3 修羅場のあとのひとっ風呂
ポロリンとなった音に、眠りが浅い時だったのか、すぐ反応して布団横のスマホを探る。
扉を叩き開けて、おはよー!と叫んでいるマッチョなニワトリのミニイラスト。
『食い過ぎたパエリア、ちゃんと消化できたか?』
目がまだショボつく。あくびを一つしてから、返信を叩く。
『今回は吐いてません。でも中年の消化器官は仕事が遅いので、朝は野菜ジュースだけにしときます』
『今日休みだよな?』
『そっちは仕事でしたよね? 無理に構わなくても、休日のおじさんはごろごろエンジョイしますよ』
顔を洗ってからカーテンを開ける。暖かい間は、少しサボってるだけで庭がぼうぼうになる。今日は草抜きだな。
野菜ジュース片手に庭を眺め、算段を立てているうちにまたポロリンとスマホが鳴る。
『頭良く見えるか?』
そのメッセージと共に、今撮ったらしい一枚が送られている。
襟の折り返しのないスタンドカラー型の白シャツに、色を揃えた濃いめのパンツとベスト……いや、最近はジレって言うんだったか。それから、珍しく色のない伊達眼鏡。普段のワイルド感のあるセットではなく、分け目を作るようなスタイリングなので、言われる通り方向性は確かに寄っている。
が。
『ただのイケメンですね』
知的とかどうでも良く、ただただ男前だ。
『仕事頑張る』
メッセージだとイマイチ会話が成立してない気がするが気のせいか。若い子ってこんなもんなのか。それとも男がこんなもんなのか。
……友達がいなさ過ぎて判別つかないなぁ。
※ ※ ※
『背脂にんにくマシマシ系ラーメン食いたい』
『メッセージの送り先間違ってません?』
間違ってませんけどと言いたげな、首をひねるメガネをかけたフクロウ。
『パエリア食べ過ぎて翌日昼までまったくお腹空かなかったおじさんに送るメッセージではありません』
ノーと書かれた看板を、悲壮な顔で掲げる猫。
『食ったことはあるか?』
『呪文怖い』
『じゃあ、コーヒーチェーン行こうぜ』
『何の、じゃあ?』
『呪文繋がり』
『おじさんにキャラメルマキアートホイップマシマシアイス乗せみたいなの飲めと?』
『新商品? うまそう』
『テキトーに言ったのに期待しないで』
残念と肩を下げて落胆する双子のゴリラ。
『圧が強い』
超近距離でガン見してくる、目が充血した双子のゴリラ。
『怖い怖い』
有名ホラー映画の幽霊。音声付き。
『ホントに怖いヤツ止めて!』
『コーヒー飲んで、レイトショーで映画見ようぜ。この間の話したアニメの実写映画、リバイバル放映してる映画館見つけた』
ダメ?と目をうるうるさせるチワワ。
『来週の木曜ならいいよ』
※ ※ ※
『すいません、ちょっと遅れてます。コーヒー屋もういます?』
『先入っとく。映画まで時間あるから気にせず』
『注文する時横にいてくれないんですか?』
『来たら付き合ってやるから』
我ながら恥ずかしいメッセージを送った気がする。コーヒーチェーン初心者でビビってるのをめちゃくちゃストレートに伝えてしまった気がする。しょうがねぇなぁ的な気配を彼の文面から感じる。
さっきまで耳に残っていた怒鳴り声も、今はもう気にならない。それどころではない。
メッセージ消すか? いや、既読ついててそれは余計に恥ずかしいのでは?
思いながらも足早に改札を通り過ぎる。
日が暮れた後の街には、溢れるほどの光が灯る。その下を人々は思い思いの方向へ急いでいる。
俺も、今はその一人だ。
路面に面したコーヒーチェーン。そのテラス席に、目立つその姿を見つける。一度腕時計に目を落とし、約束の時間ちょうどであることに安堵する。
少し上がった息を整えてから近づこうとして歩を緩め──その向かいの席に座っている女の子に気付く。
長い黒髪を垂らした、華奢な感じの背中が見える。
「勝手に終わらせんなよ!」
キンと、耳が痺れるような甲高い声が聞こえる。
「アタシ我慢したじゃん! これ以上どうしたらいいのさ!?」
近寄りがたさに、思わず足が止まる。
「どうしようもねぇから終わったんだろが」
押し殺したような低い声。俺が知るものとは、別人のような声。
ガタンッと椅子を蹴倒して女の子が立ち上がる。
同時に伸ばした手はテーブル上のカップを掴んでいた。
「死んでやるから!」
アイスコーヒーに入っていた氷が、路上に転がる。ホットではなかったことに、場違いに気を緩めて息を吐く。
「──死ねよ」
ゾッとするほど冷たい声。
どうしようもない拒絶。
言葉で身体を突き飛ばされたかのように女の子はふらついて、それから駆け去っていった。
後には静寂と、彼だけが残される。
その彼の視線が女の子がいなくなったことで遠くで焦点を結び、目が合った。
──思わず、背を向けて逃げ出した。
いや。
いやいや。
無理だ。
「待ってッ、──待ってくれ!」
人通りの少ない路地裏の方へ駆け込んだ所であっさり捕まった。腕を取られて引き留められる。
「すいません。今日は帰りま──」
「連絡は仕事と睡眠以外で十分ごと!」
は?
