第8話(3) 砂の城が融けるとき
錆びついた非常階段を駆け上がり、校舎脇の狭い日陰の道を抜ける。
視界が開けた。小さな丘の上――。
そこに、石上はいた。
こちらに背中を向けたまま、ぽつんと立ち尽くしている。丘の上を吹き抜ける風が、彼の綺麗な髪をさらさらと揺らしていた。
虎太郎は急に足を止め、激しく肩を上下させた。
息がひどく乱れている。喉が鳴る。
追いついた。けれど、何と言えばいい?
『さっきのは違うんだ』――そう叫びたかった。けれど、違わない。虎太郎が要に放った言葉は、紛れもない事実だ。始まりはただの罰ゲームだった。根石が勝手に送った。誤解を解けないまま、ここまで流されてきた。
だから、違う、なんて嘘はつけない。言えるとしたら、あんな突き放すような言い方をしたかったわけじゃない、という身勝手な弁明だけだ。それも、最高に卑怯な言い訳にしか聞こえない。
「……石上」
肺に残った空気を振り絞るようにして、ようやく名前を呼んだ。
石上の細い肩が、ピクリと小さく跳ねた。けれど、こちらを振り返ろうとはしない。
「さっきのは……、」
言い訳でもいいから、言葉を続けようとした。だが、それを遮るように、石上が静かに口を開いた。
「……いいんだ、虎太郎」
声は、驚くほど穏やかだった。いつもの耳に優しい、柔らかいトーン。
けれどその奥には、ガラスにヒビが入るような、ひどく冷たくて寂しい響きが混ざっていた。
「本当は……最初から、知ってたから」
虎太郎は、文字通り息を止めた。
石上が、ゆっくりとこちらを振り返る。
その顔は、泣いてはいなかった。けれど、当然のように笑ってもいなかった。
今まで虎太郎に何度も向けてくれた、からかうような悪戯っぽい笑顔も、嬉しそうに綻ぶ表情も、真っ赤になって照れた顔もない。
ただ、すべてを諦めたような、酷く疲れ切った瞳で虎太郎を見つめていた。
「最初から……あの告白LINEが、ただの罰ゲームだったってことくらい、分かってたんだ」
ゴーッと、丘の上を吹き抜ける風の音が、やけに鼓膜に大きく響いた。
虎太郎は、返す言葉を完全に失った。
知っていた。石上は、最初から、あの初日から全部――。
「……何で」
ようやく喉の隙間から絞り出せた声は、自分でも情けないほどに小さく震えていた。
「何で、知って……っ、」
「分かるよ」
石上は、どこか自嘲気味に、静かに言った。
「虎太郎、嘘つくのびっくりするくらい下手だし。あのLINE、いくらなんでも唐突すぎた。あんなふうに真っ直ぐ告白してくるタイプじゃないって、見てれば分かるよ。次の日の講義の時も、ずっとバツが悪そうに何か言いたげにしてただろ?」
「それは、」
「根石くんの様子も、泳ぎまくってて不自然だったしね」
「……」
「だから……あぁ、きっと罰ゲームか何かの悪ノリなんだろうなって。すぐに気づいたよ」
石上の言葉には、鋭い怒りの色など微塵もなかった。虎太郎を激しく責め立てるようなニュアンスも、何一つない。
それが、余計に苦しかった。
いっそ怒ってくれた方が、何倍もマシだった。「最低のクズ男だ」と罵倒された方が、言い返せなくても納得できた。なのに石上は、淡々と、壊れたおもちゃを確認するような静けさで事実を並べている。それが、虎太郎の胸を容赦なく締め付けた。
「じゃあ……っ、じゃあ何でだよ!」
虎太郎は唇を血がにじむほど強く噛み締めた。
「何で、知っててOKしたんだよ!? 罰ゲームだって分かってて、なんで付き合うなんて言ったんだよ!」
石上は、痛みを堪えるように少しだけ長い睫毛を伏せた。
数秒の、張り詰めた沈黙。
やがて石上は、ふっと小さく笑った。いつもの華やかな笑みではない。自分という存在を、心底馬鹿にするような、ひどく痛々しい笑み。
「……嬉しかったからだよ」
「……え、」
「嘘でも、罰ゲームでも……虎太郎の口から、俺を『好きだ』って言葉が出てきたのが、どうしても、嬉しかったんだ」
痛い。胸の奥が、物理的に引き裂かれるように痛い。
「ずっと、話しかけたいと思ってた。講義でほんの少し言葉を交わすたびに、もっとこの人のことを知りたいって、ずっと思ってたんだ」
「石上……」
「虎太郎って、感情がすぐ顔に出るし、すぐ怒るし、でもゲームの話になると急に目がキラキラして子供みたいになるだろ? そういうところ、ずっと目が離せなくて、気になってた。……だから、あのLINEが嘘だって分かってても、チャンスだと思っちゃったんだ。これを逃したら、もう一生、虎太郎の特別な場所にいられないかもしれないって思ったら、手放したくなかった」
石上の声が、かすかに、けれど決定的に震えた。
「ひどいよね。全部知ってて、騙されたふりをして、虎太郎の罪悪感に付け込んで、無理やり引き止めてたんだから。本当に……狡くて、ひどい男だよ、俺は」
「ひどいのは、俺の方だろ……っ!」
虎太郎は叫ぶように遮った。ようやく出た大声のせいで、病み上がりの喉が千切れるように痛む。
「俺が、全部悪い! 最初に、あの最初の日にちゃんと言えばよかったんだ! 『これは罰ゲームだ、根石が勝手にやったんだ』って、お前の気持ちを無視して誤魔化し続けた俺が、一番最低だ! なのに俺は……っ」
言葉が、涙の代わりに溢れて止まらない。




