2 眼鏡を変えれば世界も変わる
「やっぱり眼鏡かけてないじゃないですか」
「サングラスは眼鏡だろ」
シャレた美容院を思わせる店先を通り過ぎること三度。何とか勇気を振り絞って木目模様の扉を押して入った金堂眼鏡店に、くだんの青年はちゃんといた。真剣に、入店したのにいないパターンを考えて震えていたので、思わず安堵で舌が滑った。
店長らしき人物を手で制してから、青年は近づいてくる。
暗色で揃えたシャツファッションは夜の繁華街で出会った時よりシックな印象だが、丸型フレームの黄色いサングラスが絶妙に軽薄だ。似合っているから余計に何とも言い難い。
「いらっしゃいませ、お客様。本日はどういったものをお求めで?」
「店員さんみたいな必要に駆られてもいない人がかける、チャラチャラしたオシャレの対極みたいなヤツを」
「⋯⋯もしかして眼鏡過激派だったか?」
「右と左を問われればはっきり右ですね」
「右?」
「眼鏡は視力補正の道具と言い続ける派閥」
「ごりごりの保守派はとりあえず、そのために視力検査しような。会った時から思ってたけど、いつの眼鏡だよ」
言われて回想する。
「⋯⋯二十年前?」
「店長ぉ、この人全力で接待してやってくださーい」
眼鏡作成技能士というものを初めて知った。
ってか、今の視力検査ってこんなに複雑なのか。
「カルチャーショック受けてるとこ悪いがこれかけてくれ」
検査を終えると、店長さんから恩人の彼ヘ交代した。
セッティングされた確認用眼鏡をかけると、驚くほどクリアにCが見える。雑誌が読みやすい。勘とフィーリングと経験則に頼らなくてもいい。すごい、世界は高精細だ。
「二段階ぐらい悪くなってるな。免許更新とか問題なかったのか?」
「持ってません」
「へぇ、アンタぐらいの歳だと大体持ってるもんかと」
「⋯⋯公共交通機関で充分なので」
「就職前に大学で奨励されてたからオレは取ったな。ま、旅行のレンタカーぐらいしか運転機会ねぇが。⋯⋯乱視も特記事項も、老眼の気もなし。フレームの選択に制限はなさそうだな。よし」
カルテに俯けていた顔を上げ、どこか挑戦的な笑みを見せる。
「予算は?」
「⋯⋯クレジットカードの限度額で勘弁してください」
「だからカツアゲされてるような人聞き悪い感じ止めろ」
見た目に反して、というと失礼だが、青年の仕事ぶりは真面目だ。
「普段着はどんな感じだ?」
「スーツ前提にしてください」
「眉整えてるよな。形変えることあるか?」
「これは美容師さんに言われるがままにしてるので、ちょっとよくわかりません」
「髪色もお任せか?」
「はい」
矢継ぎ早に問いながら、店を回ってトレイのベルベット生地の上に眼鏡を三つ置いて戻ってくる。
「まず言っておくが、前の眼鏡はアンタに似合ってない」
「それ事実だとしても言うことですかね?」
「だから見慣れないって理由で判断はするな」
かなり乱暴な接客に思えるが、店長さんに動揺はないので彼はそういうものなのだろう。
「方向性の確認としてまず形を三種、スクエアとウェリントン、それから前の眼鏡と同じオーバルだ」
言って次々に差し出されて試着する。言われた順番通りにかけていくと、最後のオーバルというヤツで何だか顔が大きく見えて不格好だ。続けざまに見るとその違いがよく分かる。
「分かったか?」
少しの戸惑いを見抜いて詰めてくる。自分の見立てを疑うことなど一切ない姿勢だ。うちでは絶対真似できない接客態度だ。
とりあえず似合わない眼鏡はいそいそと外す。
「輪郭がわかりやすいように、フルリムの黒で出したが、実際肌色もブルベ冬っぽいから、嫌いじゃないなら濃くてはっきりした色が合うと思う」
じっと注がれる視線に居心地が悪い。
情報量も多くなってきた。
こういう時はアレだ。
「僕に似合う至極の一品を」
「それやると限度額次第で突破するの持ってくんぞ」
