第2話(1) ラブ度100%のプリント(ただし、机の下で開くこと)
翌日。
針田虎太郎は、いつもより少し早く大学のキャンパスに到着していた。
別に真面目になったわけでも、講義に遅れないためでもない。ただ、部屋にいても落ち着かなかったのだ。
昨夜、何度もスマホを見た。
石上朋也とのトーク画面を開いては閉じ、閉じては開くたびに頭を抱えた。
【好きだから、付き合ってほしい】
自分のアカウントから送られた、最悪の一文。
【いいよ。付き合おう。また、学校で】
石上から返ってきた、さらに最悪な返事。
そのせいでほとんど眠れず、目を閉じればハートを抱えた猫のスタンプが脳裏に浮かび、ついでに元凶である根石要の悪い笑顔までチラついた。あいつは絶対に許さない。廊下を歩きながら、心の中で何度目かもわからない呪詛を吐く。
今日は石上と同じ選択講義がある。グループ課題の関係で席が近くなることも多い。避けようと思えば避けられなくもないが、そんなことをすれば余計に話がこじれるのは目に見えていた。
だから、ちゃんと直接説明する。
昨日のLINEは罰ゲームだった。根石が勝手に送った。自分の本心ではない。申し訳ない――そう言えば終わる。終わるはずだ。
「……よし」
講義室の前で、小さく息を吐いた。ここで逃げたら終わりだ。すでにだいぶ終わっているが、これ以上の破滅を防ぐには今しかない。
ドアを開けて中に入り、いつも座るあたりの席に腰を下ろした。まだ人はまばらで、数人の学生がスマホを見たり友人と雑談したりしている。
鞄からノートと筆記用具を取り出す。普段なら講義が始まる直前までスマホでゲームをするのに、今日はそんな気分にはなれなかった。スマホを見れば、嫌でもあのトーク画面を思い出してしまう。虎太郎は画面を伏せて机に置いた。
しばらくして、講義室の入り口が少しだけざわついた。
反射的に視線を向けると、石上朋也が入ってきたところだった。
白いシャツに、薄手のカーディガン。いつも通り清潔感があって、独特のやわらかい空気をまとっている。ふわっとした髪が、窓から差し込む朝の光を受けて少し明るく透けていた。
入り口近くにいた女子学生が「あ、石上くん」と声をかけると、石上は穏やかに笑って軽く応じる。
そのまま、彼はまっすぐこちらを見た。
目が合う。虎太郎の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
違う、別に照れたわけじゃない。昨日の今日だから気まずいだけだ。ただの生理現象だ。
石上は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと口元を緩めた。だが、いつもの余裕たっぷりな笑みとはどこか違う。なんというか、ほんの少し照れているように見えた。
……いや、見えただけだ。気のせいに決まっている。
虎太郎が硬直している間に、石上は迷いのない足取りでこちらへ歩いてき、流れるように隣の席へ滑り込んできた。
「……」
「……」
近い。隣なのだから当然だが、昨日までは何とも思わなかった距離が、今日はやけに近く感じる。喉の奥が妙に干からびていくようだった。
ここだ。ここで言うんだ。講義が始まる前に、すべての誤解を解く。
「あ、あのさ」
声が少し上ずった。自分でもわかるくらい変なトーンだった。
石上がこちらを振り向く。
「うん」
返事は短かったが、彼の耳の裏がうっすらと赤い。
虎太郎は内心で激しく頭を抱えた。なんでお前が照れてんだよ。照れたいのはこっちじゃなくて――いや、こっちも照れてない。とにかく、そういう初々しい反応をされると非常にやりづらい。
「お、おはよう」
口から出たのは、信じられないくらい平凡な挨拶だった。違う、そこから入る必要はあるが、今言いたいのはそれじゃない。
石上は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……おはよう」
いつもより一段とやわらかい声だった。虎太郎はまたしても固まる。なんなんだこの空気は。昨日までは、講義の資料や次の課題について、普通にビジネスライクな会話をしていたはずなのに。挨拶ひとつが鉄球並みに重い。完全におかしい。
「昨日の、」
虎太郎が本題を切り出そうとした、まさにその瞬間。
ガラガラと音を立てて講師が教室に入ってきた。ざわついていた学生たちがゆるゆると席につき、マイクの電源が入ってスピーカーから小さなノイズが鳴る。
『では、始めます』
終わった。虎太郎は心の中で膝から崩れ落ちた。
なんでこのタイミングで始まるんだ。いや、時間通りなのだから講師は悪くない。むしろもたついた自分が全面的に悪い。わかっているけれど、納得がいかなかった。




