9 変わる世界の端っこで
エビしんじょが震えるほど美味しい。
出汁と共に広がる海の景色に、ぐっと冷えた日本酒を呷ると、口の中に竜宮城が誕生する。つまり口中が宴会。飲めや歌えや。
「藤田くん、次の更新時期で正社員ならない?」
「ちょっと酔っぱらってました。もう一度お聞きしてもいいですか?」
「藤田くんは話を聞かなくなってからが本番だね。さ、飲んで飲んで」
「ねぇ女将さん」なんてカウンターの向こうに言いながらも、荒木さんは俺の猪口に注ぐ手を止めない。
「こちら荒木さんが頼まれたお酒では?」
「藤田くん自分じゃ頼まないじゃない」
そりゃあまり飲める人間ではないので。
今日も飲み過ぎで終わるな。……いたら、怒られそうだ。
アレ、なんか話してなかったっけ?
次は揚げたての天ぷら。抹茶塩の僅かに苦味の足されたしょっぱさと、エビの天ぷらの甘みが極上の相乗効果を生む。
そこに冷えた日本酒。口中に残る美味しさを流しながらも完成する、贅沢な一瞬の味わい。
「美味しい……」
「今度ね、ファイヤしようと思って」
「僕解雇ですかっ?」
「あれ、そういう話だったっけ?」
酔いが軽く覚めた。一旦話に集中しよう。
なるほど英単語の『fire』ではなく略語の『FIRE』──つまり早期リタイアだ。焦ったぁ。
「ファイヤで解雇って意味あるの初めて聞いたよ」
「一時、海外ゲームの簡単な英語翻訳、辞書頼りで手伝ってたので」
「解雇するの?」
「現在の業務に最適な人間以外解雇して最高効率を狙う、パズルゲームでした」
「なかなかシュールだね」
「病んでました」
「回復して良かったよ」
今の俺のことになったな。……まぁあながち間違いでもないか。
「それで、早期退職されて奥さまのいる所へ?」
「うん、子供らのための時間が必要なくなったなら、次は奥さんに費やさないとね。今のままだと邪険にされるから、思い切って奥さんの家業、手伝うことにしたんだ」
いつも注がれてばかりの徳利で、ほとんど減ってない荒木さんの猪口の酒の表面を揺らす。
本当は、医者に止められてて荒木さんはあんまり酒が飲めない。
でも酒の場の雰囲気が好きで、俺を色んな場所に連れて行ってくれた。
「寂しくなります」
「一人でもそう言ってくれる人がいたら、嬉しいもんだね」
最近は慌ただしかったり、怪我したりで、あまり付き合えなかった。本当に後悔は、後からやってくる。
「ま、だからでもないんだけど、藤田くん推しといたから」
「僕、これ以上の責任は……」
「や、ごめん。部長の後釜はさすがに他にいるんだ。ただ藤田くんは本当に真面目にやってくれてるし。このまま都合良く使いつぶそうとするな。頑張ってる子にはちゃんと報いてあげろ。って、最後だし熱く語っちゃった」
だから正社員採用と、荒木さんはにこにこと笑って言ってくれる。
「……四十で頑張ってる子扱いは、ちょっと恥ずかしいですね」
それでも二人の新たな門出に向けて、猪口を打ち合わせた。
「ま、実際の退職まではまだあるし、また飲みに行くの、付き合ってほしいな」
「僕の契約更新もまだ先ですしねー」
未来まで、後悔で終わることのないように。
※ ※ ※
玄関の電気が点いている。
「ただいまー……」
酔っぱらっているせいか、その言葉を口にするだけで涙腺に来る。
「おかえり」
目が潤むのは、応えが返ってくると知っているからだ。
板張りの廊下を、大柄な姿が向こうから歩いてくる。風呂上がりなのか、スタイリングされていないアッシュグレーの髪はぺったりとしていて、印象がちょっと幼い。
あの事件の翌日に、寝袋を抱えてキャリーケースを転がすキリヤ君が現れた時には、本気でびっくりした。
慌てて客用布団を確認したが、案の定カビてた。悲しい。粗大ゴミで出す時、軽々と運んでくれたのには本当に感謝してる。筋肉さまさま。今主流の羽毛布団じゃなくて綿布団だからホント重いのよ。
