第14話 三百万円の衝動買い
「詳しく、聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
店員が嬉しそうに頷いた。
目の前にあるのは、二十年以上前に製造された古いスポーツカー。
販売価格、二百九十八万円。
【現在価格:3,100,000円】
【10年後の価格:36,000,000円】
三千六百万円。
何度見ても変わらない。
土地を逃したときとは違う。
今の俺の軍資金は約五百二十万円。
買える。
現金で。
ただし、買った瞬間に資金の半分以上が消える。
「こちら、年式の割にはかなり状態がいいんですよ」
「走行距離は?」
「七万八千キロです」
「結構走ってますね」
「この年式なら少ないほうですよ」
「事故歴は?」
「修復歴はありません」
店員の説明を聞きながら、改めて車を見る。
低い車体に、今の車とは違う角の残ったデザイン。大きすぎないボディも、昔のスポーツカーらしくて妙に格好いい。
「これ、マニュアルですか?」
「はい。五速です」
「うわぁ……」
ちょっと欲しい。
いや。
かなり欲しい。
若い頃だったら、絶対にテンションが上がっていた。
今は四十一歳。
妻がいて。
四歳の娘がいる。
普段使いを考えれば、こんな車よりミニバンのほうが百倍便利だ。
でも。
「運転席、座ってみます?」
「いいんですか?」
「どうぞ」
ドアを開ける。
低い。
「よっ……」
腰を落としてシートへ座った。
「…………」
狭い。
古い。
内装も今の車とは比べものにならない。
大きなディスプレイもないし、便利そうな電子装備もほとんどない。物理ボタンとメーター、それにシフトレバー。
「いいな……」
なんだこれ。
めちゃくちゃいい。
「エンジンかけます?」
「いいんですか?」
「もちろん」
鍵を渡される。
鍵。
そう。
ボタンじゃない。
キーシリンダーに差し込み、クラッチを踏んで回す。
エンジンが目を覚ました。
「おお……」
思わず声が出る。
最近の車とは違う。
静かでもない。
振動もある。
でも。
なんというか。
生きてる感じがする。
「試乗もできますよ」
「…………」
罠だ。
これは罠。
乗ったら終わる。
俺は投資として見に来ただけ。
二百九十八万円。
十年後、三千六百万円。
それだけ確認できればいい。
「乗ります」
負けた。
◇
十分後。
「うわ、楽しい!」
完全に負けていた。
クラッチ。
シフト。
アクセル。
エンジン音。
最近の車ほど速くない。
快適でもない。
でも、自分で動かしている感じがする。
「こんな楽しかったっけ……」
若い頃。
車が欲しかった。
スポーツカーに憧れた。
でも金がなかった。
それから結婚して。
家を買って。
子供が生まれて。
生活が中心になった。
いつの間にか、車は移動するための物になっていた。
「…………」
信号待ち。
俺はハンドルに手を置いたまま、車の未来価格を見る。
【現在価格:3,100,000円】
【10年後の価格:36,000,000円】
投資。
そう。
これは投資だ。
「……投資だから」
誰に言い訳しているんだ、俺は。
◇
店へ戻った。
「どうでした?」
「楽しかったです」
「ですよね」
店員が笑う。
「この年代の車は、今の車とは全然違いますから」
「そうですね」
「ちなみに、かなりお問い合わせも多いです」
「…………」
その言葉。
最近嫌い。
「何件くらい?」
「今週だけで三件ですね」
「またかよ……」
「え?」
「いや、何でもないです」
土地。
一年以上売れなかったのに、俺が見つけた直後に別の購入希望者が現れた。
今度は車。
未来価格三千六百万円。
問い合わせ三件。
「今日決めないとなくなります?」
「そこまでは何とも言えませんが、旧車は一点物ですからね」
分かってる。
同じ年式。
同じ仕様。
同じ状態。
まったく同じ個体はない。
「…………」
二百九十八万円。
俺の軍資金は約五百二十万円。
買えば残りは二百二十万円ほど。
買える。
でも。
俺が決めた短期売買枠。
長期投資枠。
現金。
全部のバランスが崩れる。
「今日決めなくてもいいですか?」
「もちろんですよ」
「ちょっと家族に相談します」
「ぜひ」
家族。
というか。
美咲。
最大の難関である。
◇
「車?」
「はい」
「買うん?」
「相談です」
「いくら?」
「二百九十八万円」
「却下」
「早い!」
夕食。
開始三秒。
終了。
「ちょっと聞いてよ」
「聞いてるよ」
「まだ何も説明してない」
「三百万の車買いたいって話やろ?」
「だいたいそう」
「車あるやん」
「あります」
「壊れた?」
「元気です」
「じゃあいらんやん」
「…………」
強い。
正論という名の暴力。
「でも」
「うん」
「十年後」
危ない。
言いそうになる。
「十年後?」
「……価値が上がると思う」
「また?」
「またです」
「どれくらい?」
「…………」
言う?
