第9話(1) 嘘じゃない気持ちの名前
恋人ごっこは、終わった。
石上朋也は、そう言った。
罰ゲームから始まった恋人ごっこは、ここで終わり。
ちゃんと仕切り直したい、と。
その言葉は、針田虎太郎の胸の奥にずっと残り続けていた。
終わった。終わらせた。
それは、正しいことのはずだった。
最初の告白は嘘だった。根石が勝手に送った、罰ゲームのLINE。
石上は最初からそれに気づいていた。
それでも、嬉しかったから受け入れたと言った。好きだったから、少しでも一緒にいたかったのだと。
(だからあの時、あいつは……)
喫茶店で手相を見たとき、「本当に嬉しかったから」と少し切なそうに笑った石上の顔が、今になって鮮明に蘇る。あの時にはもう、あいつは全部知っていて、それでも俺の隣にいてくれたのだ。
だからこそ、もう嘘のまま続けるわけにはいかない。
虎太郎だって分かっている。分かっているから、逃げないと決めた。
ちゃんと考える、と石上に伝えた。
それなのに。
「……何なんだよ、これ」
翌日の講義室で、虎太郎はノートを開いたまま、小さく呟いた。
まだ講義開始前。教室の中はざわざわと騒がしい。友人同士で話す声、椅子を引く音、スマホを触る音。いつもの、なんてことのない選択講義の前の空気。
虎太郎は、いつもの席に座っている。
隣の席は空いていた。
今までなら、石上は当然のようにそこへ来た。何も聞かずに、当たり前みたいに隣へ座って、「おはよう、虎太郎」と少し嬉しそうに笑った。
それが当たり前になっていた。なってしまっていた。
なのに、今日は。
「おはよう、虎太郎」
声がして、虎太郎は弾かれたように顔を上げた。
石上が立っていた。
いつも通りのやわらかい声。いつも通りの白いシャツに、薄手のカーディガン。いつも通り、悔しいくらいに整った顔。
でも、何かが決定的に違った。
「……おう」
虎太郎が少し遅れて返事をすると、石上は穏やかに微笑んだ。
それから、虎太郎の隣の空席を見て、少しだけ間を置く。
「ここ、座ってもいい?」
「……は?」
思わず、変な声が出た。
石上の表情はいつも通り優しい。でも、踏み込んでこない。勝手に座らない。当然みたいに隣に来ない。ちゃんと、俺の許可を求めている。
虎太郎は、胸の奥が変にざわつくのを感じた。
「別に、聞かなくてもいいだろ」
「でも、今は聞いた方がいいかなって」
「……」
「嫌なら、別の席にするよ?」
「嫌とか言ってねぇだろ。……座れば」
虎太郎がぶっきらぼうに言うと、石上は「うん」と小さく頷いて隣に座った。
いつもと同じ位置。同じ距離。
なのに、全然違う。
石上は、前より少しだけ身体の向きを控えめにしている。虎太郎の机に肘を乗せたりしない。プリントを覗き込んでこない。手元を見て、何か占いの話を振ってくることもない。
「体調はもう平気?」
石上が静かに聞いた。
「平気」
「そっか。よかった。無理はしないでね」
「してねぇよ」
「うん」
会話が終わった。終わってしまった。
虎太郎は、ノートに視線を落とした。
何だこれ。普通だ。普通すぎる会話だ。
体調を聞かれて、平気だと答える。それだけ。
何もおかしくない。むしろ、これが大学生としての「普通の距離」なのかもしれない。