「GPSの位置情報は常時通知! 自分がいる時以外、知り合いの女と行動禁止! おはようとおやすみで毎日一時間通話!」
鳥肌が立つ。
「クラブで偶然、女のダチと会ったのバレたせいで、睡眠薬盛られてマジで手錠かけて監禁された。プレイ用のチャチなヤツで何とかねじ切って逃げた」
振り払おうとしていた力を抜いた。
「オレにも悪いとこあったにしても、終わった扱いしていいだろ」
「……でも」
思わず使った逆接続詞に、腕を掴む手に力が入ったのを感じる。
「死ねって言葉は、聞くだけで痛いな」
「……頭沸騰してた。悪かった」
「俺に謝ったってしょうがない」
「他人とあの女はどうでもいいから、謝る対象はアンタだけだ」
「変なの」
色々こじれた末におじさんに謝り出す色男は、よく分からない。
カバンからハンカチを取り出す。
「濃い色のシャツの日だったら良かったのにね」
白と紺のバイカラーのシャツだけど、白の方がまだらにコーヒーで染まっているのが分かる。
茶色い雫で束になっている髪に、ハンカチを当てる。
「映画は無理だね」
腕を握っていた手が緩む。
「──じゃあ風呂行くか」
だから何だ、じゃあって。
※ ※ ※
「……なんていうか……薄いな」
「そういう時はコメントを差し控えるっていう大人の処世術がありますよ」
「年食うと筋肉落ちやすいって聞くし、そろそろ気をつけた方がいいんじゃないか?」
「落ちる以前に筋肉ついてたことがないんですぅ」
言ってて情けない。
対して男前は脱いでも男前だ。
「何かやってます?」
「朝走ってるぐらい。昔軽くボクシングやってたのが残ってるだけだ。あとは気が向きゃスポットでジム行くくらい」
くらいが全然くらいじゃない。
当たり前みたいに腹筋が割れているのも、細マッチョ感のある身体つきなのも、少し首が太いのも、納得感しかない。普通に身体が凶器になるタイプの子だった。
初対面の、隣に立ちたくないって直感、大正解だ。
なのに並んで、ホテル上階の風呂に来てる。
カフェに散らかしたのと騒がしたのを一言謝罪した後、結局流されて来てしまった。
「眼鏡つけて入る気か、アンタ」
驚愕している。何で?
「え、いやだって見えない」
「曇るし、傷むだろが。ほら」
外されてムキムキイケメンの介助付きで大浴場を味わうことになった。オプションが豪華過ぎる。
全身洗って浸かった浴槽の先は、ガラス張りの夜景だ。ぼやぼやと形は曖昧だが、光の多さに普通に綺麗だ。
この光の下にさっきまでいたというのに、今はこんなとこまで引っ張り上げられてる。
「オープンしたてだから、人少なくて良いだろ。時間帯も、宿泊客ともビジターともズレてるし」
確かに客は点々とまばらだ。夜景の美しさを損ねないよう、照明も抑え気味の光量で、他の客などほとんど気にならない。
「にしても急に風呂とか言い出します? 君、女の子でもこうも突発なわけ?」
言ってから気づく。さっきの今で、何で女の子の話を振ってしまうのか。風呂の気持ちの良さに緩んだ口が、最悪な話題をチョイスする。
「女は生理あるから急にはダメだろ」
常識人なのか、非常識なのか、彼のことがよく分からない。とりあえずおじさんは、絶対生理とか口にできないが、男前には違う不文律があるんだろうか。
「……なんか女運ないんだよ、オレ」
やっぱり別世界に住んでいる男前が、声をひそめて語り出す。
初めての彼女は高校二年。少し真面目で控えめな女の子が、勇気を出して告白してくれたのが嬉しくて付き合った。最初は良かったが少しずつ彼女の性格がきつくなって、自分をネタに周りにマウントを取っているとこに出くわし、嫌になって別れる。
次の彼女は高校三年。難関大学の受験勉強を頑張ってる女の子に、支えになりたいと告白。合格決まるまではと、ある程度距離をとって付き合っていたら、子供ができたら受験なんてしなくてよくなるとレイプされかけて親も巻き込んだ騒動になり破局。
大学に入ってからの初カノはサークルの先輩。儚げなところが良かったが、気づいたらモラハラ気味、高圧的に扱われて破局。
などなど、同じような話がエトセトラ。
「……両手の指で足りる?」
「……足りさせとく」
これは多分彼女未満を切り捨てて数えたな。
エグい。ヤバい。怖い。
「君完全にダメな子製造機だね」
「何でだろうなぁ」
はぁと深く深くため息を吐いて浴槽縁に伏せる。若いなぁと、その姿に初めて彼の年相応な未成熟さを感じて、勝手ながらなごむ。
「これは年齢イコール、パートナーいない歴のおじさんのたわごととして聞いてください」