「⋯⋯頑張って選ぶので、手頃で良さそうなのお願いします」
「まだ素材とかメーカーとか解説してないこと山ほどあるんだからな。横着せずに、見飽きた自分の顔の変化、楽しんでこうぜ」
それは完全に自分の顔に自信のある人の発言過ぎる。
結局店を後にするまで、そこから二時間かかった。
※ ※ ※
チョキチョキとハサミの音がリズミカルに続く。
「で、その集大成がソレなんかい」
鏡の向こうの視線が、鏡台前に外して置いてある眼鏡に向けられたのが分かる。
が、視界的にはぼやぼやで全然見えていない。
「⋯⋯やっぱりさすがに若作りし過ぎ?」
「なんでそーなんねん、俺の初見反応で分かったやろ? めちゃくちゃ似合うとるって。職場での反応も悪ないんやろ?」
「若く見えるって言われまくった。四十にもなって恥ずかしくなった」
「ゴローくん、そーいうとこマイナス思考よなぁ。褒め言葉は素直に受け取りゃええねん」
「⋯⋯師匠が言うのなら」
「そうそう、嫌味も気づかんかったら賞賛なんやって」
「やっぱり嫌味で実は威厳がないって馬鹿にされ⋯⋯」
「うっさい! おらっ、切りにくいから顔上げろ!」
谷さんに両こめかみに手を添えて頭を起こされる。
美容師の谷さんは俺の心の師匠だ。引きこもりから脱却するきっかけは叔父の拳だが、脱却できたのはこの人のおかげだ。なにせ叔父は根性論しか言わない人だったので。
完全予約制マンツーマン美容室に現れた挙動不審な引きこもりに谷さんは優し──くはなかった。
それはもう初対面から自分で切っていた、ろくに手入れもしていなかった髪を、ボロカスに言われた。カミソリ負けしたヒゲの剃り跡を、クソミソになじられた。谷さんは理容師免許も持っていたので余計に。
初めてぶつけられる関西弁の洪水も相まって、俺はボロ泣きした。泣かせてからなだめすかし、谷さんは気づけば洗いざらい俺の生い立ちを吐かせていた。緩急が完全に刑事のそれだ。しかも一人で飴と鞭をこなす。どんなやり手だ。
それからは生活の是正だ。
入浴、洗顔は毎日。おしゃれに整える気がないならひげ剃りも毎日。歯磨きは最低一日二回。コンディショナーは使え。余裕が出たら眉毛も整えろ。服がないならスーツをとにかく一着通販でもいいから買って出ろ。仕事終わりの顔して、背筋を伸ばせ。街なかのガラスに出くわすたび、自分の姿を嫌でも確認しろ。スーパーでもコンビニでも、どこでもいいから、店員相手に『はい』、『いいえ』じゃなく文章で言葉を返せ。
毎月髪を切られながら報告する、今月できた話を谷さんは褒めてくれた。できなかった話を、また次があると応援してくれた。ただの客でしかない、年も大して変わらない俺に、寄り添ってくれた。
今の俺があるのは、谷さんのおかげだ。
「ちゅーか、若い癖にやりとりスマート過ぎへんか。相当遊んどるやろ。惚れんなや。カモられんぞ」
ちなみに始めの洗いざらいの段階で、性的指向が男であることもゲロらされた。
「割ともうカモられたんじゃないかなぁ」
ギリギリ桁が変わらない料金帯であった眼鏡に目を落とす。普通なら家電が壊れた時くらいでしか許さない出費だ。
なのに、欠片の後悔もない辺り、セールスがうますぎる。だってそれだけ商品も良いのだ。かけてても鼻あての凹みができないなんてすごい。感触が軽すぎてそのまま寝そうになった時は危なかった。
こんなに良い物に出会わせてくれた彼には、感謝しかない。彼に貢献できるというなら商品も含めて安い買い物だ。
「これが若い子の言う推しってヤツかなぁ」
「言い回し、おじ臭いねん。ほれ、推しの子が見繕ってくれた眼鏡かけて確認しろ」
促されるまま眼鏡を装着して鏡を見る。
濃い紺色の太いフレームの枠は、不思議と目を大きく見せて、顔全体は小さく見せる。額を見せていたはずなのに前髪が作ってあり、眼鏡と相まって完全に若作りが極まっている。
