第9話(2) 嘘じゃない気持ちの名前
石上はもう、恋人ごっこを終わらせた。だから、今までみたいに甘い言葉をかけてこない。手を取ったりしない。虎太郎の反応を面白がって、近づいてきたりもしない。
正しい。それが正しいんだ。
なのに。
――どうしようもなく、物足りない。
そう思ってしまった瞬間、虎太郎は自分の中で何かが決定的に負けた気がした。
何でだよ。何で物足りないなんて思うんだよ。
今までだったら、石上はもっと遠慮なく甘えてきた。ラッキースポットだとか、手相だとか、動物占いだとか、何かしら理由をつけて距離を詰めてきた。
今日だって、いつもの石上なら言ったはずだ。
『体調良くなって安心した。虎太郎不足だったから、今日は隣に座って充電していい?』
そういうことを、平気な顔で。
言われたら、虎太郎は怒った。うるせぇとか、調子に乗るなとか、言い返した。そのやり取りが、心地よかったはずなのに。
今日はない。石上がちゃんとしている。ちゃんと距離を取っている。
それが、どうしようもなく虎太郎の調子を狂わせた。
講義が始まっても、いつも以上に内容が頭に入ってこない。
隣に石上はいる。でも、いつもの石上ではない。講義中に小さな紙を渡してくることも、占いのコピーを差し出してくることも、ペン先で虎太郎のノートを示して「ここ、違うよ」と小声で教えてくることもない。
もちろん、手に触れてくることも。
ただ、隣で静かに講義を聞いている。真面目な学生として、普通に。
虎太郎は、ペンを握る手にぐっと力を込めた。
何を期待しているんだ、俺は。
距離を詰められたら困るくせに。触られたら照れるくせに。甘いことを言われたら、すぐに怒鳴るくせに。
いざ何もされなくなると、こんなに落ち着かないなんて。どれだけ身勝手なんだ。
講義が終わると、石上はノートを閉じた。虎太郎も慌ててペンを置く。
ここで何か言われるのではないかと思った。『今日、時間ある?』『少し話せる?』と。
虎太郎は答えを用意していたわけではない。でも、何か聞かれるとどこかで思っていた。
しかし石上は、鞄を手に取ると、穏やかに言った。
「じゃあ、またね」
「……え」
虎太郎は思わず声を漏らした。石上が不思議そうに振り返る。
「何?」
「いや……」
何でもない。そう言うべきだった。でも、口が勝手に止まる。
何で帰るんだよ。今までなら、もっと話しかけてきただろ――そんなこと、言えるわけがない。自分が寂しがっているみたいではないか。
「……何でもねぇ」
「そっか」
石上は少しだけ微笑んだ。それが、前よりずっと寂しそうに見えて、虎太郎の胸が痛む。
石上はそのまま、教室を出ていった。
虎太郎は、しばらく席に座ったまま動けなかった。
何に腹が立っているのか分からない。石上が距離を取ったことか、それに物足りなさを感じている自分か。たぶん、両方だった。




