マカパ・アマゾン河口経済特区
アマゾン川の広大な濁流を、蒸気船の煙とスクリューの回転音が支配する。
オレリャーナ隊は、アラニの卓越した言語能力と部族間外交によって、オマグア族やワイカナ族といった大河の支配者たちと次々に和平交易条約、或いは不可侵条約を締結していった。その道中には、動力船のメンテナンスと通信中継が可能な中継基地が数珠つなぎに築かれ、インカの兵站網は東へ東へと伸びて行った。
そして、ナポ川上流基地から数千キロ。
既に川だか海だか判断しかねる大アマゾン川の河口付近、オレリャーナは静かに操舵輪から手を離し天体高度計を持つカルバハルに尋ねた。
「……カルバハル、天測の結果はどうだ?」
「ええ……間違いありません。ここがアマゾン川の河口です。」
カルバハルの計測した位置が彼の所持する海岸線の図と重なった。オレリャーナは波間を見つめ、少しだけ苦い表情で呟く。
「ここまで来れば、もう内陸の冒険じゃない。大西洋だ。……そして、この海域には、東から奴ら――ポルトガルの船が現れる可能性がある」
その報告は、即座にイリャパ・キープ(無線)を通じてクスコのニナン、そして内政官房長官ワスカルの元へと届いた。
クスコの宮廷で地図を確認していたワスカルは、眼鏡のレンズをキラーンと冷徹に光らせた。
「ほほう。予定より早い到着ですな。ですが、東からの潜在敵国であるポルトガル船団が接触してくるのは時間の問題でしょう。連中の『調査』という名の侵略を未然に防ぎ、逆に我が帝国の防波堤を築く絶好の機会です」
ワスカルは即座に書状をまとめ、通信官に渡した。
「オレリャーナに伝えよ。『その地点に恒久的な要塞を建設する』と。建設部隊を直ちに派遣します。ポルトガルがこの水路を認識する前に、我が国の圧倒的な大砲(ソリア親方謹製)と防衛設備で、ここを『インカの門』にしてしまうのです(眼鏡キラーン)」
「ガハハ! 兄上! 俺たちの通った川がそのまま帝国の玄関になるのか! じゃあ早速、建設部隊と一緒に最新型の『沿岸防衛用・回転砲塔』を大量に送ってやろうぜ!」
アタワルパが興奮のあまり、隣でスクワットの風切り音を発生させている。
◇
マカパの河口。
砂浜に突き刺さるインカ帝国の太陽旗。突貫工事で築かれる石造りの要塞と、その背後に並ぶ鋼鉄の砲門。
インカ帝国はついに、太平洋と大西洋の双方を「管理された物流網」で連結した。
「ここが、我々の新しい国境線になる」
アラニがのオレリャーナに寄り添いながら、要塞の頂上から東の水平線を見つめる。
「へへっ、なあ、フランコ(オレリャーナ)。ポルトガルだろうがスペインだろうが、これを無視して入り込んで来るなら……その時は、ソリア親方の作った鋼鉄の砲弾で、インカの洗礼を授けてやろうぜ!」
彼女の方を抱きながらオレリャーナは力強く頷く。
西からはアンデスを蒸気鉄道で越え、東からはアマゾンを蒸気船で制覇した。
大航海時代の地図を完全に塗り替え、大陸そのものをインカの「箱庭」に変貌させたニナン皇帝の野望は、今や大西洋という大海原へ向かって、その牙を剥き出しにしていた。
「陛下、マカパ要塞より報告です」
そのオレリャーナからの無線電文は、いつもの緊張感とは少し違う、困惑と呆れが混ざったような調子だった。
「要塞の裏手、陸地に次々と現地部族が集まってきております。彼らは我々の持っている鉄製の斧や農具、キニーネ、牛痘ワクチンの『奇跡』を目の当たりにして、トウモロコシや魚、果物を大量に持ち込んできました。おかげで、今や要塞の裏手が、見渡す限りの『門前市』と化しております。交易が止まりません」
その報告を聞いたニナンが噴き出しそうになったその横で、ワスカルは眼鏡を外してレンズを磨きながら、心底嬉しそうな薄笑いを浮かべた。
「ふふふ……実に良い。実に素晴らしいですな!」
ワスカルは素早く地図に新たな印を書き込む。
「ただの物々交換の場ではありません。そこはもう、『タワンティンスユの経済圏』の最前線です。彼らが我々の鉄器や医療技術の味を覚えれば、もはや他の文明――例えばこれからやってくる『ポルトガル』の粗末な鏡や布切れなど、ゴミ同然に見えるはず。実効支配を主張するのに、これほど強力なカードはありませんよ」
ワスカルは、キープカマヨックを呼んでテキパキと指示を飛ばした。
「オレリャーナに伝えよ。『その門前市に我が国の刻印入りの銅貨、銀貨、金貨を流通させろ。』と。鉄器や医療品との交換を、徐々に通貨を通す形に切り替えるのです。現地の民が我が帝国の貨幣を使うようになれば、そこは名実ともにタワンティンスユの実効支配地となります。ポルトガルが来ようとも、『ここは我が国の通貨が流通する経済特区である。侵略は国際法違反だ』と主張できますからな(眼鏡キラーン)」
◇
マカパ要塞の門前。
昨日までジャングルの奥で暮らしていた部族の民たちが、食料と引き換えにインカ兵から手渡されたインカの銀貨を、宝物のように握りしめていた。
「これ3枚で、あの頑丈な鉄の鎌と交換できるのか?」
「そうだ! しかも、この貨幣を持っていれば、あの薬の木がいつでも手に入る!子供が死なずに済むぞ!」
要塞の周囲には、いつの間にか簡易的な屋台が並び、港には魚を満載した現地部族の船がひっきりなしに往来している。かつては孤独な探検隊の野営地だったマカパが、数か月で「大西洋を望むアマゾンの経済のハブ」へと変貌していた。
「……カルバハル、おい。これ、もう要塞というよりは、立派な『貿易都市』だぞ」
オレリャーナが苦笑いしながら、門前市の活気を見下ろす。
アラニが市場で買い付けた熟れたグアバの実を齧りながら言う
「だな。ポルトガルの船が現れたら、この連中が『俺たちの市場に何しに来た!』って追い払っちまうんじゃないか?」
「周辺の部族も、完全にインカの貨幣経済に飲み込まれつつありますからな……」
カルバハルは満足げに記録を締めくくった。
ニナンが引いた「技術」と「貨幣」という名の境界線。ポルトガルがまだ大西洋を渡る準備をしている間に、インカ帝国はすでに「ここには先住民たちがインカの貨幣で平和に暮らす、立派な経済圏がある」という既成事実を完璧に作り上げていた。
武力での征服よりも、生活そのものを牛耳るハック。
マカパの地から響く活気ある市の声は、大西洋を越えてやってくるであろうヨーロッパの征服者たちへの、静かな、しかし強烈な「ここは我々の庭である」という宣戦布告でもあった。




