第13話 未来は、待ってくれない
『どうされますか?』
電話の向こうから、東和不動産の担当者が聞いてくる。
俺は答えられなかった。
八百万円の土地。
現在価格、七百六十万円。
十年後、一億八千四百万円。
そして。
売主が検討している価格は。
六百八十万円。
買えば。
ほぼ確実に大きな利益になる。
少なくとも。
今までの未来価格が正しいなら。
でも。
俺の軍資金は三百七十八万円。
足りない。
「……その人、もう現地に向かってるんですよね?」
『はい。三十分ほどで到着予定です』
三十分。
「もし、その人が申し込んだら?」
『売主様が条件を了承されれば、そのまま契約に向けて進む可能性はあります』
「俺が今、買いますって言ったら?」
『購入申込書をご提出いただくことはできます。ただ……』
「ただ?」
『融資をご利用予定ですよね?』
「はい」
『でしたら、資金計画についても確認が必要です。現金購入のお客様など、条件によっては必ずしも申し込み順とは限りません』
「…………」
当然だ。
俺が、
『買います!』
と叫べば、それだけで土地を確保できるような話じゃない。
不動産。
六百八十万円。
今まで買ってきた中古品とは違う。
『どうされますか?』
「……少しだけ時間ください」
『分かりました。ただ、先方のお客様もいらっしゃいますので』
「はい」
電話を切った。
時計を見る。
三十分。
「どうする……」
◇
未来価格ノートを開く。
現在資金。
三百七十八万円。
土地。
交渉価格。
六百八十万円。
差額。
三百二万円。
「借りれば……」
買える。
可能性はある。
俺は会社員だ。
収入もある。
住宅ローンとは別になるが、融資の相談自体はできると担当者も言っていた。
自己資金を二百万円入れる。
残り。
四百八十万円。
それくらいなら。
「…………」
ダメだ。
金額だけの問題じゃない。
俺は未来価格ノートの前のページを開いた。
自分で決めたルール。
『家計には手を出さない』
『未来価格だけを信用して全額突っ込まない』
『家族に迷惑をかけない』
「借金は……」
俺一人の問題じゃない。
結婚して。
家があって。
妻がいて。
娘がいる。
自分だけで勝手に数百万円の借金を作る。
それは。
違う。
「でも、一億八千万……」
惜しい。
めちゃくちゃ惜しい。
未来価格を知らなければ。
こんなに悩まない。
知らないほうが幸せだったんじゃないかと思うくらい。
「くそ……」
スマホを見る。
あと二十五分。
そのとき。
「慎吾?」
振り返る。
美咲が立っていた。
「何してるん?」
「……ちょっと」
「また土地?」
「うん」
美咲が俺の顔を見る。
「何かあった?」
「他にも買いたい人がいるらしい」
「へえ」
「今から見に行くって」
「じゃあ買われるかもしれんね」
「うん」
「なら仕方ないやん」
「…………」
簡単に言う。
でも。
美咲には未来価格が見えない。
あれが一億八千四百万円になるなんて知らない。
「もしさ」
「ん?」
「絶対値上がりするって分かってたら、どうする?」
「土地が?」
「うん」
「どれくらい?」
「六百八十万が……一億八千万くらい」
美咲が笑った。
「絶対ないやろ」
「例えばの話」
「十年後?」
「そう」
「だったら買えば?」
「金が足りん」
「じゃあ買えんやん」
「だから借りる」
美咲の表情が変わった。
「いくら?」
「四百八十万くらい」
「…………」
ほら。
これだ。
四百八十万円。
口にした瞬間。
現実になる。
「慎吾」
「うん」
「それ、本当に大丈夫なん?」
「…………」
「絶対上がるって、なんで分かるん?」
答えられない。
「勘?」
「……まあ」
「四百八十万借りるのに?」
「…………」
何も言えなかった。
美咲は少し考えてから言った。
「私ならやめる」
「だよな」
「だって、今三百何十万まで増えたんやろ?」
「三百七十八万」
「だったら、また増やせばいいやん」
「…………」
「六百八十万になってから、六百八十万の物買えばいいやん」
俺は美咲を見る。
「でも、その頃にはあの土地ないよ」
「じゃあ別の探せば?」
「…………」
また。
普通の答え。
でも。
たぶん。
正しい。
「それしかない土地なん?」
美咲が聞く。
「え?」
「その土地じゃないとダメなん?」
「…………」
俺は答えられなかった。
十年後。
一億八千四百万円。
その数字に。
俺は捕まっていた。
高くなる。
だから欲しい。
それだけ。
「……いや」
俺は首を振った。
「別に、あの土地じゃないとダメなわけじゃない」
「ならいいやん」
「でも一億八千万……」
「まだ言ってる」
「惜しいんだよ!」
美咲が笑った。
◇
残り十五分。
俺は東和不動産へ電話した。
『はい』
「さっきの土地の件です」
『はい。どうされますか?』
俺は一度。
目を閉じた。
「今回は……やめます」
言った。
言ってしまった。
『よろしいですか?』
「はい」
『承知しました。もし先方のお客様のお話がまとまらなかった場合は、ご連絡しましょうか?』
「……お願いします」
『分かりました』
電話を切る。
「…………」
終わった。
一億八千四百万円。
さようなら。
「うわぁぁぁ……」
机に突っ伏した。
「もったいねぇ……」
