ep56 その男、パラケルスス
その男、フィリプス・アウレオルス・テオプラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム――世にパラケルススと知られる奇才が、欧州の退屈な医学界に愛想を尽かし、南米へと渡ったのは必然だった。
マカパに到達した彼は、ポルトガル人が必死に銀貨を差し出している「インカの門前市」の光景を一目見るなり、杖をついて叫んだという。
「錬金術の究極がここにあったか……! 金を作るなどという低俗な魔法ではなく、人間そのものを『再構築』し、寿命を延長させる技術が!」
彼は即座に「インカの中心クスコ」への移動を希望し、アマゾン川を遡上する輸送船に乗り込みクスコへと至った。
◇
クスコの医学会に現れたパラケルススは、そのあまりの自由奔放さに、タワンティンスユ帝国医学会随一の秀才であるキリヤでさえ頭を抱えることになった。
「君たちはなぜ、この優れた植物を単なる熱冷ましにしか使わんのだ! 錬金術の蒸留器にかけてアルコールでエッセンスを抽出すれば、より強力な解毒剤になるはずだ!」
「……先生、それは強い副作用が発生する可能性があると、技術部門が警告を出しています」
「強烈な副作用?!それもまた化学のドラマだろうが!」
パラケルススは、クスコの最新鋭の試験管や蒸留器を見て子供のように目を輝かせた。インカの高度な冶金技術と、自身の持論である「毒もまた薬となる(パラケルススの格言)」という思想が、タワンティンスユの先進的な医療環境と奇跡的な融合を見せた。
彼が導入した「鉱物医学」と「植物精油」の概念は、インカの医療に新たな風を吹き込んだ。……同時に、勝手に帝国の薬草園の配置を変えたり、コカの葉の薬効成分を濃縮してコカイン様物質を作成して集団酩酊騒ぎを起したりと、学会を絶えず「引っかき回す」存在でもあった。
キリヤは眉間を揉みながらも、パラケルススが持ち込んだ「未知の病原体に対する理論」が、帝国の検疫網の精度を飛躍的に向上させている事実に、苦笑いせざるを得なかった。
クスコの王宮、最先端の実験棟。
パラケルススが杖を振り上げ、熱狂的に講義(という名の咆哮)を繰り広げている。
「よく聞け、若き神官たちよ! 『すべては毒であり、毒でないものなど存在しない! 薬か毒かを決めるのは、ただ量だけなのだ!!』」
彼の叫びに応えるように、部屋の入り口に立っていたキリヤが、涼しい顔でその講義(?)に水を差した。彼女は長身を優雅に折り曲げ、神官服の裾を翻しながら、ニナン皇帝からの「伝言」を告げる。
「パラケルスス殿、お熱いですね。ですが、陛下が先ほどこうおっしゃっていました。……『そんなに毒と量の関係がお好きなら、まずはアルコールと酸から『エーテル』という物を抽出して麻酔薬として完成させてくれ。それから、アオカビからペニシリンというものを精製して、感染症の特効薬にしてほしい』とのことですわ」
パラケルススは、一瞬フリーズした。
口を開け、金魚のようにパクパクと空気を吸い込む。
「エーテル……ゥゥゥ??!! なんだそれは、聞いたこともない未知の物質だぞ……! そしてペニシリーーーーン??!! カビを薬にするだと!? あの不潔の代名詞たるカビをか!?」
パラケルススの目が、かつてないほど爛々と輝き始めた。それは医学への情熱というよりは、もはや「禁断の果実を突きつけられたマッドサイエンティスト」の目だった。
「陛下は……陛下は狂っておられるのか!? いや、私以上に狂気と化学の境目を見極めておられる……!! アルコールと酸の反応で麻酔を……そして、カビによる治療……!!」
彼は実験室の壁に頭を打ち付け、あるいは大爆笑し、狂乱の舞を踊り出した。
「面白い! 面白すぎるぞタワンティンスユ!! 欧州の連中が『ガレノス』だの『ヒポクラテス』だのと古い羊皮紙をなぞっている間に、ここでは『見えない菌』と『揮発する麻酔』を支配しようというのか!!」
キリヤは、そんなパラケルススの様子を「あらあら」という表情で眺めながら、慣れた手つきで実験室の窓を開けて換気を始めた。
「ペニシリン……名前からして甘美な響きですわね。もし完成したら、負傷した兵士の生存率が劇的に上がります。陛下も期待しておいでですよ」
「待て! 今すぐ始める! まずはアオカビの培養だ! どのカビが最も強力な『毒』を宿しているのか……これを量で見極めてやる!! キリヤ殿、手を貸されよ! この化学の地獄……いや、至福の実験に!!」
パラケルススは、もう自分の名前さえ忘れたかのように、蒸留器に向かって走り出した。
インカの医療に、ついに「抗生物質」という名の革命が持ち込まれようとしている。ニナンが放った「無茶振り」という名の種は、パラケルススという狂った天才の手によって、瞬く間に発芽し、帝国の医学界を根底から揺るがし始めていた。
そんな忙しい日々の中、夕暮れのクスコの広場で、パラケルススはニナンと並んで座っていた。
「陛下。欧州では、私の理論は常に『異端』として追放の対象だった。だが、ここでは誰も私の知恵を押し殺そうとしない。むしろ、私の突飛な実験に付き合ってくれる」
「君の知識は帝国を強くする。だから、好きなように研究すればいい」
パラケルススは、クスコの澄んだ空を見上げて、満足そうに鼻歌を歌った。
かつて欧州で「医界のルター」と呼ばれ、四方を敵に回して放浪した男は、今やインカの太陽の下で、最高の実験設備と、何より「自分の理論を否定しない仲間たち」に囲まれていた。
「……あぁ、実に慌ただしい。だが、こんなに充実した『幸せな生活』は、生まれて初めてだ。さあ、次は麻酔エーテルの合成だ!!」
パラケルススは、愛用の杖を突きながら、またしても騒動の予感を漂わせつつ研究室へと駆け出していく。
タワンティンスユ医学会は、世界で最も優秀で、かつ最も厄介な「魔術師」を手に入れた。そしてそれは、インカの医療をさらなる高みへと導いていくのである。




