1 それでも人生案外やっていける
「お待たせして申し訳ございません。カスタマーコールセンターの中山が担当させていただきます」
そこかしこで繰り返される応答。遠いながらもハキハキとした発声に、意識は引き寄せられる。デスクナンバー十三番。俯いて位置の下がっていた眼鏡を戻しながらちらりとうかがえば、気負いの強い新人の顔が目に入る。一ヶ月、魔の期間は過ぎれど処理件数の伸びは悪い。
そのうちに注視していた先で手が挙がる。顔は強張り、瞳には薄い膜が張っている。入力されている十三番の内容へ即座に目を走らせる。規約の確認もれによる食い違い。典型的なクレームだ。ヘッドセットの位置を整えて手を挙げ返し、後を引き取る。
「大変ご不便おかけしております。コールセンター室長、藤田が代わって対応させていただきます」
通話の向こう側、相手の声音に少しの動揺が出ている。立場のある年配の男というだけで、相手は少し冷静になることがある。こういう時、女性の生きにくさを逆に感じてしまう。
ま、生きにくさなんて、誰にでもあるか。
「藤田さんって、良い声してますね」
休憩時間が一緒になっての開口一番がこれとは予想できなかった。
「そう、ですか?」
予想外過ぎてオウム返しがせいぜいだ。
「絶対良い声ですよ。低いとか、深いとか言うより、なんていうか……まるい?」
「ありがとう、ございます?」
「コールセンターのお仕事長いんですか?」
「まぁ非正規で役職もらうくらいには」
「何年ぐらい? 十五年くらいです?」
「いやそれほどは……十年ぐらいです」
「あれっお若いんですね!」
「あ、違います。ここで十年なだけで、もう四十のおじさんですよ」
「ええー、でも髪とか割とオシャレですよね」
言われて恥ずかしくなり、パーマのかかった暗めの茶髪をくしゃりと握る。
「コレは担当さんにお任せでやってもらってるので。後はスーツマジックでしょう。あまりおじさんをからかうもんじゃないですよ」
「おじさんって口にしちゃうと、おじさんになっちゃうんですよ。自信持ってください!」
厄介クレーマーに出くわしたフォローのため声をかけたが、なぜか自分の方が応援されている。おかしい。
それからも中山さんは、言葉を重ねてくる。眼鏡はもう少し太フレームの方が似合いそうだとか、今時腕時計とかいるのかとか。
「中山さん」
会話の間に、名前を呼ぶ。少し顔を見つめて沈黙を作ると、瞳が揺れる。
先程、涙の気配があった瞳。
「お仕事頑張ってくれて助かってます。でも今は休憩時間だから、僕相手にまで頑張らなくていいんですよ」
化粧できっちり持ち上げられたまつ毛が少し下りて、瞳に影を作る。
「……藤田さんは何で平気なんですか?」
「まず僕はいい歳した男なんで、中山さんほど強くは言われないことが多いです」
「ずるぅい……」
「ここではそうですね。それから、どんなに怒鳴られても別に殴られるわけじゃないしなぁと、いつも思ってます」
「……対面クレームよりマシってことですか?」
「というより、どうせコイツ俺の人生に関わりないヤツだしな、です。路傍の石が喚いても、俺を躓かせに動くわけじゃないので。しょうがなくこっちからしゃがみ込んで聞いてあげてるんです」
「ろぼう?」
「道端ですね」
「……今度思ってみます」
「正当なお客様にはきちんと対応してくださいね」
基準を作れば、世の中はそれほど怖くない。
叔父に殴られるほど痛いことは、なかなかない。
言葉もろくに交わせず両親を亡くすことほどつらいことは、なかなかない。
「おっ、藤田くんいたいた。いいお店見つけてね。今日飲みに行こうよ」
単身赴任の上司の愚痴につき合わされるほど困ることは、──うんまぁ別に困ってはないな。
※ ※ ※
「でさぁ、子供もいないし金もかかるし、戻るのは年始と盆だけでいいんじゃないかって。冷たくない? あ、藤田くん空いてる。飲んで飲んで」
四十の独り身男ほど、飲みに誘いやすい人間もいないらしい。
