第9話(5) 嘘じゃない気持ちの名前
その日の夜。
虎太郎は自分の部屋で、ベッドに寝転がっていた。
ゲームを起動する気にはなれなかった。コントローラーはローテーブルの上に乗ったままだ。
動物占いの本は、石上が忘れていったまま、棚の端に置かれている。返さなければならない。そう思うと、また石上に会う理由ができた気がして、虎太郎は少しだけ落ち着かなくなった。
部屋の中は静かだった。
この前まで、ここに石上がいた。炭酸ジュースを飲みながら、占いの話をして、ゲームをして、笑って、肩を寄せて寝落ちした。その前には、風邪の看病にも来た。おかゆを作ってくれて、俺の手を握ってくれた。
虎太郎はベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。
奥から、小さなメモを取り出す。石上が看病の翌朝に残していったメモだ。
『薬は朝食後。ゼリー冷蔵庫に入れてある。おかゆも残りを冷蔵庫へ入れたから、温めて食べて。無理しないこと。石上朋也』
最後に、小さな星のマーク。
捨てられなかった。それどころか、見つからないように引き出しの奥にしまっていた。
誰に見つかるというのか。ここに来るのは、せいぜい根石くらいだ。でも、見られたくなかった。石上が自分のために残していったものを、こんなにも大事にしまっていることを。
虎太郎は、メモを見つめる。胸の奥が痛くなった。
でも、朝の講義室で感じた痛みとは少し違う。石上が距離を置いたことへの寂しさ。石上の優しさを思い出すあたたかさ。罪悪感。嬉しさ。全部が混ざり合っている。
「……なかったことになんか、できるわけねぇだろ」
ぽつりと呟いた。
嘘告白だった。罰ゲームだった。それは消えない。
でも、猫カフェで一緒に笑ったこと。喫茶店で手を取られて、心臓が跳ねたこと。裏庭で恋人だと囁かれて、どうしようもなく動揺したこと。風邪の夜、石上の手に安心したこと。部屋で朝までゲームをしたこと。
その全部まで、嘘だったことにはできない。
石上が好きだと言ってくれたことも。自分がそれを嬉しいと思ってしまったことも、なかったことにはできないんだ。
スマホが震えた。石上からだった。
『おやすみ、虎太郎。今日はちゃんと休んでね』
短いメッセージ。いつもより控えめで、それでもやっぱり、やさしい。
虎太郎はしばらく画面を見つめた。そして、ゆっくりと返事を打つ。
『おやすみ』
打ってから、少し迷う。そのあとに、もう一文だけ足した。
『また明日』
送信する。すぐに既読がついた。
そして、石上から返事が来る。
『うん。また明日』
虎太郎はスマホを胸の上に置き、天井を見上げた。「また明日」――たったそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなる。
恋人ごっこは終わった。でも、何もかもが終わったわけではない。
明日も会う。明日も話す。その先のことは、まだ分からないけれど。
「……明日、ちゃんと顔見て話すか」
虎太郎は、石上のメモをもう一度見てから、そっと引き出しに戻した。
嘘じゃない気持ちの名前を、まだうまく呼べない。けれど、それが確かに自分の中にあることだけは、もう否定できなかった。




