ep57 愛という名の毒と重り
クスコの王宮、執務室。ワスカルは報告を読み上げ、表情一つ変えずに眼鏡の位置を直した。
「……なるほど。実験の副産物としてエーテル麻酔薬が完成した上に、パラケルスス殿が自ら人体実験を行い、またもや酩酊騒ぎを……」
キリヤは呆れ顔で、報告書の端を指で弾いた。
「ただの酩酊ならまだしも、あの人はエーテルを吸いながら『これが神の息吹だ!』と叫んで廊下を走り回ったあげく、医療侍女の一人のミリャイすっかりと良い雰囲気になってしまいまして……。今や、本人たちは『愛の錬金術』などと称して、ミリャイは彼の寝室に寝起きしています。」
ワスカルは机の上の書類を片付け、薄い笑みを浮かべた。
「ミリャイ殿はクスコ近郊の中堅豪族の娘でしたね……むしろ好機です。即刻、結婚式を執り行いましょう。帝国の法に則り、インカの民としての家系に組み込むのです」
キリヤが少し驚いて眉を上げる。
「あの方を……ですか?確かに優秀な方ではありますが、制御不能と言いますか……」
「だからこそですよ。あの男が欧州へ戻れば他国に技術を奪われるリスクがあります。ですが、インカに家庭を築き、愛する妻ができれば話は別です。彼は二度と、あの大西洋の荒波を越えて『かつての窮屈な母国』へ帰ろうとは思わないはず」
ワスカルは窓の外、パラケルススが侍女と手を取り合って薬草園を歩いている姿を見下ろした。
「彼は『すべては量』と言いましたが、彼の人生における『家族という質量』は、彼をこのタワンティンスユに繋ぎ止めるための、最も重要な要素になるでしょう。……さあ、祝宴の準備を。彼の研究が帝国の富に変わり続けるなら、私たちは彼を『幸せなインカの婿』として最大限に甘やかす必要がある」
キリヤは苦笑しながら、ワスカルの冷徹なまでの先見の明にため息をついた。
「……貴方様には敵いませんわね。パラケルスス殿は、自分の幸福すらも『国家プロジェクト』の一環に組み込まれているとは夢にも思わないでしょうに」
その頃、薬草園のパラケルススは、妻となる侍女の肩を抱きながら、恍惚とした表情で空を見ていた。
「愛……これもまた一種の化学反応だ……。如何なる妙薬より、はるかに強力な、一生解けない『薬効』がここにある……!」
天才錬金術師は、こうして名実ともにインカ帝国の住人となった。その研究室の壁には、ニナン皇帝直筆の「家庭の維持と研究の促進」という名目の褒賞状が、誇らしげに掲げられることになる。
キリヤは、ニナン皇帝の隣に立ち、エーテル麻酔の臨床経過を記した羊皮紙を広げた。
「陛下、エーテル麻酔の有用性は疑いようもありません。患部の切開中、被験者は一切の苦痛を訴えず、呼吸も安定しておりました。……しかし、問題は『導入時』の副作用です」
キリヤは専門的な視線で解説を続ける。
「パラケルスス殿が自ら体験した通り、導入時および覚醒時に重度の『せん妄』――激しい幻覚や興奮状態が確認されました。ある被験者は導入直後、『神の声が聞こえた』『太陽が脈打っているのが見えた』と叫びながら駆け出し、あわや王宮の噴水に飛び込むところでした(そして抱き着いて止めたミリャイを口説きだした)。これは中枢神経に対する一過性の過剰刺激によるもので、投与量を厳密に管理しない限り、患者が術前に暴れ出す恐れがあります」
ニナンはそれを聞きながら、窓の外で愛妻と共に楽しげにアオカビの培養箱を覗き込んでいるパラケルススに目をやった。
「ふむ、せん妄か。まあ、あの男の脳内は常にカオスだからな。だが、あの没頭ぶりを見ろ。彼は欧州では『放浪の異端児』として生涯を終えるはずだったが……ここでは、自分の知識を惜しみなく注ぎ込める実験室があり、守るべき家族がいる」
ニナンはニヤリと笑った。
「研究バカにとっては、ここは天国だろうよ。史実よりもずっと長生きして、医学史を書き換える充実した人生を送りそうだな、彼は。」
ニナンが声をかけると、パラケルススは飛び上がってこちらへ駆け寄ってきた。その手には、緑色に変色したパンの破片が大事そうに握られている。
「陛下! 見て下され! このパンに生えたカビの周辺だけ、細菌が死滅しているのです! まさに『毒をもって毒を制す』……いや、これこそが陛下が求めていた『万能薬』の原型かもしれない!!」
ニナンはその熱気に満ちた顔を見つめ、鷹揚に頷いた。
「素晴らしい発見だ、プロフェッサー。……で、次はそれが『ペニシリン』になるというわけだな? 期待しているよ。我々には、病に倒れるている暇などないからな」
「おおお!! ペニシリーーーーン!! 待っていろ、すぐにこの錬金釜に顕現させてやる!!」
パラケルススは狂喜乱舞しながミリャイを連れて再び研究室へ消えていく。その背中を見送りながら、ニナンは呟いた。
「さて、これで『感染症の撲滅』という人類史の壁を、インカが世界に先駆けて突破するわけだ。……パラケルスス、せいぜい長生きして、そのカビから世界を救う『毒』を絞り出してくれよ
まだ多くの人は知らない。その青いカビが、長大な城壁でも成し得なかったほど多くの命を救うことを。
タワンティンスユは今、鉄と蒸気だけでなく、「医学」という新たな力でも世界史を書き換えようとしていた。




