七千四百円ではない。
一株一万八千七百四十円。
今は百二十六円。
「百四十八倍……?」
百万円なら。
十年後――約一億四千八百万円。
五百万円なら。
約七億四千万円。
千万円なら。
「十四億……?」
自分で言って、自分で怖くなった。
そんな馬鹿な話があるか。
俺は普通の会社員だ。
四十一年間生きてきて、特殊能力なんて一度もなかった。
宝くじで一等を当てたこともない。
競馬で万馬券を当てたことすらない。
道端に札束が落ちていたことだってない。
それなのに突然、
十年後の値段が見える?
「……いやいやいや」
俺はスマホを伏せた。
仕事へ戻ろう。
今日は疲れている。
家に帰って寝れば治る。
そう思った。
その日の夜。
「パパー!」
玄関を開けると、結衣が走ってきた。
「おかえりー!」
「ただいま」
小さな体が飛びついてくる。
俺は結衣を抱き上げた。
「今日ね、おえかきした!」
「お、何描いた?」
「ひみつ!」
「言ったら秘密じゃないもんな」
「うん!」
妻の美咲がキッチンから顔を出す。
「おかえり」
「ただいま」
「ご飯もうできるよ」
「了解」
いつもの夜だった。
三人で夕飯を食べる。
結衣がニンジンを残そうとして美咲に怒られる。
俺がこっそり食べようとして、今度は俺まで怒られる。
風呂に入り。
結衣の髪を乾かし。
例の三冊契約の絵本を読み。
「パパもう一回」
「契約違反です」
「けいやく?」
「何でもありません」
やっと寝かしつけた頃には、十時を過ぎていた。
結衣はぬいぐるみを抱いたまま眠っている。
俺はベッドの横に腰掛けた。
ふと、昼間のことを思い出す。
人間には値段が見えるんだろうか。
嫌な発想だった。
俺は美咲を見る。
何も表示されない。
結衣を見る。
何も表示されない。
「……そりゃそうか」
なぜかホッとした。
人間に値札なんて付いていたら、さすがに気分が悪い。
視線を横へ移す。
結衣が抱いているウサギのぬいぐるみ。
去年、フリーマーケットで買ったものだ。
【現在価格:500円】
【10年後の価格:3,000円】
「お前、出世するんだな」
小声で笑う。
机。
【現在価格:12,800円】
【10年後の価格:1,500円】
絵本。
【現在価格:1,320円】
【10年後の価格:240円】
美咲のバッグ。
【現在価格:68,000円】
【10年後の価格:41,000円】
そして。
「……ん?」
机の上。
一枚の画用紙が置いてあった。
結衣が今日、保育園で描いてきたらしい。
クレヨンで描かれた家族三人の絵。
真ん中に結衣。
右に美咲。
左に俺。
俺の顔だけ妙に大きい。
「パパ、こんな顔でかいか?」
笑いながら絵を見る。
その瞬間。
文字が浮かんだ。
【現在価格:0円】
「……え?」
初めてだった。
現在は一円の価値もない物に、十年後の価格が表示された。
そして。
その下。
【10年後の価格:300,000,000円】
「…………三億?」
声が漏れた。
娘の絵が?
十年後に?
三億円?
意味が分からない。
有名画家になる?
十年後、結衣は十四歳だ。
十四歳の絵が三億?
あり得ない。
「なんでだ……?」
十四歳の子供が描いた絵に、どうして三億円もの価値がつく?
理由を知りたい。
そう強く思った瞬間だった。
表示が揺れた。
ザザッ、とテレビのノイズのように文字が乱れる。
そして。
今まで一度も見たことのない項目が現れた。
【価格上昇理由:作者死亡】
「……え?」
俺の口から、情けない声が出た。
結衣を見る。
すやすや眠っている。
もう一度、絵を見る。
【10年後の価格:300,000,000円】
【価格上昇理由:作者死亡】
「……待てよ」
手が震えた。
「何だよ、それ」
表示は消えない。
そして最後に。
もう一行。
【死亡予定日まで:3,652日】
俺は息をするのを忘れた。
三千六百五十二日。
ほぼ十年。
十四歳。
俺の娘が。
死ぬ?
「……ふざけんな」
声が震えた。
昼間まで。
俺はこの能力で金持ちになれると思っていた。
住宅ローンも。
教育費も。
老後も。
全部どうにかなる。
夢みたいな力だと思った。
でも。
そんなことはもうどうでもよかった。
俺は眠っている結衣の手を握った。
小さい。
温かい。
生きている。
「絶対に変えてやる」
返事はない。
当たり前だ。
結衣は眠っている。
それでも俺は言った。
「三億円なんかに、させるかよ」
もし未来に値段がついているのなら。
その未来が本当に待っているのなら。
俺がやることは一つだ。
金でも。
能力でも。
何でも使う。
十年後。
この絵を三億円の価値がある遺品になんて、絶対にさせない。
こうして。
俺の十年間が始まった。