いや。
どうせ信じない。
「結構」
「結構って?」
「一千万以上」
「ほんとに?」
「たぶん」
「また『たぶん』」
「でも、かなり自信ある」
美咲はしばらく俺を見る。
「今、いくらあるん?」
「五百二十万くらい」
「そのうち三百万使うん?」
「はい」
「半分以上やん」
「はい」
「この前、全部使わんって言ってなかった?」
「…………」
覚えてた。
「言いました」
「じゃあダメやん」
「でも今回は」
「慎吾」
「はい」
「土地のとき、何て言った?」
「…………」
俺は黙る。
未来価格ノート。
自分で決めたルール。
全額突っ込まない。
家族に迷惑をかけない。
「……今回は借金しない」
「そういう問題?」
「現金で買える」
「買ったら二百万しか残らんやん」
「二百万も残る」
「『も』になってるよ」
「…………」
確かに。
数か月前の俺なら、二百万円を「しか」なんて絶対に言わなかった。
「慎吾」
「ん?」
「その車」
美咲が聞く。
「欲しいん?」
「…………」
答えが。
すぐには出なかった。
「投資とかじゃなくて」
「…………」
俺は試乗したときのことを思い出した。
エンジン。
シフト。
ハンドル。
楽しかった。
「……欲しい」
正直に言った。
「ふーん」
「何?」
「いや」
美咲が笑った。
「最初からそう言えばいいやん」
「え?」
「最近、何でも投資とか値段とか言うやん」
「…………」
「欲しいなら欲しいでいいやん」
「買っていいの?」
「そこまでは言ってない」
「ですよね」
期待した俺が馬鹿だった。
◇
食後。
美咲が聞いてきた。
「維持費は?」
「…………」
考えてなかった。
「税金」
「はい」
「保険」
「はい」
「車検」
「はい」
「駐車場は?」
「家に置ける」
「修理は?」
「古いから……かかるかも」
「それ調べてからやない?」
「おっしゃる通りです」
未来価格しか見ていなかった。
三千六百万円。
その数字が大きすぎて、所有するために金がかかることを忘れていた。
「あと」
美咲が続ける。
「結衣乗れるん?」
「…………」
最大の問題が来た。
◇
調べた。
後部座席はある。
チャイルドシートも、条件次第では取り付けられる。
でも。
「狭っ」
写真を見る。
家族三人で普段使いする車ではない。
結衣。
荷物。
買い物。
旅行。
どう考えても不便。
「完全に俺の趣味車だな……」
つまり。
今の車を残して。
二台持ち。
保険。
税金。
車検。
整備。
「金食うなぁ」
未来価格三千六百万円。
でも。
その未来価格になるまで十年間。
維持する必要がある。
年間二十万円かかれば。
二百万円。
大きな修理が入れば。
もっと。
「それでも利益はでかいけど……」
俺は未来価格ノートへ書いた。
購入価格。
298万円。
10年後。
3600万円。
維持費。
推定200~300万円以上。
「…………」
それでも。
欲しい。
投資としても。
車としても。
◇
翌日。
仕事。
昼休み。
スマホ。
中古車店のページ。
「まだある」
掲載中。
夕方。
「まだある」
翌朝。
「まだある」
気になりすぎる。
仕事にならない。
「もう買えよ俺……」
いや。
待て。
ルール。
資金管理。
家族。
全部大事。
そこで。
俺は考えた。
「……値切ればいいんじゃね?」
販売価格。
二百九十八万円。
もし。
二百七十万円。
いや。
二百五十万円。
そこまで下がれば。
少し楽になる。
「聞くだけ聞くか」
◇
仕事帰り。
中古車店。
「いらっしゃいませ」
昨日の店員。