「ま、こっちがセーブしてるとこ、そういう方向で後押しされたらこうするわな」
どこからどう見ても、威厳がない。
「⋯⋯俺もひげ、はやそうかなぁ」
「スタイリストの苦労ガン無視の気まぐれ止めえ」
顔をしかめる谷さんの容貌は年相応で、鼻下と顎にはえる、整えられた髭もよく似合っている。
その下に映る俺の顔は、覚悟も自信もない、未熟さというか青さ全開だ。
「恥ずかしい」
「ゴローくんの自己肯定感の低さはもうどうでもええから、師匠のセンスだけは信じろな」
※ ※ ※
「お、ちょっと髪型変えたか?」
「お恥ずかしい」
「なんでだよ。イイ感じじゃん。選んだ眼鏡、もっと似合う感じになった」
師匠のセンスさまさまだ。
そして彼のセンスもやはり素晴らしい。白シャツに黒スキニーというシンプル過ぎるファッションに、アクセントの銀フレーム、ブルーグレーのサングラスが際立つ。
今日は一ヶ月検診で再来店だ。検診とかそんな病院じゃあるまいしと言った俺に、その後の圧がすごかった。眼鏡は身体の一部だろと。眼鏡がいらない人間に、眼鏡について説教された。
「痛みとか違和感出てないか?」
「快適という言葉をかけて歩いてる気分です」
ふっと、とても自然な崩れた笑み。
「そっか、良かった」
細めた目はひどく喜びのこもるもので、客の喜びをそのまま自分の喜びにしてしまえる人間だと分かる。
「カジュアル気味で、職場的に怒られたりしてないか?」
「大丈夫。例の上司にも好評ですよ。新人の子なんか、ちょうど眼鏡の話してたんで『わたしのアドバイス通りだったでしょ』って。そのまま流れるように、『でもわたし上は十歳までなんでゴメンナサイ』ってふられましたけどね」
「⋯⋯口説いてたのか?」
「あ、いや、なりゆきの冗談ですよ。相手の子、二十代ですもん。お互いないでしょ」
それ以前の話で『ない』のだが、それはさすがに普通の人に話すことではない。
「へぇ」
中年の戯れ言みたいな職場の女の子の話には興味がないのか、珍しく淡白に返される。眼鏡はわたしてしまって、表情は読めない。
嫌だなと思う。未だに、好意的でない気配には怯えてしまう。前々回、前回、彼はずっとあっさりめではあっても優しかったので、油断していた。
「おはようございまぁーす」
「おはようございます、タダさん。すんません、今日のシフト」
「いいよぉ。連絡事項あるぅ?」
調整の必要はなさそうということで、やたらと良い革ソファの上で洗浄終わりを待つ。
出勤してきた女性と何やら業務報告をし合っているのを遠目に見る。眼鏡がなくてよく見えないが、多分女性は美人だ。昨今ではルッキズムだ何だと言われるが、視力の落ちた世界でも美人や男前は区別がつく。
だって彼らは、堂々としている。声に、姿勢に、生き方が出ている。逆に言うと、俺の中ではそういう人が美人であり、男前だ。
前向きに、生きていける人たち。
「おい、寝てるか?」
ぼぉっとしてたら洗浄が終わったらしい。
「お客さん相手にそれありですか?」
なかなか乱暴な物言いだ。
手わたされた眼鏡をかけ、顔を上げると。
「仕事終わったから客じゃない」
えっと、多分声に出た。
「──飯食いに行こうぜ」
言って笑う高精細の彼の顔に、サングラスはなかった。
恩人の、断られる懸念など微塵もなさそうな食事の誘いに、その美人な同僚さんもいる場でノーと言えるだろうか。
いや、無理。
「これはアレですね。この間のお礼で奢れと」
「何でだよ。礼は店来てくれただろ。じゃなくて、良いもんではあるが高いの買わせちまったし、俺がお礼だよ」
「いや、お礼のお礼って永遠に続くやつ」
「まぁどっちが金出すかは置いといて、とりあえず行こうぜ。うまそうなパエリア屋あんだけど、二人前からなんだよな」
そうして俺の目の前にはパエリアがある。
三種類。
二人前のパエリアが三種類。
いや、何で?