小さく小さく、とても人に聞かせるようなことではない事情を口にしたのは、そのお返しだ。
「君は完璧過ぎるんでしょうね」
伏せていた頭が起きて、こちらを振り向く。
眼鏡がなくて良かった。こんな言葉は、表情が分かる状況で言えない。
「君が完璧過ぎて、頑張ってたのに寄りかかって楽をすることを覚えてしまう。君が完璧過ぎて、君を支配してないと逃げてしまいそうで不安になる」
「……いや、オレそんな」
「相手の手間を思って先回りする時、空いた時間と労力で構ってほしいからって言ってますか? 相手の頑張りを無理するなって言葉で封じ込めて、屈託なく笑って欲しいからって理由を言い忘れてないですか?」
年の割に言動がスマートということは、それだけ裏側を見せていないということだ。大人のそれは慣れや矜持だが、若い身空でのそれは努力と不器用さだ。
「君の方からちゃんと、甘えたことありますか?」
恥ずかしいなぁ。ホント眼鏡なくて良かった。
「……あんま、ない」
長い長い沈黙の果てに矢崎君が呟く頃には、ちょっとのぼせてきていた。
「君は悪くないです。君の権利を阻害した相手は明確に悪い。でも、彼女らとの関係性において、君は足りすぎてて、足りなかったんでしょうね」
人間関係で当然発生する過分と不足。大きな枠の中では自然と他へ流したり、他から補ったりできるけど、恋人関係という狭い枠ではあっさり飽和したり、枯渇したりする。
「頑張り屋さん過ぎたね」
本来二人で解決すべきそれを、多分矢崎君はどうにかしようと一人で受け止め過ぎた。
「⋯⋯うん」
その結果の最悪な連鎖は、誰にとっても不幸な結果になった。
「後で、共通の知人からでいいんで、ちょっとだけ、あの元カノさんにフォロー入れられないかな」
「……しとく」
生きてる限り、人は変わる可能性がある。
「アンタは……ゴローさんは、アロマンティックなのか?」
「アロマ?」
「非恋愛主義。性質。聞いたことないか?」
「哲学的な?」
「いや、もうちょっとレズとかゲイとかのLGBTQの延長みたいな、セクシュアリティの一つ」
すごく自然にそういう知識のある若い子はすごいなぁ。
「今の僕にそういう雰囲気ありました?」
「パートナーがいないって、そういうことかって」
作ろうと思えば作れる子の発想はすごいなぁ。
「ただモテずにここまで来た、説教臭いおじさんなだけですよ」
「ウソだろ」
大人ってだけで買いかぶってしまう歳っていうのはあるよねぇ。
あぁ、思考が雑になってきた。
「あと恋愛感情とセットで地獄の釜が開くシステムになってるんですよねぇ」
「それは⋯⋯どういう?」
「ところでそろそろ倒れそうで出たいんですけど、おじさんの介助お願いしていいですかー?」
「それは早く言え!」
一息に飲み干して、グラスの底を勢いよくテーブルに置く。二杯目のビールがうまい。思わず、くはぁと息も出る。
「おっさん臭ぇ」
呆れて笑われても知るか。ただの事実だ。
ちなみに一杯目のミネラルウォーターは命を救う水だった。うまさ的にも、実際的にも。
今目の前には、クリアな夜景がある。浴場よりも上の階、バーから見下ろす街は案外車の流れが見えておもしろい。
ガラスの向こうには夜景。手前にはグラスの乗った小さなテーブル。隣にはスツールで腰掛ける、シャツに茶色いシミのある男前。
「こういうとこってドレスコードとか大丈夫?」
「高級ホテルでもねぇし、ゴローさんはスーツで、俺もシャツだからいいだろ」
「いや、コーヒーのシミがあるシャツ厳禁とか」
「ピンポイントなドレスコードだな」
あまりにも堂々としてるからそういう柄に見えてきた。
「まぁ、そろそろ着くから」
スマホ画面を見ながらの声に、何が?と問う時間はなかった。
「──おれのスキマバイトはフードデリバリーであってパシリじゃねェのよ!」
空気感とか全無視で怒鳴りながら、若者が入り口から入ってきた。
バンドマンだ。絶対、バンドマンだ。
ヒョロっと背の高いような体格に、後ろでくくった金髪。化粧とかはしてなさそうだが、黒のマニキュアと、たくさんしているのに黒一色のピアスたち。前面プリントのティーシャツの柄は、何のものかさっぱり分からないがドクロからロックの香りがする。
そんな若者が投げつけたものを、矢崎君は受け止める。
「悪かったって。チケットさばいてやってた貸しから引いとけ」
「それで永遠引っ張るんじゃねェ!」
柔らかそうなそれの対価に、一万円札がわたされる。
何の取り引き?