「ただいま帰りました。今日は遅くなるって言ったのに。僕の世話で最近、夜遊びできてないでしょ? クラブとか、……えー、なんだっけ、あれ、……シーシャっ。とか今時の子はするんでしょう?」
「……ひねり出したな」
酔っぱらいのおじさんは頑張りました。
「別にシーシャは昼からやってんぞ。それにああいうのは、……まぁ恋人募集みたいな時に行ってただけだ。ゴロさんがいるから必要ねぇし、世話焼いてんのは不始末の詫びと趣味」
まろやかに言ってるけど、女の子あさりに行ってたな。しかも前カノさんいる状態でクラブ行って監禁沙汰になったの、俺覚えてるからね。
キリヤ君は多分、俺が思うほど、『イイ子』ではない。……いや、おそらくかなりやんちゃだ。
でも、ま、今が嬉しいので目をつむっちゃおう。駄目な大人だ。
「変に手ぇ使って、傷口開いたりしてないか?」
「ないです。もうほとんど、大丈夫だと思うよ」
「負傷三日後に同じこと言って出勤した人の言うことは信じられねぇ」
「左手器用なの、見せたじゃない」
業務の片手タイピングや、左手のマウス操作に問題はない。なんならショートカットキーの把握も抜かりなく、マウス操作自体省きがちだ。引きこもり時代にとった杵柄だ。右手で食事をしながらしょっちゅうコーディングしていた。今の業務ぐらいなんとでもなる。
食事もパンやおにぎりにすれば食べるのに支障ない。大体怪我した右手だって防水シート的な絆創膏状態で、風呂に沈めるレベルでなければ使っても大丈夫なのだ。
本当は、そこまでの世話は必要ない。
「僕もお風呂入ってくるんで、シートの張り替えお願いできますか?」
「分かった」
だからこのひと時は、俺の甘えだ。
駄目な大人だぁ。
※ ※ ※
「ほんでまぁ雨降って地固まったんか」
「地獄の釜の蓋も開けてみるもんだねぇ」
手の怪我に一瞬で気付かれ、実ってしまった恋の顛末を語る。いい歳した中年男の語る恋バナを、谷さんはハサミも休めずに淡々と聞いてくれた。
自分で語りながら良かった良かったと、像のボヤけた鏡を見ながら安堵を呟く。
今日は姿勢を正されない。1つの成長のようで、我ながら誇らしい。
「前から薄々思っとったが、『地獄の釜』の使い方間違ぉとるで」
「えっ」
「釜の蓋が開くいうことは、釜休みで空いうことや。働き過ぎんでたまには休め言うことわざやな」
「ええっ!?」
「蓋に漬物石置くとか、どんだけのブラック企業かと思たわ。──せやから、俯くなっちゅーに!」
はずっ、恥ずかしい! いい歳した大人がそんな言い間違い!
俺、キリヤ君とかに言ってないかな? 言ってないよね?
「開けたらあかんもんの例えやったら、パンドラの箱やないか?」
「おしゃれ過ぎる……」
「希望ぐらい持てや」
パーマも緩んできたし次辺り髪型変えるか、なんて話しながら、椅子を立ってレジの方へと歩く。
クレジットカードの通信待ちの時間で、ふいに谷さんが呟いた。
「浦島太郎の玉手箱もええかもな」
「……その心は?」
「過去で固定されとった浦島太郎が、玉手箱の効果で無理やり今を再開させられる。……結構な劇薬やったんやろ?」
谷さんは、ホントに師匠だなぁ。
俺の一歩一歩はとってものろかった。
時計をし、髪型を変え、スーツを買い、どうにかこうにか時間に置いていかれないように走っていた。死にたく、なかったから。
なのに彼に会ってからは怒涛で、眼鏡を買い、私服を揃え、それから──年下の恋人ができた。生きたい、理由ができた。
取ってしまった四十という歳はもうどうしようもないけれど、俺が『生きる』にはそれだけの時間が確かに必要だったんだと思う。
「次ん時連れて来ぃ。新しい髪型、恋人くんと決めたるわ」
入り口の戸を開け、見送りがてら谷さんが言ってくれる。
「最強タッグだ」
「……一回全面協力しとかんと、なんや怖い気がするんよなぁ」