「四十路のおじさんの食事量知ってます?」
「食いたいだけ食ってくれたらいいぜ。食えないならオレ食うし、支払いもオレがする」
オレいけますという余裕たっぷりに言われる。
「それなら僕いなくても良かったんじゃ」
「二人前からのパエリア、一人で頼むのは恥ずいだろ」
「そこは恥ずかしいのか」
俺はキラキラしい若人とオシャレなスペインバルで二人なのが俺みたいなおじさんで恥ずかしい。
「今更で悪いが魚介アレルギーとか言わないよな?」
「それでここついてきてたら致命的だね。大丈夫、アレルギーも嫌いなものも特にありませんよ」
よしっとうなずいてからかいがいしく取り分けてくれる。三種の米の乗った取り皿。うん、見事な栄養バランス度外視。
先におつかれさまの乾杯は済ませていたので、早速スプーンですくって口に入れる。
「おいし⋯⋯」
「うま⋯⋯」
米が吸い込んだ海鮮の旨味が口いっぱいに広がる。
あ、駄目だ、これ食べちゃうヤツ。
「スペインとか行ってみてぇな。バルでタパス食いたい」
白ワインのグラスを揺らしながら、夢想するように視線を流して彼は言う。
その前には追加のアヒージョとトルティージャがある。
俺は三種類を五分の二ぐらい食べたとこでギブアップだ。
スペイン料理で小皿料理を意味するタパスは、日本ではアヒージョなどの定番に片寄りがちだ。本場の品数を求めるなら現地が確実ではある。
とはいえ。
「海外とか怖くて無理だなぁ」
「国内旅行派か?」
「寝るのは自宅がいいよね」
「日帰り温泉とか?」
「人がいるとこでリラックスできなくて」
「ならサウナ好きとかでもなさそうだな。趣味は何だ? ソロキャン? 釣り? 将棋? あ、ゲームうまかったな」
「ザ・おじさんで攻めてくるの止めてくれます? ゲームは……昔はやってたけど今は全然」
おじさんであることは否定しないが、ステレオタイプで扱われるとそれはそれでおもしろくない。まさにめんどくさいおじさん。
「趣味とか特にないよ。若い子と違って、仕事だけで精いっぱい」
「何だそれ。何が楽しくて生きてんだよ」
そういうことを気負いもなく言えるところも若さだろう。
「死にたくないから生きてるだけだよ」
ああ、料理もワインもおいしすぎて、口が余計なことを言ってしまう。キラキラ輝いて前を向く男前に、影なんてなすりたくないのに。
沈黙にBGMの、クラシックギターの柔らかさのある音が響く。
「──じゃあ遊びに行こうぜ」
は?と疑問の音が、酒臭く口からこぼれる。
向けた視線の先で、俺とは違う世界で生きてるはずの青年は、スマホを差し出してくる。
「とりあえず連絡先交換しようぜ」
画面には連絡アプリのプロフィール欄。
「え、いや」
「あ、もしかして電話番号とかメールの方がいいか?」
「おじさんでもそのアプリは入れてますぅ」
「ホントか。見せて。ホントだな」
カシャリと流れるような動作でプロフィールのQRコードが撮られ、そのままフレンド通知が来る。こちらの承認まで手を伸ばして押す徹底ぶりだ。
「オレ、全員フルネームで入れてるから入力してくれるか?」
言って、俺の名前の設定画面でわたされる。十万以上もする最新機種の画面に、俺のアイコンの、自宅の庭のヒマワリが写っている。
「藤田ご⋯⋯なんて読むんだ?」
「藤田護琅。ちょっと身の丈に合わないゴツい名前でお恥ずかしい」
「そうか? 字面カッコいいな。好きじゃないのか?」
「いや、まぁ、好きは好きだよ。一生残る親からの贈り物だしね」
「なら誇ればいいだろ。フジタゴロウ⋯⋯なんか時代劇の⋯⋯」
「それはマコトな俳優さんの話?」
「誰のことだ?」
「えっ君らくらいの年齢、仕事人知らないの、まさか」
「知らない。そうじゃなくて、なんか幕末くらいの」
「新選組の斎藤一ならフジタゴロウだけど、あれは五つの方の漢字だね」
「あっそれ、斎藤一。アニメで見た」
「随分古いアニメ見てるね」
「サブスクにあったぜ。確か⋯⋯ほら」
「サブスク⋯⋯。って、これ俺が知ってるヤツじゃない」
「違う作品か?」
「いやなんか⋯⋯うわ、この放送年。新しく別でアニメ化してたのかぁ」
結局支払いは俺がトイレ行ってる間に済まされてしまった。
卒がなさ過ぎておじさんは帰宅後のお礼メッセージに小一時間悩んだ。
『今日は無事帰り着きました。パエリアうまかったね。ごちそうさま』
まっさらなフォーマットに書き込んだメッセージ。続けて送った、ありがとうございましたと土下座している猫のミニイラスト。
既読は風呂に入ってる間についたが、特に返信はなかった。それにどこか安堵するような、それでもやっぱり残念なような、自分の心の動きをおもしろく思いながら、俺はその日眠りについた。