「ゴローさん。ちょっとトイレで着替えてくるわ」
「は、い?」
応答が疑問形で語尾が上がるのは仕方ない。
だって、謎のバンドマンと二人で置いていかれたのだから。
「あんた、キリヤの何?」
知りません!
「行きずりのおじさんです」
「てっきり女と飲んでんのかと思って選んだけどミスったか?」
誰か! 説明を!
「とりあえず何か飲みます?」
「いや、いいわ。どうせ戻ってきたら、あいつもすぐ出たがるだろうし」
何なの!?
「タク! テメェ!」
矢崎君まで柄悪くなって帰ってきた! 怖い!
「お、サイズ良さそうだな。最初期のライブティーシャツ、プレミアもんだぞ」
「ただのジョークティーシャツだろが!」
「おれが受けた注文は一万を報酬にテキトーな服見繕って持ってくることだけですー」
その言葉でやっと状況が分かった。
戻ってきた矢崎君の服が変わっていることは気がついていたが、胸元ぐらいで握って柄を隠しているのはそういうことか。シミのあるシャツでも堂々とバーで酒飲む子が隠すってよっぽどだな。
荒い仕草で、矢崎君がまだ結構残っていたジントニックを飲み切る。
「ゴローさん、悪ぃ。もう出ていいか?」
「全然問題ないですよ。支払いは僕がしますね」
「ぐ、う、⋯⋯悪い」
ティーシャツの前を押さえたままでは支払いも難しかろう。動きの問題ではなく、シンプルに店員さんの前で怪しすぎる。
わーお。
これは脳内モノローグも英語にかぶれる駄目なヤツ。
ホテルを出て目にした、矢崎君の黒ティーの全貌に目を見張る。
「お。おっさん読めたか」
俺の反応にタク君(仮)がニヤニヤと全力で笑ってる。
「ッ⋯⋯読めんのかよ⋯⋯!」
何か音にならない絶叫が聞こえる気がする。
モンロー的な金髪美女風のキャラクターが、煙草を吹かして煙を吐きかけている。その下に英文が書いてあるわけだが、それがかなりスラングで相当お下品だ。
意訳するとつまり。
『一発ヤろうぜ!』。
「ヒアリングできないんだけど、読む方は多少」
これはホテルのバーでは着れないなぁ。
多分周りに書いてあるのが、タク君(仮)のバンド名やら何やらなのだろうけど、あまりに中央のインパクトが強すぎる。
「おまえがホテルのバーとか言うから目的をはっきりさせてやろうと思って」
「嫌がらせに全力使うんじゃねぇよ!」
なんか、ちょっと。
「ゴローさん?」
「ご、ごめ、ちょっと、ふ、ふふ⋯⋯」
返す声が震える。緩んだ顔が戻らない。
駄目だ、笑ってしまう。結局声まで出して笑ってしまう。涙まで出た。
「仲良しで良いなぁ」
ひとしきり笑って、目尻を拭って感想を呟く。お使いをしてくれるところから、すべてのレスポンスまで、関係性の良さが出ている。
「お前のせいで笑われた」
「感謝して敬え」
間髪入れないやりとりでまた笑いのツボが刺激される。
「もうお前はいいから帰れ!」
「えぇ、夜はこれからじゃん。なぁ、ゴローさん?」
言って普通に肩を組んでくる。
「木曜だと勘弁願いたいなぁ」
「土日休みの人? ならさすがになぁ。メシは? 食った?」
「まだ」
「お、いいね。ラーメン行こうぜ。うまい店知ってんぜェ」
「何で馴染んでんだよ!」
それで結局三人でラーメンを食べに行った。
まさかの背脂にんにくマシマシ系ラーメンだった。