「あの車、まだあります?」
「ありますよ」
「ちょっと相談なんですけど」
「はい」
「値段……下がりません?」
店員が笑う。
「やっぱり欲しくなりました?」
「……はい」
「ですよね」
バレてる。
「いくらくらいをご希望です?」
「二百五十万」
「それは厳しいですね」
「ですよね」
「ただ」
店員が少し考える。
「車両価格二百八十万円でしたら、店長に相談できます」
「二百八十……」
十八万円。
下がる。
「諸費用込みだと?」
「少々お待ちください」
店員が計算する。
「整備と登録を含めて、三百万円弱ですね」
「結局三百万!」
思わず言ってしまった。
店員が笑う。
「車はどうしても諸費用がありますから」
「ですよね……」
甘くない。
◇
そのとき。
店の入口から男性が入ってきた。
三十代くらい。
「すみません」
「はい」
「あの車見に来たんですけど」
指差す。
俺の。
いや。
まだ俺のじゃない。
例のスポーツカー。
「…………」
また?
店員が俺を見る。
俺も店員を見る。
「こちらのお客様も、あのお車をご検討中でして」
「そうなんですか」
男性が車を見る。
「ネットで見て。今日時間できたんで」
車へ近づく。
ボディを見る。
運転席を見る。
かなり真剣だ。
「…………」
土地を思い出す。
迷った。
買わなかった。
翌日。
現金購入。
そして。
俺の手から消えた。
「…………」
未来は。
待ってくれない。
また。
同じことになる?
「店員さん」
「はい」
俺は車を見る。
販売価格。
二百九十八万円。
【現在価格:3,100,000円】
【10年後の価格:36,000,000円】
そして。
思った。
違う。
土地とは。
これは。
未来価格がゼロになっても。
少なくとも。
俺は。
この車が欲しい。
「買います」
「え?」
「これ」
俺は車を指差した。
「買います」
言った。
言ってしまった。
三百万円。
家ほどではない。
でも。
人生最大級の衝動買い。
「ありがとうございます!」
店員の顔が明るくなる。
もう一人の男性が車を見ながら言う。
「あ、決まっちゃいました?」
「すみません」
なぜか俺が謝る。
「いやー、早かったな」
男性は残念そうに笑った。
その顔を見て。
俺は。
少しだけ。
優越感を感じた。
すみません。
◇
申込書。
名前。
住所。
電話番号。
書いていく。
手が少し震える。
「……三百万」
書いている途中で。
怖くなる。
でも。
もう。
戻らない。
「納車まで二週間ほどですね」
「分かりました」
「楽しみにしていてください」
「はい」
楽しみ。
普通に。
めちゃくちゃ楽しみ。
店を出る。
スマホを取り出す。
美咲。
「…………」
電話。
「もしもし?」
『ん?』
「買いました」
沈黙。
『……何を?』
「車」
沈黙。
『あの三百万の?』
「はい」
沈黙。
「もしもし?」
『慎吾』
「はい」
『相談って知ってる?』
「…………」
知ってます。
◇
二週間後。
「来た……」
家の前。
積載車。
その上には。
あのスポーツカー。
「うわぁ……」
テンションが上がる。
四十一歳。
普通に。
子供みたいに。
テンションが上がる。
「パパ!」
結衣が出てくる。
「これ!?」
「そう!」
「ちっちゃ!」
「第一声それ?」
美咲も出てくる。
「ほんとに買ったんやね……」
「買いました」
「三百万」
「言わないで」
「三百万」
「二回言うな」
車が積載車から降ろされる。
俺の車。
鍵を受け取る。
「…………」
嬉しい。
未来価格とか。
投資とか。