コミュニケーションと言えば宴会。人間関係のフォローと言えば酒。そういう昭和な時代に育まれた部長の荒木さんは、セクハラ、アルハラ、カスハラ、何でもハラスメント扱いの今の世の中で迷子だ。
その結果狭間の世代である俺を、良くも悪くも連れ回したがる。
それ自体は嫌がることでもない。
自分が絶対に持てない、普通の家庭を持つ荒木さんの話は、俺にはなかなか興味深い。子供たちが巣立ってしまった後の、夫婦間の微妙な関係の愚痴も、当人には申し訳ないがあまりに違う世界の話でおもしろい。
ただシンプルに、大して酒の飲めない俺に奢りだからとどんどん飲ませようとしてくるのは勘弁願いたい。
ふらついて壁に手をつく。
終電の時間ギリギリまで付き合ったのが、マズかった。完全に最後の一杯、徳利の底に残っていた分を押し付けられたのがトドメだ。割と本気で美食家で、連れて行かれる店の食事が本当においしいのも、荒木さんの誘いを断り難い理由の一つだ。
動かなければ終電の時間は刻一刻と迫る。
動けば吐き気が込み上げる。
動かなくても体調は最悪だ。
せめてどこか、コンビニか公衆トイレか、無駄にでも年を食ったおじさんの節度として、駆け込みたい。
なけなしの意地を振り絞り、足を前に進める。
「──大丈夫か?」
踏ん張りがきかずに膝が折れたところで、強く腕を掴まれた。回転の悪い頭で、二の腕から続く手を辿って、隣に立っている男に目を向ける。
反射的に恐怖心が働くのは、人間としての格の違いのようなものを感じ取ったからだ。
アッシュグレーの、スタイリングされた短い髪。ともすれば年寄りめいた色合いだが、若いながらも鋭さのある顔立ちによく似合っている。一目見て多いなと感じるピアスも、アスリート感のある肉体で着ている服も、どれもこれもが自分を理解した上で選んでいる感じがある。
一言で言えば、出で立ちすべてに自信がみなぎっている。
──心の底から隣に立ちたくないタイプだ。
一瞬吐き気も吹き飛ぶほどに思うが、脳みその上では忘れられても身体はそうはいかない。逃げようとした身体はただ傾くだけで終わり、離れようとした人間に再び支えられる羽目になる。
「す、すみません」
「歩けそうにないのか?」
「大丈夫、ですっ。お構いなく……っ」
大きく声を張ったせいで胃の中が暴れる。咄嗟に口を押さえて喉を締めるが、あの独特の酸味が喉の感触と共に残る。本格的にマズい。
「吐けるなら吐いちまった方が楽だろ」
世にはばかることなどない若者に、おじさんの矜持は理解されない。
「トイレに……」
「この辺の店ほとんど閉まってんぞ」
変にショートカットで脇道に入り、駅に向かったのが悪かった。まだしも、深夜も営業している奥の区画に向かった方が救いがあっただろう。繁華街を離れた路地からは、コンビニも公衆トイレも遠い。
「……終電に駆け込みに走りたいんじゃないんだな?」
歩き始めは第一目標だったが、もう今は醜態をできるだけ軽くできたら、それだけで御の字だ。
「便所があって、休めりゃいいか?」
うなずく動きですらまずそうで、どこの誰だかも知らない若者の手に、自分の手を添えることで同意を示す。
格好悪さを嘆く余裕すらなく、青年に縋り付いて、静まり出した繁華街を歩いた。
便器に顔を突っ込む勢いで吐いて、小一時間ベッドに横になると、さすがに落ち着き出した。
「落ち着いたか?」
「無理です」
肉体はそうで、精神は反対に動揺の極みだ。
「……救急車呼ぶか?」
「ちっ違います、大丈夫ですっ、落ち着きました!」
本気で案じる声で言われて、慌てて上半身を跳ね起こす。途端にマシになったとは言え、頭が揺れた。ベッドに倒れ込む前に、隣でくつろいでいた青年の腕にまた支えられる。
そのことに、余計に動揺は深まる。
「いまいちアンタが何したいのか分かんねぇんだが」
「若者に介助される情けない中年の状態から脱したいです……」
「だったらしっかり休んで回復しろよ」
まったくもってその通りだ。飲み過ぎた中年はそうやって体調の回復を図るしかない。
が、人生初のラブホテルでそれは難しい。
「何でそこに……」