分かってる。
これでいい。
分かってるけど。
「一億八千万……」
しばらく。
立ち直れなかった。
◇
翌日。
仕事中。
スマホが震えた。
東和不動産。
「…………」
まさか。
俺は休憩時間に折り返した。
『昨日の土地の件なんですが』
「はい」
『先方のお客様から、購入申し込みが入りました』
「…………」
来た。
『現金での購入をご希望されています』
「現金?」
『はい』
勝てない。
俺が無理して融資を申し込んでも。
相手は現金。
「そうですか」
『売主様も前向きですので、おそらくこのまま進むと思います』
「分かりました」
電話を切る。
胸が。
ズンと重くなる。
「買われたか……」
十年後。
一億八千四百万円。
知らない誰かが。
それを手に入れた。
「…………」
羨ましい。
めちゃくちゃ羨ましい。
その人は。
未来を知らない。
たぶん。
それでも買った。
「すげぇな」
俺には未来が見えていた。
それなのに。
買えなかった。
金がない。
ただ。
それだけで。
◇
その日の夜。
俺は未来価格ノートに書いた。
八百万円の土地。
交渉価格――六百八十万円。
購入――見送り。
理由――資金不足。
その下。
大きく。
『未来が見えても、資金がなければ掴めない』
「…………」
悔しい。
でも。
これも経験だ。
次。
同じような物を見つけたとき。
買える自分になっていればいい。
「一千万」
俺は目標を見る。
まず。
一千万円。
「早く作る」
今までより。
強く思った。
◇
それから一か月。
俺は中古品売買を続けた。
ただし。
焦らない。
土地を逃したからといって。
無茶な商品には手を出さない。
未来価格との差が大きい物だけ。
買う。
売る。
増やす。
三百七十八万円。
四百十万円。
四百六十八万円。
五百二十万円。
少しずつ。
確実に。
「……五百万超えた」
嬉しい。
でも。
一千万までは。
まだ半分。
そんなある日。
俺は仕事帰り。
いつものリサイクルショップではなく。
少し遠くにある中古車店の前を通った。
「…………」
中古車。
前にも考えた。
扱う金額が大きい。
ただ。
名義。
税金。
保管。
面倒。
「見るだけならタダか」
俺は車を停めた。
◇
「いらっしゃいませー」
店員が近づいてくる。
「ちょっと見ていいですか?」
「もちろんです」
展示場。
軽自動車。
ミニバン。
SUV。
スポーツカー。
俺は。
順番に見る。
値札。
百二十八万円。
【現在価格:1,190,000円】
「普通」
次。
値札。
二百四十八万円。
【現在価格:2,300,000円】
「普通」
次。
値札。
八十九万円。
【現在価格:940,000円】
「少し安い」
でも。
中古品と同じ。
店はプロ。
相場を知っている。
簡単に。
百万円の車を十万円で売ったりしない。
「そりゃそうだよな」
俺は。
少し期待外れに感じながら。
展示場の奥へ歩いた。
そこで。
一台。
古いスポーツカーがあった。
「懐かしいな」
二十年以上前の車。
若い頃。
ちょっと憧れたことがある。
今見ると。
小さい。
古い。
でも。
格好いい。
値札。
二百九十八万円。
「高っ」
昔は。
もっと安かったはずだ。
最近。
古い日本車が値上がりしている。
そのくらいは俺でも知っている。
何気なく。
見る。
【現在価格:3,100,000円】
「まあ、そんなもんか」
販売価格。
二百九十八万円。
現在価値。
三百十万円。
ほぼ同じ。
「いらんな」
そう思って。
通り過ぎようとした。
そのとき。
未来価格が見えた。
【10年後の価格:36,000,000円】
「…………」
止まる。
三千六百万円。
「は?」
もう一度。
【10年後の価格:36,000,000円】
約十二倍。
「マジか……」
土地ほどじゃない。
でも。
今の俺には。
買える。
現在資金。
五百二十万円。
車。
二百九十八万円。
「…………」
買える。
現金で。
ローンも。
借金も。
必要ない。
ただし。
資金の半分以上が消える。
「またかよ……」
未来価格。
高い。
資金。
ある。
今度は。
土地のときとは違う。
買おうと思えば。
買える。
「どうする……」
俺は。
車を見る。
そして。
初めて。
未来価格ではなく。
車そのものを。
じっくり見た。
「……格好いいな」
少し。
欲しいと思った。
投資じゃなく。
普通に。
乗ってみたい。
「いやいや」
違う。
目的。
一千万円。
結衣の未来。
俺は。
車の前で。
一人。
悩む。
そのとき。
「こちら、お好きなんですか?」
店員が声をかけてきた。
「あ、まあ……昔ちょっと」
「いいですよね。最近かなり珍しくなりました」
「そうなんですか?」
「ええ。特にこの個体は」
店員が。
車の屋根を指差した。
「この仕様、国内にほとんど残ってないんですよ」
「…………」
俺は。
もう一度。
未来価格を見る。
【10年後の価格:36,000,000円】
土地を逃してから。
一か月。
また。
未来から。
チャンスが来た。
今度は。
手が届く。
俺は車を見ながら。
ゆっくり。
笑った。
「詳しく、聞いてもいいですか?」
未来は。
待ってくれない。
だったら。
次は。
俺が。
掴みに行く。




