トルデシリャス条約?何の話だ?
ポルトガル提督は震える指先で懐から古ぼけた羊皮紙を取り出し、額の汗を拭いながら必死に叫んだ。
「こ、ここここ、ここの地は! 教皇庁の仲裁による『トルデシリャス条約』に基づき、我がポルトガル王国の権益に属するはずだ! この大西洋の境界線より西は我が国の領土! 貴国のような未開の……いや、異端の勢力が占拠することは断じて認められん!」
彼は、目の前の鋼鉄の要塞と、耳をすり抜ける「ブーブー」という無機質な電子音(無線)に、すっかり自信を奪われていた。ヨーロッパでしか通用しない「紙切れの盾」を必死に掲げる提督。
しかし、その場に立っていたオレリャーナ長官は、まるで理解不能な言語を聞かされたかのようにキョトンと首を傾げ、即座に応える。
「ふむ、その件に関しては既にクスコのワスカル内政官房長官閣下より、指示電文を受けております。」
オレリャーナは、アンタチャが整えたばかりの最新鋭の受信機からメモを取り、無感情に読み上げる。
「首相閣下の仰るには……『トルデシリャス条約について、情報として把握はしているが、我が国は貴国と一切の条約を交わしておらず、また教皇なる人物の署名も見ていない。貴国の都合の良い地図上の線など、こちらには無関係である』……とのことです」
その言葉は、ある種、純粋なまでの合理性に満ちていた。
「トルデシリャス条約……? 我々は太陽の皇帝ニナン・クヨチ陛下の統治下にあり、帝国の領土は陛下が『ここだ』と定めた場所に存在する。貴国が勝手に地図に引いた線など、我が国のに何の効力があるのですかな?」
オレリャーナが皮肉混じりにそう告げると、アラニの背後からガチャンと回転砲塔の安全装置を外れる音が響く。砲口は真っすぐに停泊するポルトガル船団を差していた。
「おい、提督殿。お前たちの『法』とやらは、あたしたちがアマゾンを切り拓く時に、重機の邪魔にならない場所で主張してくれ。ここは今、タワンティンスユの経済特区だ。貴国の国王の許可? 教皇の認可? そんなものは、この帝国の焼玉エンジンと蒸気機関の煙の下には届かないよ」
提督は絶望した。
自分たちが世界の果てだと思っていた境界線が、この文明の怪物たちにとっては「知らない」「無関係」の一言で切り捨てられる。力関係、通信速度、そして論理。すべての面で完膚なきまでに敗北したことを、提督は骨の髄まで悟った。
「……そ、そこまで…我々の大義を否定するのか……」
「事実の積み上げです。カルバハル、通訳を終了しろ。彼らが物々交換で食料を買う気がないのなら、即刻、水平線の彼方へ追い出せ」
港の防波堤に据え付けられた大砲がポルトガル船団を照準に捉えギラリと光る。
トルデシリャス条約という「旧世界の神の法」が、ニナン皇帝の「科学文明の力」の前に、紙クズ同然に吹き飛ばされた瞬間だった。
そんなある日マカパから届いた『イリャパ・キープ(無線)』の電文を読みながら、ニナンはふっと笑った。マカパの地がインカ銀貨の飛び交う巨大貿易都市へと音速で大発展した結果、オレリャーナの仕事は探検から一転して、毎日うずたかく積まれた行政書類の決裁や、門前市の治安維持、役人たちの人事管理といった泥臭い「内政デスクワーク」に追われる日々になっていたのだ。
「まぁ、大河の怪物を命がけで下ってきた男に、四角い部屋での書類仕事(お役所仕事)を続けさせるのは酷ってものだな。よし、決めたぞ!」
ニナンはアンタチャが調整した無線送信機のキーを叩き、マカパへ向けて新たな人事命令が正に電光石火の速度で伝達される。
『オレリャーナよ、マカパ長官職から異動とする。本日付けでお前を、新設する【アマゾン流域及び大西洋岸開発局長】に任命する! 今後はマカパの防衛拠点を起点として、大西洋沿岸の未知の海岸線の測量、およびアマゾン全域の開拓ロジスティクスを、再び船に乗って前線で指揮しろ!』
マカパ要塞の無線室でその電文を受け取ったオレリャーナは、書類の山から解放された喜びと、再び大自然の最前線へ飛び出せる興奮で、文字通り飛び上がった
オリャーナ「イヤッホー!」
グゥアバ茶を運んできたアラニが喜ぶオレリャーナを見て顔をほころばせる
通信機越しにカルバハルの困惑電文が並ぶ。
「辞令電文を受けた閣下が執務室で踊り始めました」
「ハハハ、やっぱりな」
俺はクスコの宮廷で、地図を広げながら一人ごちた。
「お前をマカパの狭いオフィスに閉じ込めておくのは、帝国の損失だ。マカパ長官の座は、軍の管理官に引き継がせる。……オレリャーナ、お前を『アマゾン流域及び大西洋岸開発局長』に任命する。これからは、アマゾンの全域をインカの動脈に仕立て上げる全権を与えるぞ」
「イヤッホー!!イヤッホー!! これだよ、これこそが俺の求めていた役職だ!!」
通信の向こうで、オレリャーナが喜び勇んで空に向けて拳を突き上げるのが目に浮かぶようだ。
喜ぶオレリャーナの横で、アラニが呆れたような、しかし誇らしげな声を上げた。
「へっ……! アンタは本当に落ち着きがないんだからな。でも、局長だなんて。ただの探検隊長から、アマゾン開拓そのものを管理する最高責任者って訳じゃねえか?たしかに真の栄転だな!」
アラニはオレリャーナの腕に寄り添い、嬉しそうに目を細めた。
「いいぜ。これからは、もっと奥地の部族たちと、インカの経済と医療を繋ごうぜ。あたしも、もっともっとこのジャングルを、『インカの庭』にする手伝いをしてやるさ。」
「陛下! アラニもやる気満々だ! これで大西洋岸のポルトガル連中も、ナポ川沿いの開拓も、俺のスクリュー船が轟音を立てて全域をハックして回るぜ!」
オレリャーナの「イヤッホー!」という雄叫びが、アマゾンの広大な緑の地平へと吸い込まれていく。
マカパという名の「拠点」から、アマゾンという名の「帝国そのもの」へと役割を広げたオレリャーナ。
それは、ニナン皇帝の統治するタワンティンスユが、もはや「南米の帝国」という枠を超え、海と川を支配する「大陸グローバル・ネットワーク国家」へと進化を遂げる道筋だった。