再び仰向けに寝転んだベッドで、隣で暇つぶしのスマホを再開しだした若者に問う。
「容体急変したら目覚め悪ぃだろ」
「……ごもっとも」
一瞥もなく告げられ納得する。どこまでも善意で、精神を乱している自分がどこまでも情けない。
ラブホのベッドってデカいんだなぁと、できるだけ純粋な好奇心だけを働かせて、目を閉じた。
「大変ご迷惑おかけしました」
「誠意とかは分かるが、絵面がカツアゲになってるから万札出しながら土下座は止めろ」
最上級取り扱い注意爆発物クレーム案件以来の土下座を披露すると、頭上から本当に嫌そうな声が返ってきたので身体を起こす。
「そんだけ腹曲げても吐き気ないなら、もう大丈夫だな?」
「ご心配おかけしました」
「とりあえず無料のワンドリンク、ウーロン茶頼んどいたが飲むか? 他のか、あったかい方が良さそうなら追加入れる」
「お気遣い痛み入ります。ウーロン茶いただきます」
全力低姿勢で答えると、青年の形のいい眉根が寄る。何か言われるかと思ったが、青年はベッドを下りた。テーブルの方からウーロン茶を片手に戻り、わたしてくれる。
ベッドの端に腰掛ける体勢になり、結露だらけでびちゃびちゃのグラスを受け取った。ストローを無視して一息にあおる。氷の溶けた薄いウーロン茶でも、乾いた身体にはしみる。
「あの……それで……お支払いは」
飲み終わったグラスを手に、目前に立った青年を見上げる。シーツの上に置いた一万円札で足りるかどうか。
「……オレはパパ活も援交もしにきた覚えはないんだが」
「違う違うっ。いやお礼とか……部屋の支払いとか、どうしたものかと」
「はぁ? 支払いは最後に……ああ」
何らかの納得の後に札に手が伸びた。三枚抜かれて、それが折りたたまれて青年のデニムのポケットに消える。
「金曜でムダに高い部屋しか空いてなかった。ツリは後で返す。宿泊で入ったから始発動くまでゆっくりしてけ」
これはラブホ初心者バレたな。
「何から何までご親切に。面目ございません」
ひくりとまた青年の眉間に力がこもる。
「アンタ、結構歳食ってるクセになんでオレに敬語なんだ?」
「職業的に敬語の方が異常事態への対応力が上がります」
「オレを異常事態扱いしてんのか」
「滅相もな──」
言葉は半ばで視線によって封じられる。上背があって、格闘歴でもあるのか首も太い。よくよく考えるとなかなか物騒な感じの人間と二人きりだと震え。
「キリヤだ」
「……え」
急な名乗りに毒気を抜かれる。
「二十五歳、ショップ店員。今日は顔出したクラブで会いたくないヤツ見つけて早帰りする気だった。アンタは?」
「……藤田、四十歳。上司とのサシ飲みで飲み過ぎました」
「昭和くせぇ」
「時代ってのは積み上がるものであって、急に昨日今日と切り替わるわけじゃないんですよ」
「一回り以上年下に介抱された中年のありがたい説教だな」
「お恥ずかしい限りです」
「冗談だよっ、だからやたら自然な動きで土下座すんな!」
キラキラしさと猛々しさの両方を兼ね備えた結果、大した近寄り難さを放つ青年ではあったが、話せば当たり前だが普通の人間だった。見かけた会いたくない相手というのが元カノという辺り、とても普通の青年だ。
あと暇つぶしのテレビゲームで負けると熱くなる辺りも、とても。
……ってか、ラブホでゲームできるんだなぁ。
そしてラブホの精算は部屋でする。多分、二度と活用する機会のない知識だ。
「ほら、ツリ」
「結構です。少ないですが若者の貴重な時間を割いていただいたお礼に」
「ラブホに一緒に入った対価みたいになるから止めろ。礼って言うなら」
言って革の財布を取り出し、取り出した紙片を差し出していた紙幣に重ねてくる。
「ご来店お待ちしてます」
少しかしこまりつつも、本人のフランクさは隠せていない敬語だ。
風合いのある紙片に、銀色で刻印されたデフォルメ眼鏡アイコンと文字。
『金堂眼鏡店、矢崎桐哉』
「……眼鏡かけてませんよね」
「そこ気にするかぁ」
何がツボに入ったのか、出会ってから一番気の抜けた笑みがその顔には浮かんでいた。




