第8話(6) 砂の城が融けるとき
虎太郎は、自分がいつの間にか、そこまで石上の存在に依存していたという事実に、今この瞬間に気づかされていた。
「……分かった」
掠れた声で、どうにか応じる。
石上が、小さく気深く頷いた。
「うん」
「でも……、」
虎太郎は言葉を繋いだ。石上が顔を上げる。
「考える。お前のこと、ちゃんと……真面目に考える」
「……うん」
「もう、絶対に逃げねぇから」
その言葉は、石上への誓いであると同時に、自分自身への不退転の決意でもあった。
石上は、少しだけ愛おしそうに目を細めた。
「ありがとう、虎太郎」
「礼なんて言うな。俺が全部悪いんだから」
「ううん。嬉しいよ。虎太郎が、そうやってちゃんと俺と向き合おうとしてくれるのが」
また、胸の奥がくすぐったいように痛くなる。虎太郎は耐えかねて視線を落とした。
「……俺も、ちゃんと謝る。改めて、お前に」
「もう、さっき十分聞いたよ?」
「まだ足りねぇ。……あと、今度、根石の奴にも絶対にきっちり謝らせるからな」
「あはは、うん」
「土下座させる。なんならあいつのスマホ叩き割る」
「そこまでする必要はないかなぁ」
「俺の気が済まねぇんだよ!」
石上は、くすくすと声を立てて笑った。ようやく、いつもの石上らしい、柔らかくて楽しそうな表情だった。虎太郎はそれを見て、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜く。
でも、完全には安心できない。
関係は、確実に変わってしまったのだ。嘘告白から始まった、長くて短い「恋人ごっこ」は、今この場所で、完全に幕を閉じた。それは、二人の関係性における、決定的な一つの区切りだった。
石上は、丘の下のキャンパスへと視線を向けた。
「……そろそろ、戻ろうか」
「……おう」
二人は並んで、丘を歩き下り始めた。
いつもより、ほんの少しだけ、お互いの距離が遠かった。
手は触れない。肩も触れない。
その、わずか一歩分の距離が、やけに寒々しくて、狂いそうなほど気になる。
前なら、石上が当たり前のように距離を詰めて、勝手に近づいてきた。手相を見ると言って強引に手を取ったり、耳元でからかうように囁いたり、部屋で重いくらいに肩を寄せてきたり。
けれど今の石上は、節度を守るように、きっちり一歩分だけ離れて歩いている。
たったそれだけのことが、どうしようもなく胸を焦立たせた。虎太郎は、何度も隣を盗み見そうになるのを、必死に理性で抑え込んだ。
校舎の入り口まで戻ってきたところで、石上が足を止めた。
「虎太郎」
「何だよ」
「今日……追いかけてきてくれて、本当にありがとう」
「……別に。あいつに言われたからだし」
「ふふ、それでも嬉しかったよ」
「……おう」
石上は、いつも通り穏やかに、綺麗に笑った。
「じゃあ、またね」
そう言って、彼は今度こそ先に、自分の講義室の方へと歩いていった。
虎太郎は、その背中が人混みに消えるまで、その場に立ち尽くしていた。
追いかけた。ちゃんと本音を話した。謝りもした。全部が最悪の結末で終わったわけじゃない。
それなのに、どうしてこんなに、胸の奥がズキズキと痛むのだろう。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。画面を見ると、要からのLINEだった。
『大丈夫か?』
虎太郎はしばらくその文字を睨みつけたあと、怒りを込めて短くフリックする。
『大丈夫なわけねぇだろ、バカ』
すぐに既読がつき、返信が来た。
『ごめん。本当に、本当に悪かった』
要の文字を見て、虎太郎は不思議と、それ以上怒鳴りつける気力を失ってしまった。
根石が悪かったのは間違いない。けれど、自分も同じくらい悪かった。そして石上も、すべてを知りながら、傷つく覚悟でそれを受け入れていた。
誰か一人だけのせいにするには、もう、二人の状況は進みすぎていて、重すぎた。
虎太郎は、スマホを壊れそうなほど強く握りしめた。
石上は、好きだと言った。占いの不確かな力に頼るのではなく、自分の真っ直ぐな言葉で。
そして、嘘の関係を、自らの手で終わらせた。
今度は、自分が答える番だ。
「……逃げねぇよ、絶対に」
小さく呟いた言葉は、風の音に消えた。
言葉にしてみると、身体が震えるくらい、少しだけ怖かった。けれど、もう二度と逃げたくなかった。
虎太郎は、石上が歩いていった通路の先を、じっと見つめた。
胸の奥の痛みは、まだ消えない。けれど、そのひび割れた痛みの隙間から、これまでになく、はっきりとした温かい気持ちが芽を出し始めているのを、自覚せざるを得なかった。
それが、一体どんな名前の感情なのか。
虎太郎は、もう本当は、とっくに気づいている。
ただ、それを「恋」だと認めるには、まだほんの少しだけの時間と、不器用な自分を引き剥がすための、勇気が必要だった。




