天空の帝国
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その日ニナンはクスコの宮廷で、地図ではなく「空」を見上げていた。
「水素気球なら、今のタワンティンスユの工業力で余裕だ。気密性の高いゴム被覆の繊維素材、軽量で高強度のカーボン混じりの合金フレーム……我々の『チート』な素材工学なら、気球なんてむしろ基本中の基本だろう?」
隣で技術図面を広げていたコリ・ルラク親方と船繋がりで気象学もを担当するドミンゴ・デ・ソリアは、目玉が飛び出しそうな勢いで顔を見合わせた。
「気、気球……!!???? 陛下、まさか空を飛ぼうというのですか!?」
「ただ飛ぶだけじゃない。軍事インフラとしての『観測プラットフォーム』にするんだ」
そこへ、筋骨隆々としたアタワルパが、自身の担当する野戦砲兵部隊の弾道計算書を抱えて乱入してきた。彼はニナンの言葉を聞き、即座にその「戦略的価値」を脳内で変換する。
「……なるほど。陛下、そういうことか。現在、我が帝国の砲の性能は上がり続けているが、地上の物見塔や前線の観測員による着弾修正では距離と視界に限界がある。特に深いジャングルや起伏の激しい山岳地帯では、敵の動きを見失うことが多い」
アタワルパはニナンの地図の上に手を置いた。
「気球に、軽量化した『有線イリャパ・キプ(モールス通信機)』を積載し、そこに観測兵を乗せて高高度から砲撃を誘導すれば……敵が射程外だと思って油断している間に、初弾から正確に頭上へ鉛の雨を降らせることができる!」
「その通りだ、アタワルパ。気球はエンジンも燃料もいらない。ただ係留して浮かべておくだけで、我々は『空からの神の目』を手に入れる」
コリ・ルラク親方は、すぐさま頭の中で構造計算を始めた。
「……繊維強化のゴム製気嚢なら、水素の透過も最小限に抑えられます。有線ケーブルは、気球の係留ロープ(テザー)の中に組み込んでしまえばいい。通信線と電源ラインを一体化させることで、観測兵は地上の指令室と直結できる……!」
ソリアも興奮気味に続く。
「気球なら、嵐の時以外は24時間体制で戦域を見下ろせます! 偵察、砲撃誘導……! 陛下、これ、すぐに試作しましょう! 私が気象データを解析して、最も効率の良い高度を割り出します!」
クスコの宮廷に、かつてない熱気が渦巻く。
大西洋を渡る艦隊、各地に乱立する商館、そして今度は「空」をも支配しようというのか。
ニナンは楽しげに笑った。
「よし。コリ・ルラク、まずは試験機を一つ、マカパへ送れ。……今度は空から海を監視することになる。向こうのポルトガル人たちが、空に浮かぶ巨大な太陽の目を見てどんな顔をするか……想像するだけで痛快だな」
タワンティンスユの技術革命は、もはや陸や海にとどまらない。気球による「空の支配」が完成した時、この世界の戦術常識は完全に崩壊する。砲声の前に「空からの審判」が下る時代が、今まさに始まろうとしていた。
ニナンは地図の上で、砲兵隊の緻密な計算資料を眺めながら、不意に首を傾げた。
「そういえば、最初の砲撃の『距側(距離測定)』って、実際どうやってやってるんだ? 照準手の勘か?」
アタワルパは、まるで「そんな初歩的なことを聞くのか」というような表情で、自分のデスクに置いてあった真鍮製の精密機器を指差した。
「勘? 兄上、戦場で勘に頼るなど、焼玉エンジンを竹細工で造るようなものです。我々は、バーニヤ目盛りのついたトランシットを立てて、基線長から三角測量を行っています。目標との角度を同時に計測し、対応表で即座に距離を算出……あとは、風速と気圧補正を加えて着火するだけです」
ニナンは思わず膝を叩いた。
「おいおい、妙に頭いいな! お前、戦場では脳筋の如く突き進むタイプかと思ってたぞ!」
「評価が酷くありませんか!?兄上!」
アタワルパは心底不服そうに頬を膨らませた。
「帝国の剣たる俺が只の猪武者だとでも思っているのですか? 敵の兵站を分断し、高地の地形を活かして射線をコントロールし、正確な砲撃支援で守りを崩しすことを意識しておりますぞ!筋肉は正しき鍛錬あってこそ。……私の戦術は、常に理論と計算に基づいているのですよ!」
確かにそうだ。史実においても、アタワルパはワスカル軍に対して組織的かつ機動的な軍事運用で圧倒的な戦果を上げている。彼が単純な武人であるはずがなかった。
「ははは、悪かったよ。お前が戦場で狂ったように戦うから、てっきり計算も『敵の頭を叩き割る数』くらいしかしてないのかと」
「兄上、彼を過小評価してはいけません。命中を求めたその知略は、今や帝国の砲弾となって、大陸の境界線を書き換えうる物ですよ」
アタワルパは嬉々として、次なる「弾道計算」の海図へと戻っていった。彼の脳内ではすでに、幾何学的な死の網が、標的の上に広げられていた
数学と計算、そして力。インカの軍事力は、野蛮な破壊力ではなく、理知的な「制圧」の道具として完成されていた。