全部抜きで。
嬉しい。
「パパ、のる!」
「乗る?」
「うん!」
「じゃあ後でチャイルドシートつけよう」
「やったー!」
結衣が車の周りを走る。
美咲は呆れた顔。
でも。
少し笑っている。
「大事にしなよ」
「もちろん」
俺はボンネットに手を置いた。
【現在価格:3,100,000円】
【10年後の価格:36,000,000円】
変わらない。
「十年か」
十年後。
俺は五十一歳。
美咲は五十歳。
結衣は十四歳。
「…………」
胸が。
少し痛くなる。
この車が三千六百万円になる頃。
今見えている未来なら。
結衣は。
いない。
「…………」
俺は車を見る。
決めた。
「お前もだからな」
「慎吾?」
「ん?」
「何?」
「いや」
俺は笑った。
「十年後も、三人で乗ろうと思って」
「結衣十四歳やろ?」
「うん」
「絶対この車嫌がるよ」
「なんで!?」
「狭いもん」
「そこ!?」
結衣は意味も分からず笑っている。
俺も笑った。
未来価格。
三千六百万円。
そんなもの。
どうでもいい。
十年後。
この車を売るか。
売らないか。
それを家族三人で悩めればいい。
俺が欲しい未来は。
それだけだった。
◇
その夜。
未来価格ノート。
新しいページ。
旧車。
購入総額。
約三百万円。
十年後。
三千六百万円。
そして。
その下。
俺は書いた。
『十年後、結衣と一緒に売るか決める』
「よし」
少し。
金儲けから外れた気がする。
でも。
悪くない。
むしろ。
こういう金の使い方もありだと思った。
俺はノートを閉じようとした。
そのとき。
「…………ん?」
机の上。
車の売買契約書。
何気なく見る。
【現在価格:0円】
まあ。
契約書自体に価値なんてない。
そう思って視線を外しかけた。
でも。
その下に。
もう一行。
表示された。
【10年後の価格:12,000,000円】
「…………は?」
俺は契約書を見る。
紙。
ただの。
中古車の売買契約書。
「なんで?」
車じゃない。
契約書。
それが。
十年後。
一千二百万円。
「意味分からん……」
俺は契約書を見つめる。
強く。
理由を知りたいと思う。
頭の奥が。
ズキッと痛んだ。
【価格上昇理由:契約者――】
「契約者?」
もう一度。
集中する。
【価格上昇理由:契約者の――】
頭痛。
「っ……」
文字が揺れる。
【価格上昇理由:契約者の社会的――】
「社会的……?」
さらに。
ほんの一瞬。
表示が形になった。
【価格上昇理由:契約者の社会的知名度】
「…………」
俺は。
固まった。
契約者。
この売買契約書に名前を書いた人間。
「……俺?」
十年後。
ただの会社員である俺が契約した中古車の書類。
それが。
一千二百万円。
理由。
俺の社会的知名度。
「…………」
嫌な予感がした。
いや。
待て。
有名になる。
それだけなら。
悪い未来とは限らない。
金持ち。
起業家。
投資家。
何かで成功する。
そういう未来かもしれない。
「もっと……」
俺は契約書を見る。
「理由」
集中する。
頭痛が強くなる。
表示が揺れた。
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「誰?」
ノイズ。
文字が。
現れて。
消える。
「見せろ……」
ズキッ。
「っ……!」
それでも。
目を逸らさない。
そして。
一瞬。
名前が出た。
【関連人物:結衣】
「…………」
俺の笑顔が。
消えた。
また。
結衣。
十年後。
俺が有名になる理由。
そこにも。
娘が。
関係している。




